旧内海村、柏坂越えの遍路道を再訪した。地元、柏の集落の人々がこの道を通るお遍路さんたちの為に、毎年の春秋、欠かさず雑草を取る。歩きやすく、心に残る道である。
「娘巡礼記」
柏坂再訪というのは正確ではない。初めて訪れた6年前から数えても4回はこの坂を越えている。1度通っただけで、それほどこの道はなつかしいものになる。
この遍路道をたずねた最初のきっかけは昭和初期から戦後にかけて独学で母系制から父系制への変化を明らかにし、女性史の1頁を独学で拓いたといわれる高群逸枝(たかむれいつえ)(1894~1964)の『娘巡礼記』(1979年朝日新聞社刊。堀場清子校訂。昨年5月に岩波文庫にもなった。)である。高群は、全国に米騒動が広がった年、大正7年(1918)の7月に熊本からの四国遍路の途上でこの坂を越えた。
高群のことを少しだけ書いておきたい。高群は満24歳、教職をなげうって踏み込んだ恋愛に行き詰まり、人生と生活の全てに窮迫を極め、捨て身の四国88カ所巡礼の旅に故郷の熊本から出かけて来たところだった。彼女は熊本の九州日々新聞社の社会部長宮崎大太郎から巡礼記を書く約束で金10円を受け取り、それを船賃にして豊予海峡を渡った。陸路は行乞の旅でしのぐ決意であったという。高群は、大分で海を渡る前に道連れになった70歳の老人とともに、7月14日宇和島丸に乗船、午前3時大分港抜錨。佐賀関港経由で午前11時頃八幡浜港に着く。「巡礼するのに順と逆とがある。私たちは逆をすることにした」(『娘巡礼記』)。高群と老人はいわゆる「逆打ち」で43番明石寺、42番佛木寺、41番龍光寺と巡り宇和島から40番の観自在寺に向かう途中でこの道を過ぎた。
無事巡礼を終えた高群は、約半年後に熊本に帰り着く。「九州日々新聞」に105回にわたって連載された彼女の『娘巡礼記』は県内で大好評を博したという。
後に女性史家となった高群は、「ヨメイリ」が古くから1貫して変わらぬ日本の結婚制度であったという学会の定説を、厳密な考証と徹底的な実証的方法でくつがえした。ヨメイリは近世になって始まった俗で、それ以前はムコトリが広く行われていたということを、膨大な資料を読み込みながら、その形態はどのようなもので、どのような事情で変化したのかと言うことまで明らかにした。私は、その女性史の開拓者、アナキスト、詩人としても活躍した高群逸枝が若き日に捨て身の四国遍路に過ごした日々を、近在の遍路道に辿ってみようと思ったのであった。
柏坂へ
10月の半ば過ぎ、愛媛新聞に柏坂の遍路道の雑草を取ってお遍路さん達を接待する旧内海村柏の人達の地道な活動が報道されていた。それを読んだ次の休日に知人を誘い、久しぶりに柏坂越えの遍路道を歩きに行くことにした。雨が降ったり止んだりの日であったが、2台の車で出かける。高速道路を宇和で降り、国道56号線を走る。市街を迂回して伸びた宇和島自動車道を過ぎ、松尾トンネルを抜けて旧津島町岩松にさしかかる頃には、ほぼ曇りといってよい天気になった。
今日は高群が歩いたのとは逆に「順打ち」で越える。岩松を過ぎ、旧津島町下畑地、大門バス停近くの酒饅頭の店に頼んで1台車を置かせてもらう。帰りはこの大門まで下りてくるのである。そこからは、1台に同乗する。海を眺めながら15分ほどで柏バス亭前の旭屋旅館(ごちそうノート参照)に着いた。私は柏坂に上るときはどちらから越えるときでも必ず旭屋に寄ってご主人の赤樫峰旺さんに峠の様子を聞くことにしている。赤樫さんに車を駐車場に置かせてもらい、3人で歩き始めた。出発は午前10時過ぎ。赤樫さんが「1週間前に草を刈ったとこやけん大丈夫。ちょっと滑りやすいから気をつけて、はいお接待」とミカンを1人、2つずつ手渡してくれた。
バス停のすぐ先の柏郵便局の前で国道を渡り柏川沿いの道を上がる。200メートルほど先の柏橋のたもとに古い雑貨屋があり、その角に遍路道の道標がある。高群逸枝が柏坂を越え麓についてラムネで口をしめしたというのはこの店ではないかといつも思う。そこからまっすぐ、正面から正面から右手にかけて大きく聳える僧都岳や観音岳の連なりを見ながら川に沿って上がると、左手の畑の中に古い石灯籠が2基立っている。そのすぐ先で、1度新しい道と川沿いの道が交叉する。そこを渡った場所の左手に古い柏坂の道標がある。「坂上(上り道)21丁(丁は1里約4キロの36分の1) よこ(平らな道)8丁 下(下り道)36丁」とある。実践的な情報だ。柏坂は約7キロ、上りが2キロ、峠を越えて平らな道が約1キロ、下りが約4キロということである。そこから川沿いの目と鼻の先の民家の手前を左に入るのが柏坂の入口である。小さな案内板も立っているが時々間違えて川に沿って上がっていく人もいると聞く。ちょうどここまで国道から1キロ弱。民家のおばあさんが庭の草花の手入れをされていた。庭の大きな木は亡くなったご主人が若い頃に、観音岳から移植したものだと言われた。左側の家は住む人がなく崩れ落ちている。
頂上へ
最初からつま先上がりの道が続くが、それほどにきつくはない。途中、石畳の部分も長く、ほとんどが雨が降っても弛むことのないしっかりした道である。標高300メートルの柳水大師まで途中、炭焼窯の跡や、めずらしい花ワラビの写真を撮ったり、ところどころにある野口雨情の歌のプレートを見ながら、ゆっくりと上る。この道には、桜の古木も多く春には、また違った風景の道になるだろう。柳水大師の大師の石像にお詣りして小休止。
ここからの最後の上りがこの遍路道最大の難所であるが、少し異変があった。立派な林道が頂上の手前で遍路道を1度断ち切っていたのである。ひどく驚いたが、おかげさまで上がり掛けた息を整えることができた。
林道を渡って再び遍路道を上る。山を切ったせいか少し空が広がった気もする。少し上るとあっけなく頂上に着いた。トイレのある休憩地を過ぎると、そこからは「横通り8丁」の快適で平らな道である。夏は左手の海側から涼しい風が吹き上げてくる。途中左に少し下ると「清水大師」。小さな御堂があり、奉納相撲を行っていた土俵の跡が盛り上がった地面にしのばれる。またもとの平らな道に上がりしばらく行くと、「ごめん木戸」。このあたりは昭和20年頃まで大草原で牛の放牧が行われていたというが、その当時の木戸の礎石が残っているのである。今は、木陰の道となっているが当時は空が広がっていたのではないだろうか。しばらく先に標高460.1メートルの水準点があり、その先に「接待松」の切り株と小さな石仏がある。その少し先で道が下り始めたかと思うと、すぐに左手の展望が大きく広がり宇和海が1望できる場所に出る。「つわな奥」の展望台である。ここで弁当を開いてもよいが、また小雨が落ちてきたので茶堂の集落に向かって下りを急いだ。林の中を「思案坂」というやや急な坂を下る。続いて「牛の背」だとか「馬の背」と名の付いた展望のきかぬ尾根を下っていくと30分ほどで、お墓や畑のある場所に出る。そこで空が開けて1度車の通る道と交叉する場所が茶堂の集落である。
茶堂の集落で
最初来たとき、この集落の入口でおばあさんに出合った。5月のよく晴れた日で家の屋根の上の青空に椎の花が燃えるように咲いていた。しばらく話していたら、おばあさんは、「うちの水はおいしいから飲んでいけ」と言って、電気のスイッチをバタンと音をさせて入れ、モーターで汲み上げた冷たい井戸水を蛇口から盛大に溢れさせて振る舞ってくれた。ところがそのおばあさんの家が潰(つい)えて、水を飲ませてもらった台所のレンガの洗い場と蛇口が雨ざらしになっている。たまたま向側の家から出て来た方に伺うとおばあさんは亡くなったという。その人がおばあさんと同じようにスイッチを入れてまた洗い場でおいしい井戸水を飲ませてくれた。少し先の茶堂大師を拝し、みかんのビニールハウスを過ぎると後は上畑地まで山道を30分ばかりの下りである。柏側に比べて少し草が茂り倒木が目立ち、集落に出ると「熊出没津島町」という黄色いポスターがところどころに貼ってあった。大門バス停の車を置いた酒饅頭の店に着いたときが午後2時前。
雨には降られはしたが、やはり気持ちのよい遍路道であった。冬になるともっと展望がきき、歩きやすくなる。1人で行くときは大門バス停か柏バス停でバスをつかまえればいい。(時刻表は宇和島自動車バスセンターTEL:0895-22-5585へ)
来年3月には、愛南町の企画で宿毛から一本松への松尾峠と柏坂を越えるイベントがあるそうだ。是非参加してみたい。