第42回 伊予吉田農道散歩
愛媛県北宇和郡吉田町
愛媛県北宇和郡吉田町はみかんの町だ。入り組んだ海に迫る山の斜面はすべてといってよいほど、段段畑のみかん山である。秋の1日、吉田に住む友人と、古い陣屋町を抜けてみかん山を縦横に走る農道に上がった。静かな海や、遠くの島々、重なる山々の素晴らしい展望が眼下に広がった。
陣屋町
吉田の町は、宇和島伊達藩の分家として、約300年ほど前の江戸時代初めにつくられた伊達3万石の陣屋町である。
武家屋敷や、旧町名の多くは消えて行ったが、道路や路地は、ほとんど昔のままの姿をとどめている。
私と友人が歩きはじめたJRの駅のあたりは、御舟手という地名のとおり藩政時代の水軍の町である。古い水路の石垣や、出格子窓のある落ち着いた佇まいの家々が今も何軒か残っている。駅前の広い道から、右手の露地に入り黄色い土壁の民家が建ち並ぶ水路にそった道に出ると、正面に峰住神社がある。石橋を渡って鳥居をくぐり、急な石段を上がった。峰住神社の標高はわずか、3、40メートルほどに過ぎないであろうが、吉田湾や、御舟手の町の家々の甍の連なり、そして本町や魚棚の町並みが手に取るように見える。町並みの向うに吉田湾を見下ろすように立つ急な山が犬尾城である。
私は、何年か前に友人に連れられて陣屋町の端から端までを歩き、少しだけ残っている小さな武家屋敷を見て歩いたことがあった。そのときにもこの峰住神社に上がり、吉田の町を眺めた。石段の上に立って、そのときの記憶をたどりながら町並の変化を目で追ってみた。魚棚あたりの古い瓦屋根が1段と少なくなった気がする。
農道へ
今日は、「おい、吉田の農道にちょっと上がって海を眺めるとなあ、これは気持ちがいいぞ」と言ってしきりにすすめる友人の弁に誘われて、早起きをし、朝の列車に乗って出かけてきたのである。少し眠かったが、歩いて汗をかいたせいか、調子が出て来た。犬尾城の方向に、峰住神社から、裡町、本町、魚棚を通って、国道56号線に出た。長栄橋を渡って、吉田湾沿いに海を眺めながら歩く。農協や吉田小学校を過ぎて、橋を1つ渡った。防波堤にそって、小さな漁船や作業船やヨットが繋留してある。浅川という集落の食品加工場の建物の少し先に来たところで、友人は道路をわたり、私をみかん山に上がる農道にみちびいた。農道は軽トラックが通れるほどの幅で、コンクリート舗装されている。勾配はそれほどきつくはない。青いみかんの実を見ながら、朝のみかん山をゆっくりと登る。時刻のせいか人の姿は見えないが、遠くで時々、小さなエンジン音が聞える。友人が下草を刈る音であろうと言った。
黄金の丘
お墓のある竹薮の側を過ぎて少し登ると、さきほど歩いてきた吉田湾の岸壁に繋留された船や民家の屋根が足元に小さく見えてきた。養殖筏が浮かぶ静かな湾の沖には、宇和海の島々がかすんで見える。急斜面をジグザクに切った農道をさらに上っていく。吹き渡る風も涼しく、眺望がよいので快適な登りである。登り始めは少し荒くなっていた肥り気味の友人の息遣いもようやく落ち着いてきた。道の方向が逆になるたびに湾の外の宇和海の風景と国安川河口に広がる吉田の町並みや背後の法華津峠、高森山などの山々が交互に見えてくる。変化に富んだ眺望で飽きさせない。
この山の高さは、約250メートルくらいであろう。そんなに高くはないが、急傾斜で海面から一気に標高が稼げるせいかほとんど疲れを感じない。
私は、数日前にこの地方を襲った台風とはうって変わり、よく澄んだ青い空のすぐ下を歩いているせいか、気持ちがだんだんと晴れやかになってきた。さっきまで、息の荒かった友人も「どうだ、いいだろう」とますます得意気である。
頂上に近づくと、みかん畑を前景にしてパノラマのように展望がひろがるところがあった。どちらかというと、箱庭のような景色だ。しかし、その箱庭のような景色が、少しも狭苦しい感じではなく、矛盾した言いようだが、のびやかで開放感があるのである。遠くまで小さな山が波のように連なり、山の果てた上には、白い雲がとぎれとぎれに流れた青空が広がっている。
私は、唐突にアルプスの高峰からイタリアとの国境に下ったスイスのルガノ周辺を旅したときに見た景色や雰囲気を思い出した。スイスとはいえ、もう南国のイタリアの風光を思わせるところである。フィヨルドの角張った複雑な形をしたルガノ湖の水面が溢れる陽光を浴びてきらきらと光っている。その周囲をこんもりした、しかし、急な傾斜をした低山が取り囲んでいる。モルコーテという村の山の中腹には、古い寺院や貴族の別荘があり、湖岸には漁師の集落があった。自然につつまれた明るくのびやかな風景と人間臭い町が渾然と溶け合っていて、食べものが豊かでおいしいところだった。ヘルマン・ヘッセら多くの詩人や芸術家が暮らしたルガノ湖畔の小高い丘、モンタニョーラは「黄金の丘」と呼ばれる。私は、隣で景色を眺めている友人に「ここのみかん山もきっと、夕焼けになると黄金の丘になるよ」とほとんど本気で言ったのである。
石神様
私たちは戦国時代に豊後から攻めてきた大友軍と、吉田の法華津氏や土居氏が戦ったという犬尾城を眺めながら、ゆっくりと鶴間の方に、農道を下った。山を降り、ほんの小川のような鶴間川にそって田圃の中の道を5分ほども歩くと犬尾城の麓に着いた。犬尾城の西面には、農道兼用の登山道があり、車でも上がれる。私たちは、そのつづら折れのアスファルト舗装の道を歩いて登った。20分ほどで頂上に着いた。この山は下木が切られていないので町の展望は思いのほかに悪い。しかし、法華津峠や、麓の「国安の郷」がよく見えた。頂上には広い駐車場があり、片隅に「懐古の道」という大きな石碑がある。駐車場の周囲にタバコの吸い殻やペットボトル、空缶などが散乱していた。友人はそれを見て少し不機嫌になった様子で、すぐに、「石神様に行こう」と言って道を下り始めた。5、6分ほど下ったカーブの突き当たりでガードレールの切れ目から細い急な土の道に入った。両側は竹薮である。竹薮を過ぎると丹精してある畑に出た。その畑の先から細い切り通しの道になり、下ったところに石垣があって道が左右に分かれていた。そこを右に曲がってすぐのところに小さな祠があった。石神様である。友人によれば「いわれはわからないが、耳の病に御利益がある」という。私たちは石神様に賽した後、麓の「国安の郷」に向かって道を下った。
夕べの家々
―――――1933年夏の詩 ヘルマン・ヘッセ
夕べおそく斜めにさす金色の光のなかに
ひと群れの家がひっそりと燃えたち
もったいないばかり深い色をたたえて
団欒の夕べが祈りのように花咲いている
家々はたがいにしみじみと肩を寄せあい
姉妹のように睦まじく丘の斜面に生いたって
習いもせぬにだれでもが知っている歌のように
素朴でしかも年古りている
壁と 漆喰と 傾いた屋根
貧しさと誇り 荒廃と幸福
それらがやさしく 深く しずかに
昼の灼熱を照りかえしている
山口四郎訳『ヘッセ詩集』(角川文庫より)
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