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第30回 肱南散歩
 
愛媛県大洲市 
 秋の大洲を歩いた。赤煉瓦館に出来たという喫茶店に入り、懐かしい雰囲気の漂う文具店に立ち寄った。江戸初期の城下町のスケールがそのまま残る町並みを抜け、時が止まったかのような柚木の路地を歩いた。

 赤煉瓦館
 肱川大橋から、堤防ごしに見える油屋旅館の廃屋に並んで見える赤い煉瓦の建物が、明治34年に建てられた旧大洲商業銀行、現在の「大洲赤煉瓦館」である。煉瓦の外壁を残しながらも、窓に花模様のステンドグラスを付けるなど内外部に大胆な改装を加え、物産品の販売を行ったり、観光案内の拠点、研修施設などとして活用が図られてきた。しばらく足が遠のいていたが、知人から2階に市が経営する喫茶店が出来たとすすめられて立ち寄ってみた。煉瓦館脇にある観光客用無料駐車場に車を止めて中に入った。1階には大洲の物産品や土産ものの販売店と観光案内の窓口がある。すぐに、2階の喫茶店に上がってみた。煉瓦館というネーミングや外観からレトロだとかエキゾチックとかいう月並みな雰囲気を想像していたが、店内は清潔で明るくさっぱりした、どちらかというと都会的な雰囲気の喫茶店である。テーブルの上には、季節の花がさりげなく活けられた小さな花瓶が置いてある。窓際の席に腰を下ろすと、大きく開かれたサッシの窓越しにモダンな店内のイメージとは対照的な煉瓦造りの建物や、落ち着いた瓦屋根の和風建築が見えている。知人においしいと聞いた1杯300円のコーヒーを注文した。店内を見渡すと、先客の地元の主婦の方らしい数人の御婦人たちが1組、中央のテーブルで会話を楽しんでいるのが見えた。御婦人たちの声は、広々とした空間にとけ込んでほとんど聞こえてこない。とても静かである。ほどなくして供されたコーヒーの味もなかなかのものだった。
 煉瓦館の向かい側がもとの油屋旅館、今は市営の観光「人力車屋」である。油屋に泊った司馬遼太郎の文章を引いておこう。「車は、城下町時代のせまい道路に入った。さらに左折していっそう狭い道路に入ったとき、いきなり明治時代にもどった感じがした。右側にいかにも明治建築といった小さな赤レンガの建物が両側の民家に密接して建っており、看板をみると大洲の商工会議所らしく、現役としてつかわれていた。その古めかしい赤レンガ建てのむかいが宿である」。油屋の佇まいを一目みて、司馬は思わず同行した編集者に「いい宿をみつけましたね」と言う。
 堤防の上に上がり、かつて司馬が宿泊したとおぼしき川に面した部屋の様子をうかがった。見事に障子が破れたままに放置された状態で、余計なことをした後悔にとらわれながら引き返した。
 なつかしい文具店
 煉瓦館がある東横丁から本町通りに出た角に、古風な木造の文具店がある。「高月優商店」という。懐かしい雰囲気にひかれて、通りがかりに何度かノートや便箋を買ったことがあった。薄暗いひっそりとした店の中で、ガラスケースの中に鎮座する万年筆や平台の上に置かれたノートや便箋を見ているだけで、なんとなく満ち足りた気分がしてくる店である。ご主人の高月優さんと奥さんの八須美さんにお話を伺った。昔は障子紙から半紙まで、紙一切を手広く扱う店であったが、戦時中に紙の統制が始まってから文具も取り扱うようになり、戦後は、文具が中心になったそうだ。「もう店を始めて70年近くになるかなぁ。昔は、印刷屋さんが紙が間に合わなくなって急いでうちに買いに来るなんていうことがあったけど、この頃は朝電話したら松山からトラックですぐ入ってくるからね。文具も山の方の店に品物を卸したりしてたけど、もう行ってない。今は、ご近所や昔からのお客さん相手に細々と商売してるだけ。私たち2人の小遣い稼ぎくらいです」と穏やかに話される優さんは今年で87歳だ。向いのカーテンがしまった家は自転車店だったそうだが現在は営業していない。この町にも大型店の進出など時代の波がまともに打ち寄せているようであったが、お2人の矍鑠とした表情に触れると、あわただしい時間の流れを等閑した、この町の「自然体の鷹揚さ」とでもいうものをかえって感じてしまうのである。八須美さんは、この町に「また、お風呂(銭湯)ができたらいいのにね」と言われた。たしかに、街歩きで汗をかいたり、子供と肱川の川原で川遊びした後に、町並みの中で一風呂浴びてとなればこれほどうれしいことはない。唐突に、学生の頃、私たちを引連れて街歩きに出かける時には必ずタオル1本と着替えの下着を鞄の底にしのばせておられた、わが師の笑顔が思い出された。先生は「人間は気概(キガイ)を持て、いやっ、着替えを持てです」と言いながら、初めて訪れた町で私たちを銭湯に誘ったものだった。
 臥龍山荘へ
 瓦屋根の町屋が両側に並んだ通りには丹精された鉢植えが並びお年寄りが立ち話をしているのが見えた。小さな商店が連なる中を歩いていると、人々の暮らしが静かに息づいているのを感じる。
 柚木の入り口に竹製品や荒物を扱う城元商店がある。店の中には、ざるや籠、鮎釣りのときなどに被る「たころばち」という笠や、曲げ物の弁当箱など、今は見かけることが少なくなった手仕事の竹製品が山と積まれ、天井からは草鞋や魚篭も吊るされている。何度か大声で声をかけたがなかなか店の人が出てこない。奥でテレビの音が聞こえるから留守ではないと思い、さらに大声で「ごめんください」というと、「はいっ」という柔らかい声がして、小柄で色白のおばあさんが姿をあらわした。「草鞋を下さい」と言うと、「大、中、小とあるが大きさはどれにしますか」と聞かれた。「中を2つと小を1つ」と答えるとおばあさんはつま先立ちになって背伸びをし、吊るしてある草鞋をそれぞれ選り出してくれた。1足どれでも240円だという。あまりの安さに、笊や籠に付けられた値札を見ると、草鞋だけではなく他の品も驚くほど安い。私は葦で編んだ笠と竹で編んだ笠を1つずつ、さらに竹で編んだ夏用の弁当箱をもとめた。おばあさんはいちいち、ゆっくりと丁寧にきれいな品物をよってくれる。こういう、つつましく、きちんとした流儀が生きているのは、私には、ほとんど奇跡のように思われた。  城元商店に続く柚木の路地も美しい。白壁の蔵や長屋が続き、山裾には「松井御殿」と呼ばれる京都の棟梁が建てた和風住宅もある。山裾の町並みをめぐった後、大洲神社の裏参道から臥龍山荘の方へと登った。

〈参考〉
「大洲市誌」、司馬遼太郎『街道をゆく』14 (朝日新聞社)、「まちの風景をつくる」肱南 地区まちづくり推進班(監修 吉田桂二)

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油屋旅館。大洲市民に愛され、司馬遼太郎、川本三郎らの文章にも書かれ全国にその名を知られた旅館だったが廃業。現在、1部が人力車の溜りとして使われている。
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大洲赤煉瓦館の松本三枝子さんと玉木妙子さん。
季節の花で煉瓦館を飾り、訪れる観光客のアテンドをされる松本さんたちの活動で煉瓦館を訪れる人が増えている。

大洲赤煉瓦館2階にある喫茶店

臥流山荘へ向かう路地

柚木の路地

おばあさんが草鞋をとってくれた。

臥龍山荘不老庵では毎日曜日に、市内の茶道関係者によるお抹茶の奉仕がある。一服300円。

臥流の淵の石仏
臥龍の地は、古来肱川随一の景勝地とされてきたところで、文禄年間に藤堂高虎の家臣渡辺勘兵衛が始めて庭園を造り、後にこの地に「臥龍」の名を付けた大洲3代藩主加藤泰恒公が吉野の桜と龍田の楓を移植して風致を加えたという歴代藩主遊歴の故地。明治の河内寅次郎が建てた山荘の建物や庭も素晴らしいが、そこここに石仏が点在し、肱川の流れが古木の繁る林の下で岩を食む臥龍の淵の風景もよい。

柚木寿屋食堂。猫の店番。