過去の連載記事
同じ年の連載記事




第69回 風早一茶の道
 
北条市 浅海原~上難波~八反地 
 小林一茶は、30代の約7年間、中国、四国、九州と西国を巡り、俳句修行の日々を送った。2月の中頃、一茶が伊予の松山への道の途中に歩いたという北条市の「風早一茶の道」を歩いてみた。

 俳諧寺一茶
 伊予の松山を2度訪れ、風早(現在の北条市)の道を歩いた一茶は、いったいどんな風貌の人だったのだろう。明治になってから、一茶を広く世に出した人とされる信濃毎日新聞の記者束末露香(つかまつろこう)が書いた『俳諧寺 一茶』中に、一茶の風貌についての一文がある。原著は、見たことも読んだこともないが、金子兜太著『一茶句集 古典を読む9』(岩波書店)から孫引し、勝手に口語に書き換えてみる。 「今となっては、一茶の風貌を知る手だてはほとんどない。しかし、土地の古老たちに尋ねてみると少しは想像できなくもない。背はあまり高くなく、横に広がって見えるほど肥っていた。顔はでかくて頬はふっくら、目は細く口はでかい。広い額には深い皺が刻まれ、頬骨が張っていて目尻は長く切れていて、鼻は小鼻が大きい。でかい口の唇は厚く、耳たぶは豊かに垂れている。手足はわりと大きく、ことに手の指が太くて節くれ立っていたのだそうだ」。一読して、一茶について啓蒙されることの多かった金子の本には一茶研究で知られる作家瓜生卓造の「長身痩躯の良寛の俤(おもかげ)は薄れ、赫(あか)ら顔怒り肩の一茶が濃くなっていく」と言う表現も引いてあった。
 子供の頃から、一茶というと宗匠頭巾を被ったやせたおじいさんというイメージを持っていたが、お正月にNHKのテレビドラマ『おらが春』(田辺聖子原作)で西田敏行が演じた一茶の姿と金子の本で得た農民一茶の風貌が重なり、私の新しい一茶のイメージとなった。
 最明寺(さいみょうじ)へ
 2月の中頃、松山から国道197号線のバイパスを通って、独特の形をした恵良山を目標に右折し北条市上難波の古刹最明寺を訪ねた。伊予に来た一茶が風早に足を向けたのは、亡き俳句の師二六庵竹阿の旧い俳友、文淇禅師(俳号は月下庵茶来(げっかあんさいらい))が11世の住職を務めていたこの最明寺に立ち寄るためであった。
 一茶は、江戸を出て4年目の寛政7年(1795年)の正月8日(新暦に換算すると2月26日)、竹阿の門弟五梅(ごばい)が住職をしていた専念寺(香川県観音寺市)を立ち、金比羅街道を伊予松山に向かった。川之江、土居、新居(新居浜)、西条、今治などを過ぎ、讃岐を出て約1週間経った1月13日に風早郡(北条市)に入った。ところが、鴻ノ坂を越えて、暮れなずむ頃に難波村(上難波)の最明寺にたどり着いた一茶を思いもかけぬ事態が待っていた。最明寺の文淇禅師が15年前に47歳の若さで病没していたのである。一茶は後継の住職に一夜の宿を乞うがあっさりと断られてしまう。一茶の落胆は大きかったが、寺には無理のない事情があった。茶来が亡くなる3年前、最明寺に火災が起きた。本堂や庫裡、過去帳まで焼けてしまったが、その日、茶来は折悪しく句会に出かけて寺を空けていた。茶来の没後は住職が何人も変わったほど寺の維持は困難をきわめ、一茶が来た頃は、檀家の支援によって寺の再建がやっと軌道に乗ったところだったそうだ。檀家の手前とても俳諧師を泊めることはできなかったに違いない。
 今は、本堂の前に子供と遊ぶ新しい一茶の像と一茶来遊170周年を記念して昭和39年に建てられた「朧(おぼろ)々ふめば水也まよひ道」の句碑がある。宿を断られた不安を率直に表出した句であるが、よくしたもので近くに高橋五井(ごせい)という俳句を嗜む庄屋の邸があり、一茶はそこに泊まることができたのであった。私は本堂に参り、横の石段から裏山に上って満開の紅梅や北条の町を眺めた後、高橋邸の場所をたずねるために庫裡を訪ねた。
 風早一茶の道
 住職はお若い方であった。高橋邸の場所をたずねると、すぐに地図を出して丁寧に教えていただいた。土地の人たちが風早を歩いた一茶の足跡をたどり、道標を立てて「風早一茶の道」という散策路をつくっているとのことだ。すぐに高橋邸の方に向かおうとしたら、住職が、ちょうど、一茶の道に詳しい池内功先生が寺に来られるので話を聞かれたらよいと親切にすすめて下さる。私はお言葉に甘えることにした。
 ほどなくみえた池内功先生は風早地方の郷土史に造詣の深い方で、一茶の寛政7年紀行の旅の全行程を踏破され、句碑や現況を写真に撮り『小林一茶「寛政七年紀行」伊予路の句碑・足跡を訪ねる』という小冊子を上梓されていた。しばらく、庫裡の玄関で一茶や竹阿、茶来についてお話を伺っていたら、先生は「それじゃあ、高橋邸まで案内しましょうか」と言ってくださった。
 住職にお礼を言って、先生と寺の門を出た。門前のすぐ右手の農家と畑の間に細い土の道がのびている。満開の梅と菜の花が春めいた感じだ。「あれが一茶が歩いて来た道です」と先生が言われた。よく見ると道の入り口に小さな「一茶の道」と書かれた案内板がある。一茶は浅海から鴻ノ坂を越え、下難波の鎌大師から腰折山と恵良山の特徴のある山容を眺めながら、日の落ちるのを気にしながら山裾の道を最明寺にたどりついた。  宿を断られた一茶は、おそらく寺男にでも案内されて、今先生と私が歩いているこの道を高橋邸に向かったのであろう。歩きながら先生からこの地方が昔は和梨の産地であったが虫害で苗木が全滅して今は宮内伊予かんの栽培が盛んになったことなどを伺った。高橋邸へは約300メートル、歩いて10分もかからぬ道のりであった。邸内には一茶が泊まった当時の建物は現存しないが、土塀や庭の佇まいに往時を偲ばせる雰囲気が強く漂っている。庭に入れていただき、一茶の句碑を写真に撮った。「月朧よき門探り当(あて)たるぞ」。主の高橋五井(ごせい)は庄屋で、俳句や茶道を嗜んだ。名水を求めて庭に井戸を掘ったが、5つ目の井戸で初めて満足する味の水が得られたところから五井と号したそうだ。
 翌14日、一茶は立岩川を渡った正岡村八反地の大庄屋で俳人でもあった門田兎文の邸に泊まり歓待を受けた。一茶は、栗田樗堂の待つ松山入りを前に風早の人たちの温かいもてなしを大いに喜んで、「門前や何万石の遠がすみ」の句を詠み「歌仙満巻(36句を数名の連衆でつくり鑑賞する)」したという。  思えば、北条市は俳句に縁の深いところである。西ノ下は高浜虚子の揺籃の地であり、また鹿島には、子規門下俳人たちの鹿島句会の句が俳額になって掲げられてある。東洋城らの句碑もある。北条がこれほど俳句と深い関わりを持つことは、近世以降の、神職や僧侶、遠来の竹阿や一茶ら俳諧師を温かく迎えた庄屋や商家の主たちを中心として庶民の間に浸透した俳文学の土壌のせいであるにちがいない。私は一茶の道の帰り道に先頃、義母から見せられた北条市柳原の故猪野翠女さんの遺句集『寒造』に忘れがたい句が多いことなども思い出したのである。
 風早一茶の道
 一茶は、宝暦13年(1763年)に北信濃、北国街道の宿場町柏原(かしわばら)(長野県信濃町柏原)に農民の子として生まれた。幼名は弥太郎。三歳で母をなくし、継母に育てられたが、折り合いが悪く15歳で江戸に出された。俳諧を業とするまでは様々な奉公人として過ごしたと思われるがはっきりしたことは知られていない。
 一茶は、20代は葛飾派の宗匠二六庵竹阿らに師事して俳諧を修行した。葛飾派というのは「田舎風」を俳風としていた。当時、江戸の俳界の主流は芭蕉の高弟榎本其角を嚆矢とする「洒落風」だった。「洒落風」は、洗練繊細、技巧的で遊戯的、華やかでおしゃれな都会的雰囲気に満ちた俳諧である。一方、葛飾派の「田舎風」は野暮ったさを身上とするような、粗っぽく土の匂いのする俳風で、俗語なども平気で使った。一茶に「椋鳥と人に呼ばるる寒さかな」という句があるが、その「椋鳥(むくどり)」は都会人が江戸に出稼ぎに来る田舎者、特に信州の人々をさげすんで口にした言葉だったという。ムクドリの一茶は、葛飾派に拠って、精神主義や、高尚趣味のうそっぽさに少しずつ反感を強めながら、独自の句境を築いていったといわれる。
 俳諧師として立つための、7年間に及ぶ西国俳諧修行の旅の後、帰京。父の終焉を看取るために一時帰郷したが、52歳にして故郷に定住。初めて妻を娶るが、妻子ともに後に病死。最後に娶った妻とまだ生まれぬ一児を残し65歳で没した。
 一庶民として、極めて人間的に生きながら不断に作句した一茶の句には、生活の現実を直截に表現し、弱者に共感、強者には皮肉な目をむけた句が多い。生涯の句は約2万。

Copyright (C) TAKASHI NINOMIYA. All Rights Reserved.
1996-2012



それぞれの写真をクリックすると
大きくなります

北条市浅海原の大師堂
(国道197号浅海郵便局前)国道の番所跡にある。一茶はここから味栗を通って鴻ノ坂にさしかかった。

鴻ノ坂の金比羅道道標

鎌大師
鴻ノ坂を下ると下難波の鎌大師。一茶来遊の2年前、芭蕉百回忌の寛政5年(1793)に建てられた芭蕉塚がある。

鎌大師東路傍の「一茶の道」案内碑

大通寺
腰折山の麓のため池にそって歩くと曹洞宗大通寺の裏に出る。風早第一の永平寺の末寺で北西山麓に来島水軍の墓所がある。


最明寺の一茶像
最明寺は臨済宗妙心寺派。13世紀中頃、時頼入道が諸国巡錫中に開創、14世紀末に月庵宗光が再興と伝える。一茶の師竹阿は茶来の在世中にこの寺で「八景序文」を書き「当山を爰(ここ)に詠(うたは)ん百年も」の句を残した。


恵良山(えりょうさん)
標高三百二メートル。この山を中心とする恵良城は十世紀中頃築城の記録があり、河野氏盛衰の要となった城であるという。イブキビャクシンの原生林がある。

高橋五井邸の土壁
五井(ごせい)は庄屋で茶道、俳諧を嗜む義侠心に富む人であったという。

立岩川の土手と橋
決してお勧めはできないが、門田邸へは、橋まで行かず、まっすぐに川の飛び石を踏んで行くと近い。

門田邸に行く途上にある「桜うずまき」の酒蔵



正岡村八反地の門田兎文邸
山茶花の垣根の家。庭に一茶の句碑がある。門田兎文は当地の大庄屋で風早俳壇の中心ともいうべき人であった。