宇和島市にある天赦園。司馬遼太郎はかつて仙台ではなく、伊予の僻陬の地にあるこの庭園の中にあった宿に泊まったとき、伊達政宗の小伝を書くことを思い立ったという。
その「天赦園」を造園家岩城有作氏のみちびきを得て歩いた。藤や菖蒲を見るために何度か訪れたことのあった庭は、思いもかけず、さらに多くのことを語っていた。
『馬上少年過ぐ』
天赦園は、宇和島七代藩主伊達宗紀(むねただ)(春山(しゅんざん))が、慶応2年(1866年)に、江戸初期に浜御殿として造成された土地の一部に隠居所の南御殿を建てたときに造園された。面積は約13,000平方メートル。大名庭園としてはこじんまりとしているが、それでも広大なものと言えよう。
「天赦園」の名は、仙台伊達藩の祖、伊達政宗の作った漢詩に由来する。司馬遼太郎が詩人としての伊達政宗を描いた短篇小説『馬上少年過ぐ』の印象的な書き出しを引用してみよう。
“ここに、ひとつの情景がある。
独眼の老人が、庭上に毛氈(もうせん)をしかせ、桃の花のあかるむほとりにすわり、おのれの生涯を回顧しながら盃をあげている。若年の頃志をたて、権力という不思議なものに焦がれ、それがためにときにはふりまわされ、ときには愉悦し、半生を戦場ですごし、常ならぬ生涯をおくってしまった。
「馬上少年過(ばじょうしょうねんすぐ)」
老人が晩年につくった高名な詩の
第1句である。
馬上少年過
世平白髪多
残躯天赦所
不楽是如何
馬上少年過ぐ/世平らかにして白髪
多し/残躯天の赦すところ/楽しま
ざるをこれ如何せん
この老詩人が伊達政宗である”
司馬は政宗を同じく、動乱の時代の武将であるとともに、すぐれた詩人でもあった『三国志』の曹操に比し、「行動の中においては決して悲壮感に陶酔せず、自滅を美とせず、つねに生存の為に計算をしぬき、ついに乱世をきりぬけて稀有の生き残りになりえたという点で共通している」と書いている。
伊達春山
天赦園を作った宇和島藩7代伊達春山は、敬慕してやまぬ宗家の始祖伊達政宗の詩句からこの庭の名をつけたのであった。
春山は、宇和島藩の財政が窮乏の極にあった文政7年(1824年)に7代藩主となり、20年間に及ぶ根本的な財政改革を断行して藩財政を再建した人である。
春山が築いた財政基盤の故に、8代藩主の伊達宗城が幕末の四賢候と称される政治的役割を果しえたことはよく知られている。
春山は、弘化元年に隠居し、明治22年(1889年)に、100歳の天寿を全うして世を去った。政宗の詩句を庭の名に付けた隠居所で、日々、戦乱の世に生きた政宗の若き日と、藩財政の再建に過ぎた自らの若い苦闘の時代を重ね合せて想起しながら、悠々自適の晩年を過ごしたものと思われる。
庭を読む
5月の下旬、造園家の岩城有作氏の案内を得て、宇和町在住の造園家で彫刻家のケース・オーエンスとともに天赦園を訪ねた。
ガラスケースに丹頂鶴の剥製がかざられた事務所で入場券を求め、園内に入った。新しいまっすぐな敷石が庭に向けてのび、その先、右手に真新しい便所が見える。
岩城氏はその方角には進まず、我々を左手の芝生の広場の方に誘った。「きょうは、ぼくの考えるこの庭の見方でご案内しますから」とおだやかに笑いながら言われた。その芝生の広場はかつて南御殿と呼ばれた明心楼という建物があった場所であった。岩城氏は御殿のあったこの場所が庭を眺め、回遊する拠点であると考えられているのであった。その芝生の広場から、西を眺めた。正面中央の池には、入江と陰陽石のある半島が交差し、藤棚の橋の向うに、三尊石とソテツの築山が見える。ソテツは仏の象徴木であるとすると、西の奥にあるソテツの山は仏の国、西方浄土である。従って、東の御殿から、ソテツ山を眺めることは、日出ずる国日本から仏の国、西方浄土を遥拝することになる。
岩城氏はつづいて左手の池と黒玉石でつくられた枯山水の流れが出合うあたりに立つ大きな雪見灯篭のところに私たちを導いた。
歴史を語る庭
「この灯篭を見てください。こんなに大きな、立派な灯篭がなぜここに有ると思いますか」と岩城氏は私たちに聞いた。顔を見合わせて、黙っている私たちに、岩城氏はこの灯篭は海のすぐ側に立つ宇和島城あるいは、御殿を象徴しているのだと語り、「この灯篭のある場所が春山が庭をつくったときの現在を表現しているのだと思うのです。ここから、この枯山水を源流へと溯っていくと、私はいつも、この流れが伊達家の歴史を表現しているのだと感じます」と言葉を続けられた。
黒玉石の流れを溯りながら、拝石(おがみいし)の上にたって景色を眺めてみた。すると、確かに、岩城氏の説く庭の読み方が力強い説得力をもって迫ってくる。虎吠石や、臥牛石、起牛石など大名庭園に特徴的な奇岩石が配された場所は、まさに「馬上少年過」の景色だった。そこに立ち、庭を眺めていると、秀吉や家康に伍して戦乱の世を生き抜き、梟雄と呼ばれた政宗の若き日が思いに浮かんだ。さらに流れを溯った水源とも言う場所には、地味な色調の和泉砂岩の石が多用されたこの庭にはめずらしい、明るい色の石が置かれている。岩城氏はこれを豪華絢爛な安土桃山文化の反映、ローマ法皇に使節を送った政宗の開明性、南蛮趣味などを表現するものではないかと想像するそうだ。
もとの灯篭の場所に戻って、池の周りの道を岩城氏と巡った。私のように今まで、ただぼんやりと庭を眺めるのが慣わしであったものにとって、岩城氏の説明は新鮮な驚きの連続であった。庭には庭を読むキーワードのような石や灯篭や橋があることを実地に知り、興味が尽きなかったのである。
「天赦園」は春山侯が東京亀戸天神から持ち帰った藤も素晴らしい。そして菖蒲もまた見逃せない。しかし、岩城氏の名案内のおかげで、それにもまして、庭をつくった人が語る言葉をはっきりと聞くことが出来る庭であるという意味でこの庭が、稀有の存在であるということを知った。
〈参考〉
『庭第96号―伊予の庭の世界―伊達家庭園天赦園24景』(建築資料研究社)、『伊予路の庭園』日本庭園鑑賞会編(愛媛文化双書47)、『馬上少年過ぐ』司馬遼太郎(新潮文庫)、中野逍遥「春山公挽文」他(『訳文逍遥遺稿』笹川臨風、金築松桂訳(岩波文庫)所収、『笹まくら』丸谷才一(新潮文庫)、『川沿いの小景』三輪田俊助