第25回 茶ヤ谷から惣川へ
天にひらかれた山里
土佐から伊予への道の1つに、高知県梼原町から四国カルストを越えて愛媛県の喜多郡へ抜ける道がある。幕末の頃、勤王の志を抱いた土佐の郷士たちが越えていった道である。その道をたどり、韮(にら)が峠を越えて四国カルスト大野が原の麓、愛媛県野村町惣川へと下った。
脱藩の道
4月半ばの昼前、快晴の高知県高岡郡梼原町から国道197号線を左折、農協のガソリンスタンドの先で橋を渡って、四万川の方向に入り、茶ヤ谷をめざした。広く新しい舗装の道を少し行くと、道が細くなる手前に茶堂があり、建物の由来が記された真新しい案内板があった。所々にある「坂本龍馬脱藩の道」の道標を便りに、幅の狭くなった道を進む。梼原森林組合の木材加工場の先で峠を1つ越すと、川の両側に田圃が広がった広野という集落に出た。城川町へ行く道と四万川への道がここで2手に分かれている。右の四万川への道を川に沿ってさらに進んだ。下校する2人連れの小学生とすれ違う。澄んだ空気のせいであろう。光がきらきらと輝き、芽吹き始めた緑がことのほか鮮やかだ。さらに奥へ10分近く走って行き着いた生コン工場のある少し大きな集落が四万川だった。茶ヤ谷は四万川の最奥部の集落である。白い石灰岩が露出した四国カルストの特徴ある山容が前方の高みに見え始めてまもなく茶ヤ谷に着いた。
「土佐源氏」
峠の上がり口にある茶堂の前で車を止め、茶堂に上がって腰を下ろした。遠くの田や畑で働く人の姿がぽつんぽつんと、止まったように見える。風はなく、上の農家の庭先の鯉のぼりと幟が垂れ下がっていた。あたりは、眠ったように静かだった。
昭和16の冬2月、民俗学者・宮本常一は徒歩で愛媛県の内子町から河辺村に入り、惣川村の小屋から、腰まである雪の中、韮が峠を越えて、この茶ヤ谷を訪れた。今なお広く読まれる、宮本の『忘れられた日本人』(岩波文庫)の中に「土佐源氏」という章がある。宮本が茶ヤ谷の水車小屋でチロチロと燃えるいろりの火にあたりながら、80の年をかなりこえた、目の不自由な、歯も1本もなくなった小柄な老人から聞いた話しをまとめたものである。老人は、生まれ故郷である奥伊予の風景や人々のくらし、性の目覚めの思い出、馬喰をしていた頃の色ざんげを生き生きとあからさまに宮本に聞かせている。老人の話は無類におもしろく、「土佐源氏」の名にし負う哀切な物語にもなっていた。話には、過ぎ去った長い年月がくわえた脚色もあったし、巧まぬ虚と実が入り混じっていたが、(※佐野眞一氏の労作「宮本常一と渋沢敬一旅する巨人」に老人の実像が取材されている)「土佐源氏」は多くの読者をとらえ、後には1人芝居にもなった。
老人から「あんたもよっぽど酔狂者じゃ」と言われた宮本は戦後にも2度ほど土佐と奥伊予の山村を訪れている。宮本は、山村を調査する若い研究者に「樹を見ろ。いかに大きな幹であっても、枝葉がそれを支えている。その枝葉を忘れて、幹を論じてはいけない。その枝葉のなかに大切なものがある。学問や研究はあくまで民衆や庶民の生活を土台に築き上げるものだ」とよく語ったそうだ。
(前掲書による)
韮(にら)が峠
茶ヤ谷から峠を越えていったん道は下りになり、川に出たところで再び上り始める。ウグイスの声を遠くに聞きながら、特に難渋することもなく県境の韮が峠に到着した。見晴らしのきかぬ頂上を通り過ぎ、左手、惣川へという案内板にしたがって、つづら折れの道をどんどん下る。「分け入つても、分け入つても青い山」という山頭火の句を思い出すような風景である。峠を降り野村町に入った最初の集落が大久保というところだった。さらに下ると小松というバス停があった。小松はかつての小屋のことであり、「土佐源氏」の馬喰の故郷だ。竜馬は小屋から山を越えて河辺村の神納の方へ下っていったといわれる。清冽な谷川にそって下っていくと、川久保、今久保など、美しい山の集落が次々と現れ、20分ほどで、現在の惣川の中心地三島へ着いた。
惣川は遠くない
川筋の三島からバス道を右に入って急坂を一気に上った。狭い谷川沿いに家々が寄り添うように建っている麓の集落のイメージは、一瞬にして裏切られる。天神は意外なほどに、広く明るい台地だ。空を間近に感じられるところといってもいい。かつての中学校である「野村町少年自然の家」に車を止め、田植えの準備が進む田圃の間を土居家に向かった。
まわりを囲む山々の植林の間に、新緑が斑の模様をつくっている。家々の庭先のつつじや藤、菜の花、大根などの花々が目を楽しませてくれる。土居家は、かつての往還であった肱川町からの林道への取り付き、元の農協や郵便局の建物に近い山裾にある。土居家を訪れるのは、昨年の11月、茅葺き屋根の吹き替えが終わったときに開かれた催し以来3度目だ。なつかしい雰囲気を漂わせた郵便局舎の建物を右に曲がると、新しく凛とした、大きな茅葺き屋根が見えて来た。茅を葺き替えるために設けられていた鉄骨の構台はすでに取り払われ、土居家は、湧き上がる新緑と青い空を背景に風格のある姿を甦らせていた。
修復の見事さに心打たれながら、夕刻まで土居家の庭や裏山で過ごし、旧往還の林道から肱川町に向けて帰路についた。
惣川は遠いという印象を持つ人が多い。しかし、土居家の裏山から新しい茅葺きの展望台が出来た峠に出て、かつては名物饅頭を売る茶屋があった中津、峰峠(むねんと)の茶堂を通り、肱川町の風の博物館に抜けるこの道ならわずか15キロ、徒歩の旅も充分に可能である。車なら内子まででも1時間かからずに着くことが出来る。
〈参考〉
宮本常一『忘れられた日本人』 (岩波文庫)、「土佐で稼いだ長州大工」『宮本常一著作集41周防大島民俗誌』所収)、村上恒夫『坂本竜龍馬脱藩の道を探る』 (新人物往来社)、 犬伏武彦 『民家ロマンチック街道―伊予路』、 西四国山地『惣川民俗誌』 峠が結ぶ交流篇 (山口大学人文学部湯川洋司編)
野村町茅葺き民家交流館「土居家」
(野村町大字惣川1290)
宿泊料 1泊朝食付き
●1人1部屋使用
大人(大学生以上) 3,000円
子供(高校生以下) 2,000円
●2人以上1部屋使用
大人(大学生以上) 2,500円
子供(高校生以下) 1,500円
お問い合わせ/野村町役場企画調整課 TEL0894-72-1111
6月上旬頃一般利用が開始される予定です。
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