昭和30年代はじめの頃、わが家でも七輪に炭火を起こし、魚を焼いたり、もろぶたをひっくり返した上に七輪を置いて、家族ですき焼きの鍋を囲んだりしていた。冬は茶の間にも客間にも火鉢があり、正月には餅を焼いて食べた記憶がある。プロパンガスが台所の主流になったのは小学校に入った頃だったろうか。炭はだんだん、日常の生活から離れていった。
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『日本木炭史』
- 樋口清之著『日本木炭史』(講談社学術文庫) -
日本の炭の歴史は古い。樋口清之『日本木炭史』(講談社学術文庫版)には、炭は世界の民族に普遍のものだが、わが国の炭の製造技術と品質は世界最高水準に進み、炭と生活との関連がことのほか密接になったとあり、その理由に、石炭石油の燃料使用が遅れたこと、木造床張の日本家屋の無煙燃料としてふさわしいこと、温帯圏の暖房熱源として適していたこと、木材資源の豊富さなどをあげている。
この文庫判『日本木炭史』の原本は昭和三十五年に全国燃料会館の記念出版物として刊行された千二百ページに及ぶ大著である。文庫版は原本の五分の二に内容を取捨選択し編集したものだが、その17頁にこうある。
「日本における火使用の年代は三十数万年前に遡ることが証明された。この新発見の事実は、愛媛県喜多郡肱川村山鳥坂字唐岩谷、下敷水の河辺川渓谷にある石灰岩洞窟中に、前期最新世の各種の動物化石とともに、人類の歯と人類史用の骨器石器にともなって、木炭(一部は消炭、一部は原始的な和炭(にこずみ)・灰・焼土が相当量発見されたのである。(1958年8月以降))この発見は全人類史の上における大発見であるのみならず、日本木炭史の第一章を飾る事実としても大書される重要な発見である」。
日本の炭の最古の遺物が肱川で発見され、日本木炭史の第一章が愛媛で始ったという私にとっては未知の驚くべき事実が記されていた。それで周辺の何人かに聞いてみたが、ほとんど知らない。最近は情報が消費されるスピードが速く、内容より、「世界最古」の方に価値があるから、一度評判になってもすぐ忘れられるのは驚くにあたらない。まして、ダムに水没するかしないかという場所のようだ。
それで内子の友人と二人でその唐岩谷遺跡を訪ねてみることを思いついた。私は蛇が苦手で、この季節に一人で行くのは怖かった。
敷水へ
- 上敷水で道を尋ねたおばあさんたち -
- 上敷水の集落 -
肱川の道の駅で待ち合わせ、県道で河辺に向かった。河辺川沿いの敷水という集落にあるという。最初、河に沿って走る細い道におりたら行き止まりで背引き返し、ダム建設の調査工事が進む県道を奥に入っていくと、分岐に左、敷水の案内表示があった。どんどん上がっていくと、小さな集会所の下でおばあさんが二人やすんでおられた。敷水の唐岩谷を御存知ないですかと聞くと、「ここは上敷水。あー遺跡かな。それは来過ぎじゃ。下敷水じゃ。だいぶもどらないかん。しかし、あんた、あそこは何もない。ここらのものは誰も行かんよ」。場所は分岐からさらに二百メートルほどもどると、集会所があり、そこから少し入った所だという。ダム建設が迷走し、規模がかわったから上敷水は工事区域からはずれたそうだ。「やったー」と思っていたんじゃが、がっかりしたとおばあさんは豪快に笑った。田植えを終わった棚田の向こうにトタンをかぶせた茅葺きの農家が2軒見える。いいとこですねえと言うと「お上手でもそう言うてもらうと気分がいいわい。山におると、町にはよう住まん」とにっこりされた。もう一人のおばあさんは黙ったまま、笑っておられる。
遺跡
- 下敷水の唐岩谷遺跡入口 -
- 石灰岩の洞窟入口 -
- 蜜蜂の巣箱 -
引き返すと場所はすぐにわかった。集会所の建物の下で右に上がる道があり、そこが少しひろがっていたので車を止めた。集会所の建物の上に緑で覆われた石灰岩の崖が聳え、木々の間から白い遺跡の看板が見えた。集会所の脇の細い道を20メートルほど上がったところにある看板には、昭和33年に愛媛新聞社と肱川村共催で、横浜国立大学の鹿間時夫博士、長谷川善和助手、愛媛大学の永井浩三博士などによって実施された発掘調査の内容が記されていた。
山に強い友人に先に進んでもらい、私は後ろからよろよろついて行った。崖の下まで取りついたが、洞窟の入口は人一人がやっと入れるくらいの大きさで、しかも、脆い崖の高い場所にあった。奥はよく見えず、岩の裂け目のようにも見えた。人骨の主要部分こそ発見されいないが、世界最古の木炭と人の臼歯なども発見され、北京原人ならぬ鹿ノ川原人の存在がかつては話題になったというので、私も友人も、コウモリが飛び交うような洞窟を期待していた。しかし、そうではなかったのである。誰も行かないと断言した、上敷水のおばあさんのほがらかな哄笑を思い出し、笑いがこみあげてきた。友人も笑っている。崖の下は、明らかに人為的に平らに広げられており、あるいは石灰を採る時に掘削して洞窟の上屋を切り取ったのかもしれない。なにやらブーンという羽音がしきりにして、甘い香りがただよっている。崖の付け根を見ると、蜜蜂の飼育巣箱がいくつか置いてあってたくさんの蜜蜂が巣箱に群がっていた。巣箱はよく見かけるがこんなに蜜蜂が集まっている所はいままで見たことがなかった。
鹿ノ川原人も世界最古の木炭も、発見当時は注目を集めたようだが、今はすっかり忘れられた存在になっているようだ。
1931年から1939年にかけて、東北大学地質学教室の考古学者であった若き日の鹿間時夫は、栃木県の葛生町の古生代の石灰岩層を調査し、石灰岩の割れ目にたまった第四紀の堆積物の中から、哺乳類など数多くの化石を発見した。されています。鹿間は報告書に、ニホンムカシジカやクズウアナクマなどの新種11種を含む計61種4000点を記載しているそうだ。大洲市役所によれば、同じ石灰岩の採掘場であった唐岩谷の報告書をもとに、亡くなって40年近くになる鹿間氏にかわり長谷川氏が昨年末に現地を訪れ、今後のダム建設にともなう記録保存のすすめ方を決め、市の関係者の手によって記録保存が行われたそうだ。その報告書の内容は未見であり、担当者に聞いてもはっきりとはわからなかった。
私は友人に今日はもう帰りましょうと声をかけ、転ばぬように斜面を下った。前方には河辺川の美しい渓谷が見え、過疎以前の山が荒れていなかった昭和30年代のこのあたりの風景の美しさがしのばれた。
風の博物館
- 集会場の屋根の向こうに河辺川 -
- 集会場の下から遺跡のある崖を見る -
前出の樋口清之の木炭史には、わが国の炭の利用が日常の炊事や暖房から、「あらゆる加工生産に、そして医療・趣味・遊戯・信仰・照明・刑罰」などにひろがったと記され、実用のものを愛し、それをモノ以上の芸術に昇華しようとする日本人の特質から、炭質や炭色、火色が嗜好の対象となって、炭は芸道の一要素にまでなったとある。その日本の炭の最古の遺物がここで発見され、かつて「風の博物館」に展示されていたと愛媛新聞にも書いてあったので、大洲市肱川町の博物館を訪ねてみた。しかし、博物館には展示はなく、学芸員もいないそうであった。指定管理されているそうで、受付の親切な女性は唐岩谷遺跡のことも聞いたことがないそうだ。市役所に電話をかけくれたが、市役所の担当者が風の博物館で聞くとよいと教えてくれたのであるから、これは無駄なことであった。入口には動物のはく製や歌麿の浮世絵のスカーフなどが飾ってあったが、昼が過ぎていたので友人と一緒に、館の見学は取りやめて山を下った。
世界最古のこと
話は飛ぶが、「オンセナート2014」という道後温泉のイベントにあわせて売られている一六本舗の「のぼせ饅頭」というのがある。「日本一の柑橘王国の柑橘と世界最古の炭発祥の地で作った笹炭を合わせて作った饅頭を、食べ口よく仕上げました。」というものだ。世界最古の炭発祥の地がまだ生きているのがうれしくなったので、買って食べたみたが生地が黒い。味は好みで、美味しいという人もあった。私はどちらかというと心地ざらざら感が残る気がした。
思いついて、世界最古の炭を知っているかと、タイで調査に入っているサル学者の古い友人にメールを送った。返事が来た。「現在の人類進化研究では、高度な知性と技術、言語を携えた現代人は、約5.5万年前にアフリカから一挙に世界へ広がったと考えられています。厳しい氷河期ののできごとで、その時期、海面は約200m近くも低下しました。一つのルートは、アフリカからアラビア、インド、インドネシアなどの海岸に沿ってオーストラリアへと約1万年間で到達しています。もう一つのルートは、中東から中央アジアへと進み、そこから南下してアジアに広がった集団。さらに、時間はかかりながらも、北へ北へと寒地適応を進めた集団とがあると考えられています。日本列島への現代人の到達は、正確にはいつかは不明ですが、南から琉球列島を経由した集団と、北への適応を遂げた集団の一部が朝鮮半島経由で流入するルート、さらに北のサハリンから北海道へというの3つの経路が想定されています。いずれにせよ、現代人の日本列島への到達は、2◯3万年前を遡ることはないというのが現代の研究成果です。
もっと古い時代の人類はどうだったのか?アフリカからアジアへの拡散は、遠い昔200万年前のできごとでした。その末裔がジャワ原人や北京原人です。これらの古い時代の人類集団が、数十万年も前から日本列島に到達していたという化石や石器証拠は、これまで発見されたことはありません。
木炭の製造といった高度は技術を持つからには現代人の集団に違いありません。当時の年代決定が間違っていたというのが、妥当な結論です。したがって「最古の木炭が愛媛県から」というのは当時の見方ということになります。この遺跡の年代決定の見直し調査があれば、年代ははっきりするでしょう」。
がっかりした。しかしならば、今さら再調査などしない方がよい。今の方法だって後に見直されるかもしれない。当時は確かに世界最古だったのだ。