第112回 今出紀行
松山市末広町~土居田~保免~余戸~垣生
明治28年、子規が最後の帰省中に書いた「散策集」にある、今出(現在の西垣生町)の村上霽月を訪ねた吟行の旅をたどってみた。
正宗寺から
明治28年8月末、松山中学に赴任中の夏目漱石の下宿愚陀仏庵に、日清戦争従軍後に悪化した病が漸く小康を得た子規が同居した。
子規は9月末から10月19日に再び上京する間際まで、病気の顔色を窺いながら、指導していた松風会の会員たちと、あるいは漱石や柳原極堂と、あるいは1人で、前後5回の吟行に出かけた。今出の村上霽月を訪ねたのは10月7日の第5回目の吟行である。この後子規はなくなるまで故郷の土を踏むことはなかったから、これが松山での最後の吟行となった。子規は前日には漱石と道後に出かけている。連日の秋の快晴に誘われた吟行でもあった。
私はまず正宗寺に向かった。この日人力車を雇って愚陀仏庵を出た子規は、末広町の正宗寺に寄って住職の釈仏海を誘った。仏海は子規の幼馴染みで俳号を一宿という。一宿は都合が悪くて同行できない。今、正宗寺本堂の脇にそのときに子規が詠んだ「朝寒やたのもとひびく内玄関」の小さな句碑がある。
前日漱石と道後に出かけた吟行の書き出しは「今日は日曜なり天気は快晴なり病気は軽快なり遊志勃然漱石と共に道後に遊ぶ……」という勢いだから少しさびしい出発だ。
雄郡神社から土居田へ
正宗寺から子規は小栗神社すなわち、最近女神輿が出ると話題になった雄郡神社に向かう。私は正宗寺の前から室町の交差点を右に曲がり56号線を越え、突き当たりの焼肉店の前を左折。子規が行ったのは郡中街道であるが、昭和41年初版の松山市民双書一「散策集」に掲載されている明治36年測図の地図をもとにした子規の足跡図と、現在の地図を見比べると、この道はほぼその旧道に近いようだ。左手の雄栗餅(おぐりもち)という旗のなびく和菓子舗を過ぎるとすぐに雄郡神社である。子規はこの日に、このうぶすなの神社の前でばったりと友人の森円月と出逢っている。「御所柿(ごしょがき)に雄郡祭(おぐりまつり)の用意哉」(境内に句碑がある)「男ばかりと見えて案山子の哀れなり」「稲筵(いなむしろ)朝日わづかに上がりけり」などの数句を詠む。今は、すっかり宅地化して農の風景は点在しているばかりと言った様子であるが。当時はこの辺り一帯に豊かな田園風景が広がっていた。雄郡神社の前から右にまっすぐ伸びる道を進む。青葉図書という出版社だとか、生協を過ぎ、雄新歯科をすぎると道は左に曲がり突き当たりに雄新中学が見える。中学に沿って右に折れ、すぐ左に折れ、また右折、すぐ先の踏切を越えると、善復寺というお寺の隣に子規の句碑がある鬼子母神がある。「すす玉(ジュズダマのこと。散策集では「鳩麦」となっている)や昔通ひし叔父が家」。この道は叔父が余戸に住んで居た幼い頃に子規が常に行き来したなつかしい道であった。子規はこの句を子供の頃の遊びを思い出して詠んだのである。
子規は「御旅所の松、鬼子母神、保免の宮、土居田の社など皆昔のおもかげをかへず そぞろなつかしくて」と書いているが、当時は、色づいた稲穂の波の向こうに、神社や寺の森やよく知られた巨木などが、目路を遮るものもなく、手に取るように見えたことであろう。例えば大和の飛鳥路を歩く人たちが、常緑樹の茂る大和三山や三輪山、二上山などを眺めて深く心にとどめたように、当時この地に生きた人々の誰もが子規と同じくこの故郷の風景を記憶したに違いない。
「御旅所の松」は雄新中学の近くにあったようだが今はない。鬼子母神を過ぎると、旧道は環状線に突きあたる。横断して向側のまっすぐに続く道に進み、古い地図で見当をつけ、最初の道を左折した。マイクロバス以下が進入可能という狭い道だ。少し行くと幸いにも、右手の須山さんという門構えのお宅の前に「子規居士を偲ぶ道」という石碑が建っていた。側面に旧郡中街道とある。しばらくこの道を進み、右手に長く伸びる道を見つけて曲がる。古い地図の本村のあたりで、道に面した酒屋や文具店に入り「土居田の社」について聞くが皆目わからない。一旦あきらめ方角の見当がつく、「保免の社(日招八幡神社)」に向かう。思いのほかうまく行けた。文具店から200メートルほど先の右手に美容室や焼きたてパンの店がある四つ辻を左折。道なりに右に、左に、くねくね曲がりながらしばらく行くと小さな五叉路に出る。ここが余戸東と保免西の境界だ。右手には「竹の宮」(余戸の三島神社)の森が見える。この五叉路を東に進み、右に一度、左に一度曲がったら「保免の社」に着いた。
見つけることが出来なかった「土居田の社」は子規記念博物館に電話をかけて尋ねてみた。土居田の「本村公園」の場所にあったが今はないそうだ。「本村公園」は先ほど場所を尋ねた「文具店」の四つ辻を左に数10メートル入ったところである。
こうして、全ての場所がわかってみると子規が書き連ねた御旅所の松や「鬼子母神」、「土居田の社」「保免の宮」、さらにこれから尋ねる余戸の三島神社は、すべてが指呼の間にあると言ってもよいくらいの位置関係であった。
今出街道
「本村公園」から先ほどの五叉路に戻り、右折して豪壮な長屋門の先の路地を右に入ると「竹の宮」即ち余戸の三島神社がある。境内に枯れたまま保存されているお手引きの松や「行く秋や手を引きあひし松二木」という子規の句碑の写真を撮って、県道久米垣生線に出る。「余戸も過ぎて道は一直線に長し」と子規が書いた昔のままの今出街道ではないが、この県道は旧道とほぼ同じ方向に伸びている。旧道は県道より100メートル程北側を通っていたようだ。この道のつきあたりが垣生の三島神社で手前右手が村上霽月の屋敷跡である。
10分も走れば「霽月の村居に到る。宮に隣松林を負いて倉庫前いかめしき住居なり」。古い写真に見える松の巨木はないが再建された長屋門の脇に楠の大木が覆いかぶさるように枝葉を広げていた。子規は霽月と歌や句について語り合い、昼食後は今出の海辺を散策した。夕刻今出を出た子規は途中、余戸の森円月邸に立ち寄る。句や詩を揮毫した後、愚陀仏庵に向かう頃は日が既に傾いていた。
車上の子規の脳裏に様々な思いが去来する。東京で子規を待つ母のことか、不治の病と余命のことか、俳句や短歌の革新についてか。子規はただ、「知らず何事ぞ」とのみ書いている。「行く秋や我に神なし仏なし」これが、子規の『散策集』最後の句であった。決意とも、非命の受容ともとれる句である。子規は灯が点る頃、愚陀仏庵に帰り着いた。
〈参考〉
松山市民双書一『散策集』・愛媛文化双書11『写真集 子規と松山』(写真風戸始 解説越智二郎)子規選集14『子規の一生』同9『子規と漱石』(増進会出版社)・都市地図松山市 (昭文社)森円月「子規さんと余戸」(『柿』昭和二十年四月号所収。森直樹氏のご教示による。)
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