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第98回 庚申庵訪問記
 
松山市味酒町 
 消滅の危機が伝えられていた江戸時代の俳人栗田樗堂の庚申庵が復元公開されている。松山市が市政改革の1つとして募集した学生論文がきっかけとなってのことという。暑い夏の日に訪ねてみた。

 一茶の友
 オランダ人の彫刻家ケース・オーエンスに彼が庚申庵を訪ねた時の写真を見せてもらったことがあった。藤棚の下の縁先に、当時、庚申庵を守っていた写真家とケースが腰を下ろしていた。日本庭園を研究していたケースが日本に着いたばかりの頃、10年以上昔の写真であった。写真の彼の顔に幼さが残っていたことと、緑に覆われた庭の風景の素晴らしさが記憶に残った。それより、ずっと前に、庚申庵の存続の危機が新聞に伝えられているのを見たことはあったが、実際に訪ねたことはなかった。栗田樗堂(ちょどう)についても松山の江戸時代の有名な俳人というほどのこと以外はほとんど知らなかった。一茶が来遊した樗堂の二畳庵があった場所と言われる阿沼美(あぬみ)神社の句碑にも、すぐ近くの学校に通っていたのにまるで気付くことがなかった。
 栗田樗堂が、身近に感じられるようになったのは、金子兜太(とうた)が解説した『一茶句集』を読んでいて、栗田樗堂と小林一茶の交友について知ってからのことである。一茶は、寛政7年正月、松山に来て、樗堂の二畳庵に20日間滞在した。翌8年7月にも再訪し、その時は7ヶ月ほど滞在した。樗堂は15歳年少の葛飾派の俳諧師一茶をことのほか温かくもてなしたそうだ。
 現在、小林一茶の名はその親しみやすい句のせいで、小学生さえ知っている。晴雨、行動、見聞した事実や作句をあわせ記した『7番日記』までが文庫になった。「釣りバカ日誌」の西田敏行が一茶になってその実像に迫るテレビドラマまでつくられているほど人気がある。
 ところが松山来遊当時の一茶は駆け出しの俳諧師で、亡くなった師の二六庵竹阿が西国に残した足跡を頼ってきた無名の存在であった。一方、現在は俳句の世界以外では、無名の存在に近い樗堂は、松山では知られた酒造家の豪商で、大年寄役などの公職を長い間続け、俳人としても、一時期は、京に上って蕪村系の人々と交わるなど、中興俳諧に名を連ねる有力な遊俳であった。一茶よりも樗堂の方がはるかにメジャーで大きな存在だったのである。
 当時、俳句が盛んな松山藩を蕉風の俳諧が風靡していた。一茶は、かつて松山を訪れて厚遇された師匠竹阿から二六庵の名をもらい、蕉風の流れを汲んだ葛飾派を受け継いでいた。そのことに、樗堂が一茶を温かく迎えた背景があったが、それにしても、15歳も年下で無名格下の一茶に対する樗堂のもてなしには並々ならぬ温かさが通っていたようだ。
 金子兜太は『古典を読む 一茶句集』に樗堂と一茶が巻いた両吟歌仙から初折りの裏12句から初めの6句を書き抜いている。
 以下少し引用してみよう。
菊折て けふも二人がぶらつきて 一茶
あぢな事より物おもひする 樗堂
いつぞやの空に似たりし朝朗(あさぼらけ) 樗堂
伊賀の古庵(ふるいほ)涼しかりける 一茶
たしなみに医師めさるかと問れつつ 一茶
風呂振廻(ふろぶるまひ)の宵々の秋 樗堂
〈菊を折ったりして、今日も2人はぶらつきましたな〉
〈気のきいた、面白いことをおもいだして、それを切掛にしてあれこれとおもいにふけったりしましてなあ。〉 
〈伊賀の古びた庵は涼しゅうござんしたな。〉
〈お医者さんをお呼びになるのは、日頃のたしなみということですかな、と訊ねられたりして〉と。老樗堂はここから、〈養生〉ということにでも想をむけたのか、「風呂」が出てきて、「風呂振廻」とくる。医者とか医者を呼ぶたしなみの人などから離れて、庶民の近所付き合いの秋の夕暮れがここにひらける。伊賀の古庵から、松山の町暮らしへ。
まことに気分の和らいだ両吟ではある。
「樗堂と一茶の風交は俳縁俳交などというものを超えたところまでいっていた、と私は感じてやまない。」
と金子は書いている。
 一茶は、江戸から故郷の柏原へ帰る記念に上梓した自選の俳諧撰集『三韓人』に樗堂から届いた最後の手紙をそのままのせた。「最早(もはや)生前ご面会もあるまじくか」あの世でお会いしましょうと書いたその手紙は樗堂の訃報に遅れて一茶のもとに届いた。一茶は「8月22日翁みまかりぬと聞きて、筆の落るもしらずおどろく折から、またかたのごとくの書(ふみ)とどく…大事の人を亡くしたれば、此の末つづる心もくじけて。ただちに信濃へ帰りぬ。」と悲嘆の滲んだ言葉を綴っている。
 俳句について門外漢の私の場合は、樗堂の人柄の温かさ、一茶との交友の深さに触れたことで樗堂の存在がぐっと近くなったのである。
 庚申庵
 電車を古町の電停で降りた。先ず、かつての栗田樗堂の屋敷跡で、二畳庵があったとされる阿沼美神社境内の栗田樗堂の句碑「浮雲やまた降る雪の少しづつ」を最初に訪ねた。となりに子規の句碑もあったが、城との距離や、境内の巨木以外に昔を思わせる手がかりは何1つ残っていない。
 神社を出て伊予鉄道高浜線の線路にもどり、線路沿いに南西に下ると、5分もかからないうちに庚申庵に着いた。外構が整備され、高級和風旅館風の新しく立派な管理棟が建っている。くぐりの門の脇には庚申庵と刻んだ自然石が置いてある。中に入ると、低い垣に囲まれ、藤棚の濃い緑に包まれた庚申庵が見えた。先客はご婦人が1人。藤棚の下の縁先に腰を下ろして庭を眺めている。樗堂自筆の「庚申庵記」には、6畳の草屋をつくり、茶経を書いた中国唐代の詩人陸羽らの顰(ひそ)みにならって茶を煮るための茶室をつしらえ、ささやかな笹垣を廻らせて、ちいさな杯を浮かべることができるほどの細い流れを引き入れたとある。綺麗に修復された庚申庵は、樗堂の残した文献にあたって、創建当時の様子を可能な限り再現してあるそうだ。庭を歩き、建物のまわりを歩いてから、私も藤棚の下の縁側に腰を下ろした。マンションが建ち並ぶ周囲の景観からは想像も出来ない、ささやかな別天地が広がっていた。
 樗堂のアイデンテイティ
 庚申庵は、紛れもなく、芭蕉を思慕する樗堂が文人としての理想の暮らしを思い描いてつくった空間であった。
 ところが「庚申庵記」には、芭蕉の面影を追いながら、庵を結んだ樗堂が、世事に倦み疲れ、語るべき友の少ない自らの日々の暮らしについて、世を厭(いと)う狷介(けんかい)な言葉を連ねている。庚申庵は、彼の自由で風雅な文人生活の場としてあったが、それは、俗臭芬々たる現実生活の一時的な逃避の場所でしかありえなかったのだろう。仕事が出来てお金持ち、公人としても重きを為していた樗堂はたとえ有力な遊俳ではあっても、旅に生き、旅に死んだ芭蕉の境涯を望むことは難しかったに違いない。いかに、のんびりした風土とはいえ、樗堂の松山の暮らしをとり囲む日常が、そんなことを許しはしなかったのは自明のことと思われる。
 しかし、さすがに、樗堂はただのお金持ちでは終わらなかった。老境を迎えた樗堂は、あっさりと松山の暮らしを捨て、瀬戸内の御手洗島に移住し「二畳庵」を再興するという挙に出たのである。その島で樗堂は生涯を閉じた。
 樗堂は自らのアイデンテイティを名利や生まれ故郷に求めず、一茶らとの交友に見せた美しい心情や自由で風雅な文人的生活に求めたのだと言えよう。
 かつて老樗堂が心ならずも捨て去った「庚申庵」は、新たに結成されたNPO法人「庚申庵倶楽部」によって守り継承されていくことになった。歴史的遺産としての庚申庵を保護保全するとともに、広く地域住民に対して活用、調査、研究及び普及に関する事業を行い、地域文化の高揚とネットワークづくりに寄与することを目指している。
 管理棟で遺墨集などをもとめて、外に出ると、強い日差しが照り付ける中、麦藁帽子を被ったNPOの若い女性が黙々と庭の雑草を取っていた。新しい庚申庵を舞台にした肩の張らぬ小さなイベントも次々と企画されている。また、近い内に訪ねてみたいと思った。

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1996-2012


昔の姿に復元された庚申庵の縁側。ノダ藤の棚が心地よい日陰をつくる。
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大法寺山門
庚申庵内部

新築された庚申案の管理棟。入口は右手である。

阿沼美神社境内の樗堂句碑。一茶が訪れた二畳庵があった場所という。



庚申庵の窓。

NPOの女性が庭の草を取っていた。

裏手の井戸

一茶が来遊したときに渡った三津の渡し。現在は市営の渡し船が運行されている。

阿沼美神社境内の樗堂句碑。一茶が訪れた二畳庵があった場所という。
庚申庵
【開園時間】
 午前10時から午後6時まで


【休園日】
 水曜日

【休園日】
 無料

【交通】
 JR松山駅徒歩10分
伊予鉄高浜線古町駅徒歩5分
伊予鉄市内電車宮田町徒歩4分

【お問い合わせ先】
 NPO法人
庚申庵倶楽部事務局
〒790-0814
 松山市味酒町2丁目6-7
 TEL:090-5915-9352
 庚申庵史跡庭園内