久万町で教師をしていた友人に「青の洞門」の伊予版があると聞いた。
江戸時代の久万の町に私財を投じて固い岩を穿ち、用水を通して多くの田を潤した山之内仰西(やまのうちこうさい)という人がいた。そして、その用水は今も変わらずに使われていると……。
山之内彦左衛門
12月29日の朝、松山から国道33号線の三坂峠を越えて曇天の久万に入った。標高約710メートルの峠の頂上を過ぎて道を下り、明神にさしかかると、右手に3日前に降った雪が一面に積もった田や畑が見える。道路に雪はないが、まるで雪国の景色だ。
江戸時代の中頃、久万の町に山田屋という屋号の山之内彦左衛門光實という富裕な商人がいた。大宝寺の大檀那(おおだんな)で、仏法に深く帰依し、西方浄土に憧れて、仰西(こうさい)と号した。
その仰西こと彦左衛門が、17世紀の後半、約3年の年月をかけ、独力で、今日、仰西渠(こうさいきょ)の名で知られる農業用水をつくったとされている。
当時の久万は寒冷な山間の盆地にしては多くの美田に恵まれていた。しかし、水利の便が悪く干ばつに遭うと稲苗が枯れて収穫が無くなってしまうということもあった。農民たちは、灌漑のために西明神村船山の南のふもとから久万町の北側を東に向いて流れる天丸川の水を上流で堰きとめた。そして、そこから筧(かけい)を掛け渡し、支柱で支えながら継ぎ足して久万や入野の水田に水を送っていた。しかし出水や暴風雨による支柱の倒壊という出来事も多く、そのたびに多くの被害が起きたのであった。彦左衛門は、豊作凶作にかかわりなく荷重な年貢に苦しむ農民たちの労苦と惨状を救うために家産を傾けるほどの私財を投じて、水田への安定した給水をするための用水をつくったのであった。
仰西伝説
明神を過ぎ、久万の町中に入る少し手前、左手に採石場がみえてくる。その砕石場への道に、戻るように左折し、道を下ったすぐ、橋の手前左手に仰西渠はある。
立派な案内板があって、一帯が公園のようになっている。橋の手前に車を止め、雪の積んだ階段を降り、井手と呼ばれる水路にそって進むとすぐに暗渠が左手に見えてくる。
仰西の伝記を書いた菅菊太郎は、仰西渠を菊池寛の小説『恩讐の彼方に』で知られる大分県耶馬溪の「青の洞門」や角倉了以の京都大堰川開鑿、土佐の野中兼山の築港工事など同じ時代に行われた有名な土木工事と比較しているが、眼前に見る雪の仰西渠の大きさは期待に比べるといささか小さかった。トンネルになった暗渠の部分と岩を削って溝を作った明渠の部分をあわせて全長約56m。深さは約1.5m。幅は1.2mである。
仰西が工事の参考に出来たのは松山の城下町を作った足立重信が行った石手川改修の岩堰開鑿(かいさく)工事だけであった。仰西は、玄翁(げんのう)と鑿(のみ)でコツコツと岩石を削り取っていくというごく原始的な技術で、筧を渡していた天丸川左岸の岸壁に溝を掘り、水の行く手を遮る固い安山岩の岩山にトンネルを抉ったのである。その間の事情を考えれば仰西の艱難は想像に難(かた)くないというべきであろう。
水は仰西渠を経て仰西井手と呼ばれる水路を通り、入野地区の田圃に至り、一時は約40ヘクタールの田圃を潤した。流域の生活用水にも使われたという。私は雪の残る道を、仰西渠から仰西の田であったという仰西地(こうさいぢ)まで井手にそって歩いてみた。道の途中で出会ったおじいさんに仰西のことを聞いた。まるで昨日のことのように「あのかたい岩を1人で削ったんじゃからなあ」と話された。米を作る農業は昔のようではないが、久万には仰西に関する伝説が今なお生き生きと伝えられているのである。
1キロほど先の仰西地は運送会社の配送場になっていたが、脇を流れる仰西井手の側に平成8年仰西翁300年忌に行われた顕彰事業で「仰西田蹟の碑」というのが建てられていた。
大宝寺の山頭火
図書館の前の墓地に行き、山之内家の墓所にある仰西の墓に参った後、四国44番札所の大宝寺にむかった。道に雪がかなり残っている参道をよたよたと歩く。参詣を終えて山を下ってくる何人かのお遍路さんに行き違う。気のせいか晴れやかな表情に見える。朱色に塗られた勅使橋の先から、雪の凍りついた左手の細い参道にはいった。人の姿はない。大杉の中をしばらくのぼると堂々とした山門が見えてきた。大宝寺の堂宇は明治の大火でほとんど焼失し再建されたものと言うが、歴史の重みを感じさせる佇まいである。仁王門を過ぎ、滑らぬように注意しながら少し登ると本堂に上がる石段の前に出た。
石段の右脇に種田山頭火の句碑がある。
「朝まゐりはわたくし1人の銀杏ちりしく」
山頭火はその死の前年、昭和14年11月20日に土佐から久万に入った。少年の頃に自殺した母の位牌を持って、行乞をしながらの88ヶ所巡拝の旅であった。死を決意した旅であったともいう。
「路傍のおばあさんから、ふかし薯をたくさん頂戴した。……うまかった。うれしかった」「山がひらけるともう久万町だった。まだ日は落ちなかった。札所下の宿に泊まることが出来た。おばあさんなかなかの上手もの、よい宿である。広くて親切で、……5日ぶりの風呂!よい宿のよい風呂」
土佐から5日間宿を断られ続けた後に、温かい久万の宿で一夜を過ごした山頭火は翌21日早朝大宝寺に登った。
「老杉しんしんとして霧深いよいお寺である」
私は、石段を上がり、誰もいない残雪の本堂に参った。鐘をついてから、雪の参道をゆっくりと下る。久万の町が真っ直ぐ下に見えて来た。
句碑の句を詠んだ時の山頭火は朝8時から9時まで久万の町内で行乞をし、13銭と米2合を得て、落ち葉の深いへんろ道を通り、お弁当を食べて三坂峠を下ったという。
私は知人に教えられた図書館前の「心」という名の目立たぬうどん屋に入り、おいしい「釜揚げうどん」を食べた。大げさでなく、久万という土地の温かさが凝縮されたようなうどんだった。
〈参考〉
『久万町誌』、『山之内仰西翁伝』(菅菊太郎)、『山之内仰西翁300年誌 仰西』(愛媛県松山地方局久万出張所刊)、『愛媛文学手鏡』(愛媛文学叢書5)「久万の山頭火」(竹田美喜)、『種田山頭火』(愛媛新聞社)、『横しぐれ』(丸谷才一 講談社刊)