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加藤拓川の墓所がある相向寺
第123回 子規のおじさん
加藤拓川(たくせん) 
 松山市拓川町他
 子規のおじさん、加藤恒忠、号、拓川の足跡をたどった。 外交官であった拓川は、晩年を松山で過ごし、死の寸前までの一年間、市長も務めた。

『ひとびとの跫音』
 司馬遼太郎の小説『ひとびとの跫音』を好む人は少なくない。  『ひとびとの跫音』は、子規の亡き後に、妹律の養嗣子となった加藤拓川の三男、忠三郎とその生涯の友である『驢馬』の詩人ぬやまひろしの2人と司馬自身の関わりを軸に、子規全集出版に至るまでのできごとや、『坂の上の雲』の主人公である秋山兄弟、正岡家周辺の人々を描いた小説だ。いわば、日常に生起する些事を淡々とした筆致で綴った作品で、耳目を聳たせる戦争も英雄も登場しない。読み進むうちに、市井に暮す無名の人々の矜恃高く、真率な生き方への司馬の共感が胸にひたひたと迫って来る。趣はやや異なるが、私は、鴎外の『渋江抽斎』を想起するところもあった。
 私が、加藤拓川について少しなりとも関心を抱いたのはこの小説のおかげである。拓川は「子規の外叔父(子規の母、八重の弟)ながら子規の幼時に当主を失った正岡家にとって父がわりというべき保護者であった。人に対して褒貶することのすきな子規も、喧嘩っ早くて正義感の強いこの若い(子規より九歳長)外叔父を保護者という以上に敬愛していた」(司馬遼太郎『ひとびとの跫音』中公文庫)。
 その拓川がどのような人であったのかは、『ひとびとの跫音』下巻の「拓川居士」の章に司馬が委曲を尽くしている。
『拓川集拾遺編』の「加藤恒忠略年譜」を併せて、簡単に拓川の年譜を摘録してみよう。

拓川という人
 拓川は、幕末の安政6年(1859年) 正月22日に松山市湊町4丁目、松山藩儒であった大原有恒(観山)の三男として生まれた。翌年が万延元年で桜田門外ノ変、8歳の時には再度の長州征伐に出た松山兵が敗退した。10歳の時に明治維新を迎え、松山は官軍の土佐兵による占領下におかれた。明治3年、12歳で藩校明教館に入る。父を失った明治八年「東京に遊学、岡千仞の塾に」入った。翌明治9年9月司法省法学校に入り、明治12年1月、父の実家加藤家を再興、2月に「法学校を退く」。これは、藩閥の威を嵩にきた校長に抗議しての、陸羯南や原敬らとの連袂退学であった。
 退学後、拓川は約5年間にわたって、中江兆民の塾に入ってフランス語を学んだ。司馬は兆民と拓川に漢学の深い素養があったことが両者のフランス語習熟に大きな力を与えたことを指摘している。さらに、司馬は、拓川が語学だけでなく、兆民と「自由平等は人間社会の大原則なり」「俗は質樸簡易を尊ぶ」という思想の風骨において同類に近かったのではないかとも書いている。
 明治16年、25歳の時に旧藩主久松定謨伯に随行して渡仏。明治19年にはフランス在住のまま外交官試補になった。明治24年2月、33歳の時に帰国し、外務省参事官や外務大臣秘書官などを務める。以後、再度のフランス勤務と帰国、明治30年に結婚。明治35年44歳の時にベルギー駐在特命全権公使となるが、この年、拓川がベルギーにいるときに忠三郎が生まれた。
 明治40年49歳、ジュネーヴの万国赤十字会議に全権として出席した後、5月9日に官を辞す。この年9月に「陸羯南逝く」。
 明治41年大阪新報社に入社。5月に松山市選出の衆議院議員に当選。大正元年54歳、5月15日に衆議院任期満了、5月27日には貴族院勅選議員に任ぜられた。
 大正7年60歳のときには、外務省嘱託としてパリなどに出張、大正8年には特命全権大使として、シベリアに出張するなどして、第一次大戦後の対独平和条約締結を行った。
 大正11年64歳、松山市長に就任し松山に移住。松山城址の公園化や松山高等商業学校開設に力を尽くす。大正12年65歳、病高じて市長を辞し、3月26日午後10時50分永眠。3月30日、三番町の私邸に於いて告別式、同日、相向寺に葬られた。

戦う市長
 『拓川集追憶編』の井上要の回想に拓川は外国にある時から「自分は郷里のために何事も貢献することが出来ないが青年教育のためには尽くしたい」と口癖のように云っていたとある。井上は「加藤君の松山に対する最も大きな功績で且つ後世に残るものは北豫中学校を援助して今日に至らしめた事と、高商(現松山大学)を創設し今日の高等教育を完成したことである」とし、拓川が、校長の選任から資金の調達に至るまで、両校のためにいかに縁の下で剛腕を発揮したかを紹介している。
 拓川は最晩年に松山市長を務めた。わずかに1年間であったが、井上は「これは失敗だったと思う。人物高潔であまりに偉大であった。おそらくはその市長時代自分も不愉快であったであろうと思う」と書いた後に、ただ一つの功績として、城山の陸軍省からの払い下げ実現をあげている。城山は拓川の働きで市民公園になった。
 井上要の云う、拓川の感じた不愉快とは何か。死に至った病気はもちろんのことだが、阿部里雪(当時柳原極堂経営の伊予日々新聞記者。俳人。)が前掲の追憶編に書いた以下の挿話のことではないだろうかと思う。
 拓川の亡くなる1ヶ月前、松山市の予算市会が開かれた。病状が悪化していた拓川は1週間の会期中にわずか1日しか出席できなかった。拓川が敢えて末期の命を削って出席した当日の予算市会の議題は「在郷軍人会と青年会に対する補助金削減について」であった。  拓川は、青年会の補助金に対しては容易に妥協したと言う。ところが、在郷軍人会の補助金復活に対しては断固反対して、原案固持を強烈に主張した。
「在郷軍人会は有益か無益か。例え有益であっても市が補助する必要があるかどうか私は疑いなきを得ない。……。そんなものよりも他にいくらでも補助せねばならぬものがある。教育費などがその一例だ。済美女学校にしろ北豫中学校にしろ財源が許すならば大いに補助額を増したいと思っている。……今度の戦争(第一次世界大戦)は国民と国民との戦争である。故に国民皆兵でなければならぬ。日本では動員と云えば軍人に限られているが、外国では労働動員さえやっていた。世界の大勢はそこまで進んでいるのに独り日本では軍人だけが戦争をするので、故に軍人だけが忠君愛国者顔をして、他の一般人士との間に境界を作ろうとしている。……在郷軍人会が軍人のみの会でない国民皆兵の主旨から、軍人であるものないものも一団となって組織したものであれば私は補助を与えるに決して吝かなるものではない。平和の際にこの種の団体の存在する事自身が既に間違いである……。○○君は青年教育に軍人会が力を添えると言われたが怪しからんと思う。青年教育は大切だが、これに今日の如き軍人精神を注入されてはたいへんだ。どちらを見ても相変わらず軍国主義、帝国主義、奪略主義で満ち満ちているのは困る」。
 瀕死の市長拓川の激論に、議場は静まり返った。
 議員の中に、一矢を報いるものは、ただの1人もなかったが、採決の結果、満場一致で補助金復活の建議案が可決され、拓川の志は無に帰した。議員はすべて、在郷軍人会を敵にまわして次回の選挙結果に悪い影響が出るのを、ひたすら怖れたのであった。
 予算市会が終わった直後、3月1日の拓川の「病床日記」に「高浜観月快楽」とある。拓川は、高浜に建てた新しい家「浪の家」から見える月や風景がよほど気に入ったようだ。絶筆にも「再生観月吾常於此樓」と書いている。私は、『拓川集』所収の「浪の家」の写真を見て、高浜に向かった。梅津寺を過ぎ、黒岩の方へ入って、細い道を下った。子規の句碑のある場所から岬の端に上がると、秋晴れの空の下に青い海に浮かぶ興居島とターナー島がくっきりと見えた。拓川が味わった愉快が少しだけわかるような気がした。

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1996-2012


石手川 拓川の墓所がある相向寺付近
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加藤拓川。明治26年35歳。
パリで写す。「拓川集 随筆編」より

相向寺。拓川は二代住職と親交があった。

相向寺の拓川の墓。
墓石にはただ「拓川居士骨」とある。

松山市高浜の子規句碑。この辺りに「浪の家」はあった。

拓川が愛した高浜の家「浪の家」。ターナー島が見える。「拓川集 日記編」より

興居島とターナー島の変わらぬ風景