第70回 城山散歩
築城400年の年を記念して、慶長年間に建てられたという乾櫓(いぬいやぐら)や野原櫓(のはらやぐら)が特別公開されていると聞き、久しぶりに松山城に出かけてみた。
松山城
城下町に生まれ育った者にとって、それがどこの町であっても、城山は故郷の思い出につながるいちばんのものであろう。
ふと顔を上げると、平たい町のどこにいても、たいていは緑の濃い城山と姿のよい天守閣が見える松山の町に長く暮らした私などは、広い日本の中で、いったい、この松山ほど城下町という名にふさわしい町はないのではないかという気がして仕方がない。いくら月並みと笑われようが、城の見える町の風景と、その町でともに暮らした父母や兄弟、友人たちの思い出は消えることがない。
「春や昔15万石の城下かな」と詠んだ松山の人、正岡子規は「我は親はらからとも今は故郷にあらねど、猶故郷こそ恋しけれ。……故郷近くなれば城の天守閣こそ先づ目をよろこばす種なれ。……」(明治28年)と書いた。
また、「夕桜城の石崖裾濃なる」、「春の月城の北には北斗星」と詠んだ中村草田男には「夜桜」(メルヘン集『風船の使者』所収)という伊丹万作との交流を描いた掌編がある。少し引いてみたい。
「とうとう日が暮れてしまった。……窓外には、すぐ手近に高い1本の木の幹がある。それから始まって、白い倉などを鏤(ちりばめ)めながら人家の屋根の波が、ただ1つの蒼い暮色に溶けこんで遙か彼方へ迄亘って行っている。最後に、こんもりと中空に城山の影が聳えている。今、頂上の城の窓に早い灯が、1点、ポッツリと点ったところである。ーーそこは「戸なし門」いう門のある辺りで、高みの空気の中に置かれたその灯は、殆ど瞬くことなしに、私の此処と対(むか)いあっている。急に、私は昨夜の面白さを思い出した。城山の北麓の東雲神社で、夜桜の賑わいのつづく間じゅう、能面と能衣裳との陳列をしている。それに私は偶然ぶつかって、初めて経験する感興が余りに強かったので、それをただ独りで味わってしまうことが勿体なくなり、少時見たままでひとまづ切り上げて、帰って来てしまったのである。友達の池田を誘って、今晩もう1度出かけよう、そしてあれをもう1度、ゆっくりと落ち着いて眺めて来よう……そう私は思いついた……」。
戦前の昭和7年(1932年)の作品であるが、青春前期を松山の町で送る者たちに城が果たしている舞台としての役割は、今も草田男の頃とそれほど変わってはいない。
東雲口から乾櫓へ
1番町から城山の下の通りに入り、ロープウェーの駅を通り過ぎ東雲神社の石段を上がった。この道は城山への登山道の中では単調で、いちばん緩やかな道とされるが、この石段は上まで201段ある。「社壇百級秋の空へと登る人」子規。私の前を、茶色の髪を後ろに束ねた外国の女性が1人、颯爽とした速さで軽やかに登って行くのが見える。私は、少し、ゆっくりと行くことにする。松山市指定の天然記念物にヒガンザクラとソメイヨシノの間に咲く「東雲桜」というのがある。その2代目が石段の中ほど、参道の左手に植えてある。「東雲のほがらほがらと初桜」という内藤鳴雪の句碑も建てられているが、すでに花は終わっていた。神社を過ぎ、リフトの脇をしばらく登る。長者が平のロープウェー駅を過ぎると、右手に松山城でいちばん高い、高さ17メートルの扇勾配の本丸石垣が見えてくる。待合番所跡を石垣に添って右に曲がると中の門跡と太鼓櫓が見え、その向こうに天守閣が小さく見える。太鼓櫓の下で道は迷路のように折り返し、本当に戸のない「戸なし門」に到る。筒井門と隠し門を過ぎ太鼓門を抜けると本丸広場に出る。
3月の20日が過ぎたばかりなのに桜はもう5分咲き。かなりの人出である。正面奧に本丸の高さから更に10メートル高い石垣で築かれた「本壇」が見える。「本壇」は天守閣のある、言わば城の中の城である。私は築城のために山頂の峰を切りならしたときに、元の地形にそって屈折を繰り返しながら築かれたという「屏風折れ」の石垣の端をなぞりながら歩いた。山麓の森や町並みの先にある海の方を眺めると富士山のようなかたちの興居島がくっきりと見える。天守閣には行かず、紫竹門を通って「搦め手」に入った。ちょうど特別公開されている慶長年間の建築、野原櫓と乾櫓を見るためである。最初に野原櫓へ。野原櫓は本丸西北を守る2層の櫓であるが、下層の大入母屋屋根の中央にひとまわり小さい2階を乗せた形で建っている。戦国時代には、武将達が居館の屋根の上に見張用の望楼を乗せていたが、これはその名残であるそうだ。犬山城のような望楼式天守の誕生を傍証するものとして注目されているという。2階の望楼は危険ということで立入り禁止になっていた。次に乾櫓へ。名の通り、本丸西北隅、すなわち乾の方角の隅の石垣の上に建つ。2層の櫓の矩折した、1層の部分から中に入った。構造の木割の大きさや天井のない化粧屋根裏などに豪放で素朴の風があふれ目を奪われる。戦国の余塵が残る慶長年間の武張った雰囲気が伝わってくる気分がした。来てよかった。
古さが新しい
今回の散歩の導きに、松山市発行の「松山城」増補五版を一読して、とても驚いたことがある。松山の天守閣が日本の江戸時代に建てられた城郭で1番新しいものだということである。小天守や多くの櫓が奇禍や戦災にあって焼失し、戦後少しずつ再建されていたことは知っていた。しかし、迂闊にも、子供の頃から見慣れた現在の天守閣だけは、あの賤ケ岳の7本鑓の1人加藤嘉明が慶長年間の築城の時に建てたそのままの姿であると私は思いこんでいた。ところが、加藤嘉明が慶長7年(1602)に築城を開始し20余年後の寛永4年(1627)に完成した松山城の天守閣は5層であったそうだ。それを伊勢桑名から入部した松平定行が寛永16年(1639)から寛永19年(1642)にかけて3層に改築したのが2代目の天守閣。そして、天明4年(1784)に天守閣・大書院に落雷があって、松山城本丸は焼失してしまう。その後、曲折を経て、現在の天守が復興されたのは、焼失の後71年経った嘉永5年(1852)のことであった。ペリーの艦隊が神奈川沖に来泊したのが安政元年(1854)。前出「松山城」によれば、伊予大洲藩出身の武田斐三郎がほぼ同じ頃に、砲の用法に主眼を置いた稜堡形式の「函館五稜郭」の設計をしていたという。ところが、再建のなった松山城は、今我々が見る通り、遠い昔、慶長年間の古風で武張った表現を丹念にたどったものであった。世情騒然とした幕末維新の動乱期に、洋式築城術など一顧だにしない「時代遅れ」の城が復活したのである。松山城は新しいが、やはり古い城なのであった。私は、その時流を等閑した姿勢をいかにも松山人らしいと思う。
戦後の再建についても、松山人はコンクリート天守閣の再建が流行する時流に無頓着であった。木造で史実を重んじた復興がなされ、新しいが古い松山城が守られたのである。
私は、久しぶりに松山城に上り、古いものの美しさ、強さを大切にする松山人の自由で豪毅な精神に打たれた。そして、駘蕩とした松山人が内に秘めた城と城山の風景をかけがえないものとする情熱が尽きることのないことを思った。
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