今年は、松山を舞台にしたと言われる小説『坊っちゃん』を書いた夏目漱石が愛媛県尋常中学校嘱託教員として、1年間の松山滞在を終えてから100年目にあたる。というわけで、今回は漱石特集。
2年前に、漱石が生前大切にしていた写真などを入手された愛媛県立東温高校教諭の郷田智成先生を、松前町大間の国近川のほとりにあるご自宅に、訪ねてみた。
国宝を扱う
古本屋さんから漱石が
郷田先生は、書誌学を研究されており、奈良時代から新しくても江戸時代までの古典籍を蒐集されて来た。もともとの漱石ファンではないし、近代文学の研究家でもない。郷田先生はなぜ漱石の写真をお買いになったのだろうか。「本来は、書誌学研究の対象となる古い時代のものを買っていました。芥川や太宰のものならきっとお断りしたと思います。漱石は松山に居たこともありましたし、20年近いおつきあいの東京古典会からいただいたお話ですから、散逸を防ぐために引き受けました」とのこと。「東京古典会」余り聞いたこともない名前である。しかし、これは、知る人ぞ知る、有名な弘文荘の故反町茂雄氏も会長を務めた日本最高の古書店のグループだそうだ。顧客が実績のある学者か、内外の国公立の図書館や大学などに限られるだけではない。扱う古書籍も、極めて貴重、良質なものばかり。客先に納めたのちに国宝や重要文化財に指定されるものも少なくないそうだ。
研究と
公開のために
郷田先生は東京で学生時代に、暇をみつけて古書籍や古美術のホンモノを見ることが出来る博物館や図書館などに通い、目を肥やされたそうだ。神田の古書店街にもよく足を運ばれたそうで、当時から、蒐集を始める日を期されていたわけである。実際に、蒐集を始めてもう、20年近い。「家族の目も厳しいので、今後は、量から質への転換をはかりたい」と謙遜されるが、新井白石の書き込みのある本や、秀吉の軍師竹中半兵衛の長男重門の蔵書印が押された本もある。
しかし、郷田先生の楽しみは、古書や古文書などを書誌学的に研究し、新たな発見をすることで、決して死蔵することではない。書誌学研究の中で、幕末の8月18日の政変のときの御所警備の各藩配置図を見つけられたり、坂本龍馬が勤皇藩であった大洲藩に蒸気船いろは丸を購入させた時の資金提供者対馬屋の存在を実証する看板を大洲市の旧家の土蔵から発見されたこともある。
〈参考〉
●荒正人著『漱石研究年表』集英社 ●小宮豊隆『夏目漱石』、『漱石全集』以上岩波書店●『新文芸読本夏目漱石』河出書房新社、『道後温泉』松山市など。
坊っちゃんの無鉄砲はどうして親譲りなのか
文/井上 明久 画/藪 野 健
漱石の作品をより親しいものにしている理由の1つに、書き出しの面白さを挙げることができる。
例えば、「吾輩は猫である。名前はまだない。」という1行は、日本文学のみならず、世界文学を代表する書き出しだと言っても少しも誇張ではないだろう。「吾輩は」という、当時(明治37年)からして既にいささか尊大ぶった第1人称を用いて自己を語りだした存在が、実は「猫である」というこの落差。おまけに、そのすぐあとに「名前はまだない」という情けなさが更なる落差の追い討ちをかける。それでいて、「吾輩は」と威張って見せた手前、「名前はない」と素直に言う気はなくて、「まだない」と、その内、名前を持つつもりの強気はしっかりと主張する。無論、我等が猫君は生涯名前を持つことなく死ぬ運命にあるとは知る由もないが、この哀れな1匹の猫が、「吾輩は」と語り始めることで、この作品の面白さは決定したといえよう。
日本語の持つリズム感を最大限に生かし、1度読んだら忘れられない強い印象を残すのが『草枕』の書き出しである。「山路を登りながら、こう考えた。/智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」ウーム、何回読んでも凄い。たったこれだけの文字数で、日々生きることの本質を見事に言い当てている。そして、ここで文体的、音律的、構成的に最も大事なのは、冒頭の1行、すなわち、「山路を登りながら、こう考えた。」である。もしこの1行がなければ、それこそ、智に働きすぎて角が立ってしまうに違いない。山路を登るという肉体的運動と、考えるという精神的運動の交錯の中で語られるからこそ深い説得力を持つのだ。そして、苦みを秘めた日常感を述べたその先に、「住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生まれて、画が出来る。」と続けられれば、もう参ったと言うしかなく、漱石先生、いとも明確に芸術誕生の根本を定義してしまうのだから。
漱石における書き出しの面白さは、今挙げたような俳味とユーモアが勝る初期作品だけでなく、深刻味の増す中期、後期の作品にも見出すことができる。その内の1例だけを挙げれば、『こころ』の有名な一節、「私はその人を常に先生と読んでいた。だから此所(ここ)でもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない。」などは、その高雅な品格と抑制された情熱に深く深く揺り動かさざるを得ない名文である。
ところで、漱石の中で最もポピュラーな作品と言えば、まずは『坊っちゃん』を挙げるのが至当だろうが、その書き出しはこうである。「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。」
日本の作家の中で、漱石ほど日本語の持つリズミカルな音感の楽しさを味わせてくれる作家はいないと確信しているのだが、そしてそれは恐らく、あの該博な漢語への造詣(ぞうけい)(そう、何と言っても、漢語の持つ音の響きは日本語に遊びの要素を与えているのだから)と、子規によって目覚めさせられた俳句への愛着(あいじゃく)(そう、ここでは厳密な語彙(ごい)の選択とともに、何よりも言葉の音律が尊ばれるのだから) によって形づくられたのであろうが、この『坊っちゃん』の冒頭も、実に漱石的な文章の代表的な1例であると言える。
実際、この簡潔で断乎たる1文のあとに、2階から飛び降りて1週間ほど腰を抜かしただの、ナイフで親指を切り落としかけたのだの、人参畠をあらしたり、田圃(たんぼ)の井戸を埋めたりといったいたずらだの、幾つかの無茶な行為が書き連ねられることで、読者は主人公の人となりを一気に掴(つか)むことができるのだ。そして無論、そうした主人公に大いなる共感を感じてしまうのだ。
けれども実は、「親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。」という1文は、見かけほど単純でもなければ、無作為でもない。ま、漱石の文章が単純でもなければ、無作為でもないのは至極当たり前のことであって、どこからどこまで複雑で作為に満ちているのが漱石の文章なのだから。
この1文の「小供の時から損ばかりしている」は、あの『吾輩は猫である』の冒頭と同じく、主人公に対する読者の優越感を生み出し、それによって主人公への同情や一体感を抱かせる仕組みになっている。例えばこれが、「親譲りの慎重さで小供の時から得ばかりしている。」というのでは、道徳の教科書や立身した経営者の自伝にはうってつけだが、小説の主人公の独白となると、なんでえ、クソ面白くもねえや、そんな奴とは金輪際つきあいたかないねといういささか下品な反応を引き起こさざるを得ない。ここはやっぱり、「小供の時から損ばかりしている」でなければならない。
その「損ばかりしている」原因は、言うまでもなく、「無鉄砲」にあるのだが、その「無鉄砲」に「親譲りの」という限定的な形容句が付いているところが、なかなかの曲者(くせもの)なのである。この「親譲りの」がなくて、単に「無鉄砲で小供の時から損ばかりしている」だとすると、読者の共感はいささか冷ややかさを増して、じゃあ手前(てめえ)で少し気をつけたらどうだい、という気になってしまうが、これが「親譲りの」と来られると、そこには遺伝的、因縁(いんねん)的、幾らか大袈裟(おおげさ)に言えば宿命的な力が働いて、物語のヒーローとして充分な資格を持つことになる。だから読者は、主人公の短所をも人間的魅力と捉えて、温かい共感と軽い優越感を持ちつつ作品世界へと入ってゆくことができるのだ。
さていよいよ、問題の「親譲りの」という1句にたどり着いた。先ほど、これはなかなかの曲者であると書いたが、実を言えば1つの“謎”なのである。
短めの中篇、あるいは長めの短篇と言える『坊っちゃん』は11の章から成立していて、従って1つの章はごく短いものだが、その最初の章である「1」の中に、冒頭の行を含めて、「親譲りの無鉄砲」という表現が3回(も!)出てくる。漱石は、この小説ののっけで、坊っちゃんの性格の根本が「親譲りの無鉄砲」であることを、読者の胸に強く刻みこんでおこうと明らかに意図している。
ただここで、不遜にも1つの疑問が生じてくる。坊っちゃんの無鉄砲は、果たしてどこをもって「親譲り」と言えるのだろうか、という疑問である。坊っちゃんが2階から飛び降りて腰を抜かした時、確かにおやじは「2階位から飛び降りて腰を抜かす奴があるか」と怒った。しかし、息子の愚行にカッとなった父親なら、大抵これくらいの罵言は吐くもので、これをもって無鉄砲だとは言い難い。そして坊っちゃんの回想するおやじは、「些(ちっ)ともおれを可愛がってくれ」ず、「何もせぬ男で、人の顔さえみれば貴様は駄目だ駄目だと口癖のようにいっていた」。母親も又、「兄ばかり贔屓(ひいき)にしていた」。一体、このどこに、自分の無鉄砲を「親譲り」だと想定する根拠があるのだろうか。
恐らくは、そこに表面には描かれていない隠された事実が存在すると推察される。それは多分、若い頃の父親の不行跡であり、つまりは、父親が外で生ませた子、それが坊っちゃんなのではないだろうか。そして、すべての謎の中心に、この物語の影の主人公とも言うべき下女の清がいることは間違いなさそうだ。
坊っちゃんによる手記は、清が死んで間もない時期に筆を執られている。清が死の床ですべてを坊っちゃんに語ったと想像するのは難しくない。その時彼は、生涯自分を愛してくれた記憶のない父に対して何か新しい感情をかすかに抱いたかもしれない。それが、自分の性格の根本にある「無鉄砲」について父親との関連を表明する「親譲りの」という言葉になったのではないか。
想像を逞(たくま)しくすれば、清には早世した娘がいて、それが坊っちゃんの母だったということはないだろうか。あるいはもっと逞しくして…。
この物語の終りで、清は坊っちゃんを呼んで、清が死んだら坊っちゃんのお寺に埋めてほしいと頼み、お墓の中で坊っちゃんの来るのを楽しみに待っていると言う。小説は、「だから清の墓は小日向(こびなた)の養源寺にある。」の1句で終わる。「だから」という接続詞が内包している奥深い凄みとともに、この1句は限りなく美しく、限りなく至福に満ちている。
(マリ・クレール編集長)