幕末の風雲児といわれる坂本竜馬は、文久2年(1862年)3月、檮原街道を伊予へ抜けて脱藩した。「坂龍飛騰(ばんりょうひとう)」といわれるが、脱藩により自由の身となった若い竜馬が、薩長同盟や大政奉還を実現に導いて維新の革命に決定的な役割を果たしたことは誰でも知っている。土佐から伊予への山道を、多くの土佐の若者が自由の天地を求めて越えたが、自由民権の思想家植木枝盛に「自由は土佐の山間より」という言葉もある。土佐の山間は、自由への通路であるとともに、その源泉であったのかもしれない。「脱藩の道」をマウンテンバイク(MTB)で越えてみた。
朽木峠
1月中旬の寒い日、午後1時過ぎに北宇和郡吉田町を友人の車にマウンテンバイクを積んで出発した。午後3時近くに強い北風の吹く高知県檮原町太郎川公園に着き、すぐに友人と別れて、マウンテンバイクに乗りかえる。東津野村、葉山村と下りが大半の国道197号を一気に下った。約2時間半走って、午後5時半頃須崎市に着き、国道沿いの須崎プリンスホテルに入った。ホテルの近所の食堂で鰹の刺身定食というのを1人で食べ、明日に備えて早めに就寝。
翌朝は、少し寝坊をしてしまい、7時過ぎにホテルを出発。コンビニでおにぎりを買って食べ、水筒に水を補給して国道494号を佐川方向に走った。桑田山温泉の案内板を過ぎて町を離れるとS字坂の登りの連続になる。ギヤを軽くして歩くペースで登る。トラックの多い道である。斗賀野トンネルの手前を左の斗賀野峠の方に入り、また少し上る。
8時半過ぎに、川の内の「脱藩の道葉山街道」という龍馬の似顔絵がある案内板の前に着いた。地図を見ていると、軽自動車が降りて来たので、運転をしているおじいさんに「朽木峠はこっちですか」とたずねてみた。「ずっと一本道じゃから、奧へ奧へ上がっていったらいい」と笑顔で教えてくれる。少し元気が出た。舗装された道の入口右手にある馬頭観音に賽(さい)して、左手に谷を見ながら上る。10分も登ると道が細くなり、あっけなく、舗装も途切れた。勾配がきつくなったり、平坦になったり、写真を撮るのに面倒だから自転車は押して登ることにした。民家は山裾と谷筋に数えるほど。前方の気持ちよく晴れた空を見ながら山道を奧に進むと、1度途切れたと思った民家が右手の山裾に見えた。前庭に上がって声を掛けたらおばあさんが奧から出てきた。また、道を訊くと、「この先の登りを越したら葉山までは下りばっかり」とのこと。この民家の背後の短く急な登りを過ぎると棚田に植林した杉林の登りが続く。その暗い杉林を越すと道が平坦になり朽木山荘とか書いた木の看板があった。谷の方を矢印が指しているし、立入禁止と書いてあるから、右手の山に続く道を行く。厚くつんだ落ち葉を踏みながら進むと、少し先にまた杉の植林の中の登り道。多少、岩がごろごろしているがしっかりした道で険しくも急でもない。自転車は押し上げていく。すぐに峠の頂上に出た。植林のせいで薄暗いが、昔は日光のふりそそぐ明るく気持ちのいい往還であったろう。多くの人が行き交ったに違いないと思う。
峠の上は少し広くなっていて、ベンチや龍馬脱藩の説明板、茶店様の小さな建物がつくってあり、葉山への入口には葉山藩と墨書された看板の掛かった関門がつしらえられていた。毎年、葉山村が龍馬脱藩の日にこの峠を越えて歩くイベントを開いている。そのために新しく作られたものだ。ここまで1人の人にも、また幸いにも猪にも出合わなかった。猪は夜行性だからそんなにうろうろはしていないと思うが、脱藩紀行の本にはやけに猪だとか毒蛇に注意の記述があり、臆病な私は木の枝がカサコソと音を立てただけで胸がドキンする。
木の門を抜けると少し急な下りが続く。しかし、これも里山の上り下りの道といっていいくらいで、さほどのものではない。時々、試しにマウンテンバイクの真価やいかにと乗って下ってみる。しかし、転んで怪我でもすると後が続かないから、すぐによした。杉の植林が山を覆っているが、片側が開けているからそれほど暗くはない。大ケヤキの看板があるので、立ち止まって見まわすと、下に少し元気のない大ケヤキが立っていた。小さな枯れた流れを1つ越えて下っていくと、未舗装の林道に突き当たった。当てずっぽうで右に下る。展望が一気に開けた。遠くの山並みを見ながら気持ちよく飛ばしていく。棚田の間を抜ける道があったが、そのまま舗装路を下る。下り切ったところに、三間の川の集落へ入る旧往還を示す案内板があった。ジョン万次郎の漂流紀行を聴取し『漂巽紀略(ひょういきりゃく)』を著し、龍馬に海外交易の知識を与えたという土佐藩のお抱え絵師河田小龍(かわたしょうりゅう)の似顔絵看板だ。その細い道を入ると茶屋跡という看板があった。前に立っていたおじいさんと少し話す。大正4年生まれ。村の最長老だと言われる。往還が生きていた頃は、須崎の文化は葉山村で1番最初にこの三間の川に届いたという。「向かいの家では店屋をやっていて、豆腐をひいておったし、菓子や雑貨も売っておりました。こどもの頃、旅の大人に「ぼう唱歌を歌ってみい」といわれて歌を歌ったら、向かいであめ玉を買ってもらったのを覚え取ります」と言われる。おじいさんと別れてぐんぐん下る。つい、山内侯が弘化元年の津野山郷視察の折に朽木峠を越えた後、ご休憩遊ばされたと伝わる佐竹家は行き過ぎてしまった。姫野々まで下る。なるべく姫野々城跡の麓を通る道を選ぶ。小学校に行き当たった。校庭で走り回る子供たちを見ながら、背後の山にある勤王の志士千屋兄弟の墓所に上がり、茶畑から町を眺めてみた。姫野々には小学校のあたりに番所があったという。休み時間が終わり子供たちがいっせいに校舎に駆け込んでいく。旧道に戻り、三島神社の先で国道に出て永野にある村役場を過ぎ、少し早いが、通りがかった葉山ふるさとセンターで昼にした。親子どんぶりを食べる。ゼリーがついていた。紙のおしぼりといっしょに出された水がとてもおいしい。
布施が坂
食後、水筒に水を入れてもらい、布施が坂の旧道を目指す。布施が坂は辞職坂の異名があることで知られている。あまりの急坂のきびしさに赴任するお役人が辞めたくなるのだという。しばらく走って杉の川を過ぎたあたりで左の旧道に入る。だらだらした登りを左の谷川を眺めながら登る。新しい木造校舎の白石小学校を過ぎると少しずつ登りがきつくなった。重谷という集落を越えたころには、なるほど辞職坂かと言う気がしてきた。下の谷川や茶畑を見下ろすカーブにバス停があったので休むことにする。桜の古木が1本立っている。峠はまだまだ先のようだ。少し疲れた。水を飲んで写真を撮る。このバス停は春桜が咲く頃には夢のような景色になるに違いないと思った。
またこぎ始めて少しするとようやく東津野村に入った。しかし、そのすぐ先で、近道をしようと道の山側の斜面に続く階段を自転車をかついで登ったため、布施が坂の旧道を目指した私は誤って、国道トンネル手前の「道の駅」に出てしまうという失敗をしてしまったのである。上に上がると、もう1度下に降りる気はしなかった。すぐ前を見ると、旧道の頂上にあったという大町桂月(けいげつ)の詩碑が移されている。移転の経緯を記した副碑に「羊腸(ようちょう)の道は入る 鳥声(ちょうせい)の間(かん) 車上の身は閑(かん)なれども 心閑ならず 訪ねんと欲す勤王豪傑の跡 白雲埋め尽くす幾重(いくちょう)の山」と桂月の詩を読み下してあり、「旧道はこの詩のように曲がりくねった羊腸の路です」とあった。桂月は人力車であがっておいて、調子のいいことを言うなあと思わせる詩だが、近道をねらって道を誤った私にぴったりの詩かもしれないと思い直す。そうだ、これから先は無理はよそう。越えてきた途中までの旧道を見下ろしてしばらく休んだ後は、トンネルを抜けて道ばたの大草鞋を見たり、炭焼きの老人と話したり、高野の舞台を見たりと寄り道をしながら檮原に向かった。当別峠の手前で風が強く吹き出し、こまかい雪が舞ってきた。すこしペースが落ちたせいかもう午後3時を過ぎている。私は携帯電話で友人にあと1時間と少しで太郎川公園に着くという連絡を入れ、当別峠も野越峠もトンネルを抜けた。やっとの思いで太郎川公園に到着したら友人の車が駐車場に1台だけ止まっていた。時刻は午後4時半過ぎだった。(つづく)
「龍馬脱藩の道」のルートについて
竜馬脱藩の道は旧説とか新説とかがあってなにやら難しい。
高知県側でも、今の定説といわれる、伊野から佐川、斗賀野峠を越え、さらに朽木峠を越えて葉山に出たという経路と別に、高岡から名古屋坂を越えて須崎に出て葉山に川沿いに上ったと言う説などがある。愛媛県にしたところで、最近は龍馬脱藩の道として定着した感のある韮が峠から河辺村経由五十崎町の宿間という道の他に、九十九曲峠を越え、城川町土居を経て、野村町坂石に出たという旧説も強力である。
私も新説の代表村上恒夫の『坂本龍馬 脱藩の道を探る』と旧説による前田秀徳『写真集 龍馬脱藩物語』の2著を一読してみたが、どちらでもよいという感想を持った。檮原から四国カルストの山を越えたのも最後は肱川から長浜というのも同じである。土佐人の前田氏の書は丹念に足で歩いているし、風土への思いがこもった写真も美しい。が、執拗な新説否定が断定にまで到っていない歯がゆさが残る。私は、龍馬がお2人が書かれているどちらを通ってもべつだん不思議ではないのだと思った。
農業が日本の産業の根幹をなしていた時代の山村の風景と、産業構造が変わり、過疎と列島改造が田舎を通り過ぎた昭和30年代以向とでは風景がおそろしく変わっている。トンネル1本で峠の道が廃れ、国道や林道1本で小さな山なら消えてゆく。今の風景がただ、昔そのままということは現実にあり得ないし、意味もない。古い遍路道を歩くと、昔の棚田が桧の林になって昼もうす暗い山道に変じているところが多いのに驚かされる。米を作る人も食べる人も少なくなって山は雑草が繁り、暗くさびしく荒れているのである。
というわけで、私は、自分の気分や時間の都合に応じて、気楽に、気長に、人に道を尋ねながら越えてみることにする。私の「龍馬脱藩の道」は括弧付きであることを最初にお断りしておきたい。今回は高知―佐川、斗賀野峠―川の内は割愛し、須崎から川の内に入った。朽木峠を越え、布施が坂の旧道へ、途中から国道の布施が坂の道の駅へ上り、トンネルを抜けて東津野村へ、最後に当別峠、野越峠はトンネルを抜けて檮原町太郎川公園に到るというコースだった。次回は3月に竜馬が脱藩した季節に檮原から韮が峠を越えて五十崎町の宿間に出るか、旧説の九十九曲峠を越えて城川町土居経由野村町坂石のどちらかを辿る予定。
※地図中の愛媛県内は新説・旧説両ルートを併記
〈参考〉
『街道をゆく27檮原街道』司馬遼太郎(朝日文庫)・『司馬遼太郎の風景9』NHK「街道をゆく」プロジェクト(NHK出版)・『高知県の歴史散歩』高知県高等学校教育研究会歴史部会(山川出版社)・『歴史の舞台を旅する2
坂本龍馬』(近畿日本ツーリスト)・『写真集龍馬脱藩物語』前田秀徳/『坂本龍馬脱藩の道を探る』村上恒夫(ともに新人物往来社)