松山市の梅津寺には、子供の頃から海水浴に何度も通った。私は恥ずかしいことに、その梅津寺という地名が長崎に渡来した後、松山に招かれた唐僧雪广(せっけん)の故郷の地名に由来し、黄檗宗(おうぼくしゅう)の梅津寺というお寺が今もあることを全く知らなかった。
長崎で
先月、長崎に行った。前日、めずらしく長崎に大雪が降った日のことであったが、うってかわった晴天で雪はほとんど融けていた。私は、皓臺寺の背後の風頭(かさがしら)山麓にあるシーボルトの娘楠本イネと二宮敬作の墓に参り、帰りに、幣振(へいふり)坂を下ったすぐ左手にある鍛冶屋町の古書店大正堂によった。長崎の郷土史関係の本がぎっしりと詰まった書架をしばらく見ていたら、友人に無類に面白いと教えられた、在野の長崎学者故宮田安さんの主著『長崎崇福寺論攷(そうふくじろんこう)』(長崎文献社刊)があった。帙(ちつ)に収められた古風で立派な装丁の本である。門外漢の私には高価な買い物に思えたが、とうに版元品切れで、この機会をはずすともう2度と入手は難しいと考え、思い切って求めた。
買ったばかりの本を小脇に抱えて、店を出たその足で、せっかくだからと、崇福寺に向かった。広い道に出たところで、左に折れ、少し登り加減の道を行くと道が右に曲がるあたりに竜宮城のような崇福寺の三門が見えた。正面に「聖寿山(しょうじゅさん)」という隠元禅師が書いた山号の扁額が掛けられた三門のアーチをくぐる。石段を登って、絢爛とした色彩の第1峰門を通りぬけ、大雄宝殿の前に出た。境内では、ちょうど何人かの人たちが脚立を立てて堂や回廊の軒先に色とりどりの提灯を吊しているところであった。旧正月、ランタン祭りの飾り付けである。私は堂内の諸仏を拝観し、飢饉救済の粥を炊いたという大釜を見て、背後の山にある隠元禅師や即非禅師の墓に参り山を下った。
松平定直と雪广(せっけん)禅師
旅から帰って、『長崎崇福寺論攷』をぱらぱらとめくっていた。その第2章第13節「祇樹林(ぎじゅりん)開基唐僧雪广禅師」の中に「四国松山の萬歳山千秋寺」という字が目についた。読んでみると思いがけないことが書いてあった。
崇福寺開山堂に、明治初年に廃絶した崇福寺の末庵(ばつあん)である「祇樹林」を開いた唐僧雪广禅師の一生を板に鐫(ほ)り込んだ美しい装飾の施された鐫(せん)板がまつられている。長崎の有名な富豪中村仲熙が寄進したものだという。宮田安さんによる鐫板の書下し文を見ると、雪广禅師が28才の時に、師の心越禅師に従って中国の寧波から渡海して長崎に到り、元禄11年(1698年)松山藩4代藩主松平定直に招かれて松山市御幸寺山麓にある千秋寺に入り、宝永5年(1708年)正月六日に亡くなるまでの在日32年のことがくわしく書いてある。
私などは黄檗宗については、禅宗の宗派で江戸時代に隠元禅師が中国から来て開いたことくらいしか知らなかったし、御幸寺山の麓にある千秋寺が黄檗の寺であることさえまったく知らなかった。この鐫板の文章を書いた妙庵普最(みょうあんふさい)も松山の千秋寺の住持であり、妙庵は後に宇治にある黄檗山萬福寺第26代の住持となったそうだ。
書下し文を読み進むと長崎から伊予に来た後の藩主定直(予州太守源定直(よしゅうたいしゅみなもとのさだなお)と表記されている)と雪广の美しい交友が記されていた。太守は雪广に心服し、しばしば、城に招いたり、美しい風景の山野を一緒に散策して雪广の法話を聞いたという。
こんなことが書いてあった。
「太守(たいしゅ)、1日(いちじつ) 師(し)を延(ひ)いて(誘ってというぐらいの意であろう)、三津浜に遊ぶ。海辺を緩歩(かんぽ)して古和田(ふるわだ)に到る。師すなわち曰(いわく)く。此処(ここ)あたかもわが故土(こど)(ふるさとの意)梅津(ばいしん)の景致(けいち)(風景、景色のこと)に似たり。ゆえに郷(さと)を思う歎(たん)ありと。留連(りゅうれん)(いつづけるの意)して帰るを忘る」
定直はすぐにこの海岸に雪广のための小さな茅葺きの家をつくった。そして雪广から故郷、中国の梅津に梅津寺という寺があったが久しく廃寺になっているということを聞き、同じ場所に梅津寺を再興したのである。
以後、定直は雪广とともに時々梅津寺を訪れて景色を嘆賞し、詩をつくり、仏法の楽しみをともにしたという。
宮田さんの文章を読むと、雪广の来日後の日々は松山に移るまでは決して平坦なものではない。長崎に到着してすぐに重い病を得て寝込んでしまう。病中に、一緒に海を越えて日本に来た師の心越(しんえつ)禅師が幕府の宗教政策に絡む禅宗内部のセクト争いに巻き込まれて幽閉されるという出来事が起きる。雪广の師の心越は詩文に秀で、書をよくし、七弦琴の名手としても知られていたが、もともと曹洞宗の僧で隠元の法系に連なるものでなかったのが災いしたという。心越は曲折のあった後に水戸光圀に救われ水戸に去る。病弱な身で1人長崎に残された雪广は、心越排斥の中心になった崇福寺の千呆(せんがい)禅師に師事することになった。その後に、雪广は久直と出会ったのであった。
千秋寺から梅津寺へ
何日かのちに松山の千秋寺に出かけてみた。千秋寺が、中学生のときに校外マラソンで走った川沿いの道にあることは覚えていた。
小さな橋を渡って寺に入ると、庫裏を建て替えているところで工事の車が何台か止まっていた。左手に子規の句碑がある。
「山本や寺は黄檗杉は秋」「画をかきし僧今あらず寺の秋」。
掃除をしていた寺の人に本堂へ案内してもらった。戦前は「松山に過ぎたるもの」のひとつと言われたほどの伽藍であったそうだが背後の山に高射砲陣地がつくられたため太平洋戦争末期の空襲で焼けてしまったそうだ。子規の句にある杉の並木も枯れてしまって今はない。戦後再建された本堂で勧請開山(かんじょうかいざん)である即非禅師の新しい木像を拝させていただき、唯一焼け残った山門と「海南法窟(かいなんほうくつ)」という扁額を見た後、梅津寺に向かった。
実は私は梅津寺にある寺の場所を知らなかった。遊園地の手前で車を止め、ちょうど通りがかった女性に聞くとすぐにわかった。寺は遊園地の駐車場と道路をはさんだ向かい側にあった。道路に面した入口に小さな石の門があり墓地があった。左手下に立派な墓碑があったので見てみたら、少し風化して読みづらいが雪广という字があった。
水仙の咲いた小さな畑のわきの小道から境内に上がった。こじんまりとしているが、雪广と定直が詩や禅を語り合ったのもさこそと思われるすがしい雰囲気である。楠や百合樹の巨木がそびえ、海の向こうに興居島が見える。本堂の正面には「海月山」という山号と「梅津寺」という年経た扁額がかかり、小さな美しい梵鐘がつるされていた。丁度境内の落ち葉を集めたり植木を丹精されていた住職の奥様に話を伺った。梅津寺の扁額は雪广の書で、梵鐘も雪广が鋳させて中国から取り寄せたそうだ。住職が入院されていて詳しいことがわからないと言われたが梅津寺はもとはすぐ下の伊予鉄の駐車場の近くにあったのを昭和13年に建物もそのままこの山裾に移されたそうだ。
本堂の雨戸を開けていただき、思いがけず雪广禅師の像を拝させていただくことができた。風格のあるすばらしい像である。雪广禅師の表情は見る方向や光の当たりかげんできびしい表情に見えることも、温かいやさしい表情に見えることもある。まるで禅師と言葉を交わすような気持ちがするほど、極めて人間味のある像だと思った。
この雪广禅師の像に、鯨波(げいは)を越えて海を渡り、故国を遠くはなれて法を説く知的な風貌を見るだけでなく、ふるさとの風致を懐かしんで落涙する禅師の表情さえ想像できると思うのは私だけではないだろう。
5月には境内の百合樹の巨木が黄色い小さな百合の形をした花をいっぱいにつけるという。海月山という寺号にあるように西の海を隔てた興居島の方向に沈む月も美しいそうである。
太守と唐僧の美しい思い出の残る梅津寺をまた訪ねてみたいと思う。
〈参考〉
宮田安著『長崎崇福寺論攷』(長崎文献社)・宮田安『ながさき史話集』(私家版)・『伊予の黄檗宗の研究』中山光直編著(私家版)『伊予の古刹・名刹』越智通敏著(財団法人愛媛県文化振興財団)