過去の連載記事
同じ年の連載記事




第117回 戸島紀行
〈第1回〉ドン・パウロの島 
 宇和島市戸島
 宇和島市沖の戸島を訪ねた。ドン・パウロ王と呼ばれ、この島で生涯を終えたというキリシタン大名一條兼定の墓に参った。

土佐一條家
 戸島は、宇和島と大分県の臼杵を結ぶ線上に浮かぶ小さな島である。ハマチや真鯛、真珠の養殖などで全国的に知られているが、日振島とともに藤原純友が根拠地としていたともいうように、古来、豊後水道の交通の要衝であったため、島とその周辺には多くの歴史が語り伝えられている。
 今回の戸島への旅の目的は、パウロという洗礼名を持ち、ルイス・フロイスの『日本史』などにも、登場する戦国時代末期のキリシタン大名一條兼定の史跡をめぐることであった。
 前置きが長くなるが、その兼定の時代に滅亡の時を迎えた土佐の一條家について少しだけ書いて置く。
 土佐の一條家は、京都の五摂家(ごせっけ)の1つ、一條家の末である。室町時代の中頃に、摂政、関白、太政大臣を歴任し、有職故実や古典に通じた当代最高の文化人として知られた一條兼良(いちじょうかねら)の子、教房(のりふさ)が、応仁の乱の混乱を避け、土佐国幡多庄(とさのくにはたのしょう)に下向して自分で荘園経営を始めたのが土佐の一條家の始まりである。当時は父の兼良自身が、乱の余波で邸宅と文庫の桃華坊を焼かれ、奈良へ疎開するという困難な時代であった。僻遠の地、土佐下向というぎりぎりの選択をした教房は、土佐の国司の権威を武器に、武力が全てという戦乱の時代に文(ぶん)の家として勢力を伸ばすという、一見、綱渡りのようなやり方で戦国大名としての地歩を築いたのである。
 大原富枝に『於雪(おゆき) 土佐一條家の崩壊』という歴史小説がある。文の家である、土佐一條家が、4代目の兼定の時代に、武力一辺倒の戦乱の世に呑み込まれて滅亡に向かう悲劇を縦糸に、横糸に兼定の側室となった於雪という百姓の娘と兼定のキリシタン信仰を織り合わせた作品である。
 先月、八幡浜の菊池住幸氏に兼定に縁のある大洲市平地のキリシタン畑から出土した青銅のキリスト像を見せていただいた。その時に、戸島と一條兼定の話題となった。それで一段と興味がわいて、手元にあったこの小説を読んだ。
 大原はこの小説を書いたときに、日本の史料だけでなく、ローマのヴァチカンに保管されているルイス・フロイスら日本布教に訪れたイエズス会士たちの書簡や報告について、キリシタン史の松田毅一から直接教えを受けたという。その松田毅一の『キリシタン研究第一部四国編』にある、一條兼定や戸島についての具体的な言及を読んでいたら、1度、戸島に行きたいという思いがますます高じてきたのであった。

龍集寺の墓
 2月下旬の晴天の日、午前11時35分に高速船「あけぼの」で宇和島の新内港を出発した。船内には最初、若い女性が1人しかいなかったが、出帆間近になって、10数人の人が乗り込んできた。コンビニで買ってきたおにぎりを食べながら、窓の外を眺める。海鳥の糞で白くなった岩礁が右手に見える。30分ほどで遊子の水荷浦に着いた。みごとな段々畑で知られるところである。制服を着た高校生が1人乗り込んできた。船は、水荷浦鼻を左に曲がって、まっすぐ細木運河に向かう。
 橋の下を見上げながら、運河を抜け、10分ほどで蒋渕(こもぶち)港に到着。荷物を下ろしただけですぐに出発。契島(ちぎりじま)を左に見てしばらく進むともう戸島が見えてきた。宇和島を出て1時間足らずで戸島の本浦に着いた。
 船に乗っていたほとんどの人が戸島の本浦で降りた。桟橋にいたおばあさんに一條兼定のお墓がある龍集寺の場所を聞いた。龍集寺は、陸に向かって、港に沿った広い道を右に数百メートルほど行き、小さい山を抜いたトンネルの少し手前から、左の山裾に広がった集落の中を上る細い路地の先のつきあたりにあった。 
 石段を上がり山門をくぐると、ちょうど寺の奥さんが出てこられたところだった。一條兼定の墓の場所を聞くと、本堂の背後に広がる山裾の墓地の中に見える、青い幕が掛けられた小さなお堂が墓所であるとのことであった。
 墓地の中の通路を通って、お堂のところまで上った。お堂の中には、形の崩れた宝篋(ほうきょう)印塔があり、手前に置かれた水入れの水が驚くほど澄んでいた。毎朝丁寧に掃除して水を取り替えられているに違いない。背後に一條兼定の簡単な説明があり、お堂の手前にはカソリックの司祭が建てられた顕彰碑もある。

一條兼定
 一條兼定は天文12年、1543年土佐中村に生まれた。兼定は伊予大洲城主宇都宮元綱の娘を娶(めと)り2男1女に恵まれたが離婚して、百姓の家の娘を娶った。これが「於雪」である。さらにキリシタン大名として有名な豊後国主大友宗麟の娘を妻とした。大友宗麟は兼定の母の弟であった。
 兼定は、1574年、長宗我部に追われ、豊後の大友宗麟のもとに逃れた時に、キリスト教への改宗を決意したというが、母が存命中の若き日に何度も土佐から母を訪ね臼杵の教会でイエズス会士たちと交わっていた。
 兼定は若年の頃は奢侈を好み遊楽にふけったと言われるが、それも多くは長宗我部側に由来する資料によるもので、必ずしも事実とはいえない。歴史の改竄は勝者のよく行うところであろう。岳父大友宗麟の絶大な援助を受けた兼定は、大艦隊に十字架の旗をかかげて失地回復とキリシタンの宣布をめざし土佐に攻め帰ったが、渡川の合戦で大敗してしまう。
 兼定はこの致命的な敗戦の後、「神はしばしば、現世において、もっとも愛するものに苦難を与え給う」という言葉に慰められ、心から神に祈ったということがイエズス会士の通信記録にある。長宗我部元親は、宗麟の援助による兼定の再起の芽を根絶するために、戸島の御所に刺客を差し向ける。刺客は幼少の頃から小姓として兼定に仕えた者であった。兼定は疑うこともなく刺客を迎え入れ、不意をつかれて瀕死の傷を負う。
 兼定は、一命を取り止めたものの41歳で亡くなるまで、体の不自由と病弱に苦しむこととなった。
 しかし、苦難が重なるほどに、淫蕩放埒の評判が高かった若い頃とはうってかわった信仰に篤い、穏やかな人柄が熟し、島民たちから敬愛されたそうだ。
 ルイス・フロイスは兼定の晩年の様子を、「ドン・パウロ(一條兼定)は…常によきキリシタンとして信仰に堪え、豊後の教会から送られた国字や日本語に翻訳された数冊の霊的な書物によって援けられるばかりであった」。と書いている。
 兼定は、1581年夏、巡察使ヴァリニアーニの一行が土佐沖を通って豊後に向かう途中、由良の岬の辺りまで小舟を乗り出して面会した。兼定はヴァリニアーニに、衰えることのない信仰を表明して、キリシタンとして死せんと欲することを、熱意をこめて語ったそうだ。
 その兼定の墓は、今、天真院という戒名で龍集寺にある。青々とした樒や、水入れの清らかに澄んだ水、側に置かれたスプーンやフォークなどを見ていると、宗教の違いを超えて、大切に供養を続ける島の人々の人間的な温かさが自然に伝わってくる。
 兼定の墓に続いて、海に近い高台にある戸島庄屋田中家の墓に参った。田中家からは奇しくも2人の優れたカトリック司祭が生まれているとのことである。
 本浦をすぐ下に見る場所に、立ち並ぶ五輪の塔に手を合わせて、本堂の方へ道を下った。

「都」は遠し
 龍集寺の山門を出て、道を下り、左に少し行くと、戸島庄屋屋敷跡の碑の先、トンネルのある城山という名の小山がある。この山がかつての御所があった場所だという。
 戸島には、兼定時代を伝える地名がいくつか残っている。「都(みやこ)」、「何々小路」、「黄金畑」、「杓井戸(しゃくいど)」「鳥の声」。すれ違ったおじいさんにこれらの地名を尋ねてみたら、「杓井戸」がすぐ近くの戸島小学校の側にあるとのことだった。
 トンネルをくぐり、新しい浮き桟橋がつながれた港を過ぎて、歩いていたら、小学生が数人こっちに向かって歩いて来た。地名についてはいろいろ尋ねてみたがよくわからない。そろそろ2時50分の帰りの船の時刻が迫ってきた。「都」というのは小内浦の方でとても時間が足りないので今回は断念する。急いで引き返しトンネルをくぐって港に戻った。
(続く)

〈参考〉
『於雪』大原富枝(小沢書店全集第1巻)
『キリシタン研究第1部 四国編』松田毅一(創元社)
『愛媛の海釣り 宇和海』(愛媛新聞社)
『かげろうの館』田岡典夫(新潮社)

Copyright (C) TAKASHI NINOMIYA. All Rights Reserved.
1996-2012


戸島の龍集寺
それぞれの写真をクリックすると
大きくなります

宇和島新内港の埠頭

戸島港に着いた「しらさぎ」。奥の小山が一條兼定の館があった城山

一條兼定の墓

龍集寺への路地

戸島。日振島に向かう途中の船上から。

戸島庄屋田中屋敷跡

戸島庄屋田中家の墓所

龍集寺本堂

戸島小学校の児童たち