松山地方の小学生は高学年になると、市の郊外にある太山寺に遠足に出かけるのが慣わしになっている。そして、鐘楼の中の地獄極楽絵図を見る。極楽図の方はともかくとして、この世のものではない地獄のありさまが単刀直入なリアルさで描かれた地獄図の印象は強烈だ。
太山寺へ
12月末のよく晴れた日に太山寺へ出かけた。四国霊場第52番、6世紀末に伝説の豊後の国の真野長者(まののちょうじゃ)が一夜で本堂を建立したと言い伝えられる古刹である。
私も小学生の頃に遠足でこの寺に来た。当時の国鉄和気駅から田圃の中の一本道を通って本堂に上がり、経が森(奥の院)の頂上から伊予鉄の梅津寺駅に下ったのであろうと思うが、なにしろ30年以上も昔のことで、海を見ながら山道を下った記憶がおぼろげにあるほかは、どこをどう歩いたものか、はなはだ心もとない。しかし、その遠足について、はっきりとおぼえていることが1つだけある。恐ろしい閻魔さまの姿や、鬼たちに焼かれたり、切り刻まれたり、釜で煮られたりする裸の人たちの姿が描かれた地獄の絵を見たことである。
仁王門
車で、松山市の久万の台から北に走り、和気駅の先を左に折れて広い一本道を数分も直進すれば、道が左に緩くカーブする場所に太山寺の一の門が見えてくる。一の門をくぐり両側に民家のある細い道をゆっくりと進んだ。突き当たりに仁王門が小さく見える。道の右側には水がほとんど流れていない小川がある。右手の酒屋の手前にかかった橋のところでおばあさんが3人、日向ぼっこをしながら話しをしているのが見えた。車を止め、買い物篭をさげているおばあさんに駐車場の場所を尋ねた。おばあさんは、仁王門のすぐ先にあるが、本堂まで行かれるなら300メートルほど登った上にも駐車場があるからそちらになさいと親切におしえてくれた。
鎌倉時代末に建てられた仁王門は、もとは2層であったそうだ。落雷にあって単層になったというが、私はこの方がすっきりして美しいのではないかと思った。
蒟蒻(こんにゃく)の茶屋
今日の旅の案内にもとめた越智通敏著『伊予の古刹・名刹』の太山寺の項に「参道の途中右側に茶屋組と呼ばれた遍路宿があり、民家で今も健在」とあった。明治25年に正岡子規がこの茶屋で名物のこんにゃくを食べて詠んだ「蒟蒻につつじの名あれ太山寺」の句碑もあるというので下の駐車場に車を置いて本堂に歩いて登ることにした。
舗装された参道の右側には、寄進者と寄付の金額を彫った御影石の柱が建ち並んでいる。石柱の後ろに広がる竹薮と道に覆い被さるように繁る木々に日の光をうばわれて、少し薄暗かった。しばらく登って行くと、空が開けて明るくなり、茶屋組らしい民家の連なりが見えてきた。1軒の民家に立ち寄り、子規の句碑の在処を尋ねた。その家のご婦人が指し示した場所は、偶然にも参道をはさんだ、真向かいの紅葉の木の下であった。ご婦人の話しによれば、何年か前に建て替えられたそのお宅も、かつては布袋屋という屋号の遍路宿であり、この辺りの民家数軒が遍路宿を営んでいたのだそうだ。しかし、もう子規が句を詠んで名物のこんにゃくを食べた当時の面影を伝える建物は、つい先の急坂の途中にある家くらいだとのことであった。参道の上りが胸突きになった左側の、石垣のある家が2階の手摺などに茶屋の雰囲気をとどめていた。その場所から、ほんの23分も登ると、山門に上がる石段の下に出た。山門を見上げると、石段の上から2匹の犬がこっちを見下ろしていた。やさしい眼をしていて吠える様子もない。石段を上がって山門をくぐり、国宝の本堂の前に立った。
地獄極楽絵図
現存の本堂は鎌倉時代末期の嘉元3年(1305年)に建立されたもので、和様、唐様、天竺様が巧みに折衷された荘重な建築である。お参りをしてから東側にまわり、護摩堂の前からしばらく本堂の側面を眺めた。青くおだやかな空に、年経た瓦屋根や木の色が美しい。
私が小学生の昔に見た記憶のある地獄の絵は、本堂右手の鐘楼にあった。鐘楼の梵鐘には室町時代の永徳3年(1383年)の銘があるが、建物は江戸時代の明暦元年(1655年)に再建されたものであるという。
4段の御影石の石段を上がって、袴腰板(はかまごしいた)という4方に反りをつけ、裾を広げた台形の腰板で囲まれた2階建ての鐘楼の狭い下階の内部に入ると、格子を隔てた正面奥の壁面に3枚に分かれた地獄極楽絵図があった。中央に裁きを司る閻魔大王(えんまだいおう)の恐ろしい絵があり、左側が極楽、右側が地獄の構成である。修復がほどこされたのだろうか。絵の具の剥落(はくらく)もなく、子供の頃に見たときよりも少し小さく、きれいになった感じがする。暗い堂内で見る地獄の絵は、大人になった今見てもすさまじい。血の池でもがく人々、火炎地獄、石うすで鬼に搗(つ)かれる人々、死骸を食らう人々。左側の静謐(せいひつ)で荘厳な極楽の様子はほとんど記憶になかったが格調の高い敬虔な雰囲気に満ちた絵であったことに気づいた。そうして、再び地獄の絵の前に立った。「悪いことをすると地獄に落ちるぞ」というメッセージが聞え、黙示録の世界が迫ってきた。
茂吉と子規
少し脱線する。歌人斎藤茂吉の第1歌集、『赤光』によく知られた「地獄極楽図」という連作がある。何首かをあげてみよう。
飯(いひ)の中ゆとろとろと上る炎(ほのお)見て
ほそき炎口(えんく)のおどろくところ
赤き池にひとりぼっちの真裸の
をんな亡者の泣きゐるところ
いろいろの色の鬼ども集りて
蓮(はちす)の華にゆびさすところ
人の世に嘘をつきけるもろもろ
の亡者の舌を抜き居るところ
罪計(つみはかり)涙流してゐる亡者つみを
計れば巌(いわほ)より重き
ゐるものは皆ありがたき
顔をして雲ゆらゆらと
下り来るところ
明治38年の春1月、日露戦争の旅順口陥落の頃のことである。当時、数え年24歳、第1高等学校生徒であった斎藤茂吉は、東京神田小川町のいろは貸本店で偶然目についた子規遺稿第1編『竹の里歌』(明治37年11月、俳書堂刊)という正岡子規の歌集を借りて読んだ。後年、茂吉はそのとき『竹の里歌』の短歌を一読して「感奮」した様子を次のように回想している。
「かういふ風の歌は、従来の歌人の作ったものに無いやうにもおもはれたが、何となく生々としてゐて清新に感ぜられるし、単にそれのみでなく、従来の歌のやうにむづかしくなく、これならば私にも出来るやうにおもはれたのでここではじめて歌を作って見る気持ちになり、その『竹の里歌』の歌を写してそれを繰返し読み、しきりに模倣の歌をこしらへた。」(「文学の師・医学の師」昭和17年)
青年茂吉は『竹の里歌』の中の「木のもとに臥せる仏をうちかこみ象蛇(ぞうへび)どもの泣き居るところ」というお釈迦様の「涅槃(ねはん)図」を見て子規が作った歌などに強い影響を受けた。そして、子供の頃に山形県上山の生家の隣にある宝泉寺で見た「地獄極楽図」の掛図を思い出してこれらの歌を詠んだのである。茂吉は開成中学の同窓生で子規派の俳句を作る文学の友、渡辺幸造にあてた書簡に「故先生(子規のこと)の……「象蛇どもの泣き居るところ」の如きは古今になき姿にて誠に気に入り恐れ入り小生もマネいたしたる次第に候」とまで書いている。
正岡子規の 『竹の里歌』との出合いが機縁となって作歌を始めた茂吉は、子規の歌の模倣によって故郷の寺で見た地獄極楽の掛け図を自らの記憶に止めようとしたのであった。
円明寺
今の松山の小学生たちも大人になったら太山寺の地獄極楽図を思い出すことがあるだろうか。あるいは、茂吉が子規を真似たように茂吉を真似て歌を作るだろうか。子規や茂吉のことをあれこれと思いながら参道を下り駐車場にもどった。車に乗って和気駅の方に戻る。和気の町に入ったところにある四国第53番札所真言宗智山派円明寺に寄る。境内は町中にあって、広壮とはいえないが由緒と風格を感じさせる佇まいである。駐車場に車を止めて門をくぐると柔らかい日差しを浴びながら、黄色いセーターを着た女の子が境内の奥から自転車で走ってきた。彼女のお父さんが英国人でロンドンの学校に通っているが、お寺のすぐ近くにあるお母さんの実家に冬休みで里帰りしてきているのだそうだ。お祖母さんと一緒にお寺に来たのだという。本堂の方から参拝を終えたお祖母さんが歩いてきた。「こんなお寺は都会にはないでしょう。この孫はここで遊ぶのが好きでね。帰って来るとおばあちゃんお寺に行こう、行こうって言うんですよ」。
一体、いつ冬になるのかという穏やかで温かい天気である。しばらくお祖母さんと話してから、JR和気駅に向かった。
〈参考〉
『伊予の古刹・名刹』越智通敏著(えひめブックス)・明治文学全集53『正岡子規』所収「獺祭書屋俳句帖抄上巻」、「竹乃里歌」の「絵あまたひろげ見てつくれる(明治32年)」(筑摩書房)斎藤茂吉選集第1巻所収「赤光」(明治38年~42年)・第12巻所収「文学の師・医学の師」(昭和17年4月)『茂吉の短歌を読む』岡井隆(以上岩波書店)