旧広見町の小松に医王山善光寺という曹洞宗の寺院がある。急な参道を登って山門をくぐると、ひっそりとした境内の美しい茅葺きの薬師堂があった。
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三間盆地から小倉へ
- 善光寺参道 -
棚田の中を登る参道。
いつになく、長く続いた残暑もようやく和らいできた。天気の良い日に、宇和島市になった三間町務田の「道の駅」から自転車で鬼北町の善光寺に出かけてみた。空は高く、すっきりと晴れわたり、もう風はまぎれもない秋の風である。刈り入れの終わった田圃の中の農道を走り、三間盆地を取り囲む青い山々を眺めながらペダルを踏む。土讃線の踏み切りを越え、県道に出て、右に曲がると、戦国末期に活躍した三間地方の有力な土豪であった土居清良の本城があった大森城山(標高316メートル)が左手に迫って来る。大森城山は三間盆地のほぼ中央にあり、どこから見ても急峻な山の頂上部が平坦になっているのですぐ城址だとわかる。清良は、来襲した土佐一條家、豊後の大友家、さらに土佐の長宗我部氏らと機略に富んだ戦いを繰り広げた名将として、又、民生に心を留めた人として、この地方の人々に愛された。清良神社が創建され、清良の一代記である『清良記』の写本が伝えられている。『清良記』は軍記であるが、その第七巻に「親民観月集」という農業についての内容が含まれていて、そちらの方が「日本最古の農書」と呼ばれよく知られている。もちろん、農書といっても、領地の範囲を対象とした知見が中心であって、刊本として全国に流布した宮崎安貞の「農業全書」のようなものではない。しかし、内容的には、農業技術についての、経験に基づいた具体的で有用な記述が数多くあるという。だから近世農書の源流と位置づけられているそうだ。
道は県道282号線である。二名(ふたな)から大森城を見上げながら、大内(おおうち)を過ぎると、恵比寿坂という小さな坂にさしかかる。数分ほど登ると、近永方面との分岐に出る。そのまま、まっすぐ、道を登ると加町坂トンネルが見えてくる。短いトンネルを潜ると道は下りである。スビードに気を突けながら、あっという間に国道441号線との交叉点に着く。その清水(せいずい)の集落からさらに県道を下る。もみ殻でも焼いているのであろうか、稲刈りの終わった田から白い煙りが立ち上っている。山沿いにぽつんと茅葺きにトタンをかぶせた民家が見える。鎌倉時代の作と伝えられる十一面観音がご本尊の観音寺がある西野々を過ぎ、秋の深まった里山の美しい風景を楽しみながら三キロほど下っていくと小倉に着いた。
- 彼岸花 -
三間町清水のあたり
- 野焼き -
三間町清水の辺りで
愛三製糸
- 小倉へ出る手前の県道脇の民家 -
交番の先で、土佐の檮原に行く国道を横切って川を渡り、上流に向かって右岸の県道を走る。国道も決して車は多くないが、里山と稲田と広見川に沿って走る古い県道はまるで自転車専用道路のように静かである。時には、車も無論走っているが、たまに行き違う農業用の軽トラックや乗用車は、気のせいか、おだやかで、先を急がぬ走り方のように思える。山裾の一車線の道を、行く手に青い屏風のように見える山々や、巨岩の中を白い泡を立てて流れる広見川を眺めながらのんびりと走る。時々、旧に河畔の繁みの中から野鳥が飛び立ったりするほかは、対岸の国道を行き交う車のエンジン音も遠い。大本神社を過ぎ、久保に入った。久保には少し思い出がある。
- コスモスの咲く酒井さんの家へ続く畦道 -
久保から少し先の旧広見町延川に、何年か前まで、昭和12年から平成5年まで操業を続けた製糸工場の建物があった。国道320号線から広見川を隔てて対岸に見えるチョコレート色の工場は、洋風、下見板張りの外壁で、ガラス窓の枠が白いペンキで塗られていた。屋根の向こうには赤茶色の煉瓦で積んだ煙突が見え、年を経て落ち着いた色合いが、澄んだ空と周囲の山々にすっかりとけ込んでいたのを今もはっきりと覚えている。建物は、取り壊されて今はなく、煙突の一部を使ったモニュメントがあるだけだが、昭和12年3月15日に完成したこの工場は、愛三製糸聯合会の新工場として、久保の故酒井要さんが中心になって建設したものであった。私は広見川に近い久保のご自宅で、明治37年7月2日生まれ、当時、数えで94歳の酒井さんから、愛三製糸についてお話を伺ったことがあった。(
『あけぼの』1997年3月号 伊予細見第11回)
- 酒井さんの家 -
久保の酒井さんの家
歴史は繰り返すというが、矍鑠として酒井さんが語られた建設当時のお話は、ちょうどバブル経済の後遺症に喘ぐ、当時の日本経済に通じるところがあった。
昭和5年、世界恐慌の影が日本にかかり始めた頃、酒井さんの故郷三島村でも三島産業組合(現在の農協のようなもの。明治時代に中小生産者の保護育成のために制定された産業組合法による社団法人。農村で発達)が莫大な貸付金を焦げ付かせ、重大な危機に直面していた。不正融資事件なども明るみに出て役員が全員辞任する異常事態となり、組合員は預貯金の急激な引き出しを始めた。このときに、誰1人として、引き受け手の無かった組合長に推されたのが弱冠26歳になったばかりの酒井さんだった。県立松山農学校を卒業後、故郷の三島村で産業技手や愛媛県農林技手として活躍されていたのを周囲から見込まれてしまったのである。酒井さんは、松山農学校時代の恩師菅菊太郎が産業組合法の起案者であったこともあり、産業組合の運営には強い信念と理想をもっていた。「役職員共に村の公僕たれ、忠僕たれ」を組合のモットーにして、酒井さんは就任直後から、生産地で出来る加工は生産地で行い、生み出された利益は生産者が得るという考えを実践した。
- 広見川 -
広見川沿いの県道は自転車専用道路のようだ。
- 広見町延川 -
愛三製糸や三島小学校の背後に広がる風景。かつては桑畑が多かったという。
その決め手として組合製糸を創業した酒井さんは、昭和11年に国の補助金を得て新工場を建設した。基本設計はもちろん酒井さん自らが行った。繰糸場、煮繭場、揚返場、寄宿舎など建物の形に馬糞紙を切ってレイアウトを幾通りも考え、松山の田村建築設計と共同で最終案を作成した。寄宿舎は職場から切り離して川縁の見晴らしのよい場所に、食堂や、風呂、炊事場なども120名の女子職員(酒井さんは女子職員と呼び女工という呼び方を厳しく禁じていた)が快適に過ごせるように配慮した。女子職員は、高等小学校卒の年令は14、5歳の少女たちが中心だった。寄宿舎と渡り廊下で結んだ管理事務所の2階には広い和室があり、床の間があった。毎朝そこで朝礼を行い、余暇の時間には、先生が来て、茶道を教えたり、洋裁を教えたりもした。もちろん勉強も教えた。「僕がスクールマスターになって、良妻賢母をつくるんじゃいうてがんばったんです。ここは働きながら学ぶ実践女学校じゃ言うとった。宇和島の女学校なんぞ行かすよりなんぼかいいという評判で三島村と愛治村以外からも就職希望者がありました」と酒井さんは語られた。
新築なった工場はますます業績をのばした。昭和15年には酒井さんが組合長に就任したときにあった県信用聯合会からの75,000円という巨額の借金を完済することができたという。
酒井さんのお宅の前から三島橋を渡る。国道の方が高さがあるので、国道の下を貫いた小さなトンネルを潜って引き返すようにして、国道320号線に出る。
善光寺薬師堂
- 善光寺薬師堂 -
室町時代末期の本格的禅宗様式の建築の特徴を良く伝え、国の重文に指定されている。
- 善光寺薬師堂薬師如来 -
厨子の中に薬師如来座像。素朴でおだやかな表情に見える。
少し行くと小松の交叉点だ。右手に製糸工場の建物はすでにない。交叉点を過ぎ、左側の電器店の手前に善光寺の参道がある。参道は車一台が通れる広さだが、入口に国指定重要文化財の薬師堂と厨子の案内があるのですぐわかる。自転車で登るのはいささか急な坂だが、距離が短いので一気に上がった。手前の駐車場に自転車を置き、山門を潜る。漱石ならぬ、「漱水」というそのものずばりの石の手水鉢があった。そこから眼を上げると左手に予想を超える美しいお堂が建っていた。茅葺きで決して大きなお堂ではないが、一目見て眼を奪われた。境内には人っ子一人いない。お堂の方に一歩歩き始めた途端、背後にただならぬうなり声が聞こえた。ふり返ると白い巨大な犬が激しくしっぽを振りながら吠えていた。一瞬ひるんだが優しい目をしているので近づいていくと大きな体を押し付けてきた。しばらく首筋を撫でて、お堂の方に引き返した。
お堂の前に立って、また驚いた。お堂の中には美しく繊細な厨子があり、薬師如来が座っていらっしゃった。
善光寺は曹洞宗で永平寺と総持寺両大本山の末寺で、西予市城川町の龍沢寺の末寺という。開山は、龍沢寺二世の星文守昌(1458年示寂)とされているが、厨子の中の薬師如来の胎内に正平13(1358)年、善光禅寺という墨書があり、実際は星文禅師開山とする説より百年ほど遡る可能性もある。薬師堂は文明15(1483)年に善光寺の持仏堂として建てられたという。薬師堂も厨子もともに禅宗様(唐様)という中国南宋時代の建築様式で建てられている。国の重文に指定された後、破損を直し、瓦葺きを元の茅葺寄棟造りに復元した。厨子の保存状態が良かったため、復元の精度が高く、中世寺院の御堂の歴史と風格の再現に成功している。以上は犬(犬種はピレネー犬)の声を聞きつけて出てこられたご住職にいただいた、鬼北町教育委員会・善光寺薬師堂保存会編のパンフレット「国指定重要文化財 善光寺薬師堂」による。
それにしても、このお堂は美しいと思う。お堂の周囲の風光が澄んでいること、境内に人の姿がなく、静かであったこともあろうが、初めて目にした時の感動はただならぬものであった。
少し馴染んだ犬と別れを惜しみ、参道に出た。ちょうど広見川を隔てた正面に三島小学校の体育館が見えた。格別変った意匠の建物ではないが、このつつましい建物には美しいエビソードがある。
- ピレネー犬 -
善光寺の山門に繋がれている。でかいが優しい犬だった。
中川軌太郎の故郷
- 三島小学校体育館 -
中川軌太郎はじめ、この地を故郷とする人々の助力で建てられた。
きほく町役場、旧広見町役場の庁舎(昭和三十三年十二月完成)は、チェコ系米人の建築家アントニン・レーモンドが創設した設計事務所の作品である。広見町(旧三島村小松)出身の建築家中川軌太郎(なかがわのりたろう)がレーモンド設計事務所の社長を務めていたことが縁となり、庁舎の設計監理は社長の中川自らが担当することになった。鉄筋コンクリート打放しの三階建、延べ床面積は一七五一、七五平方メートル。中央右寄りに、三角形の屋根が載り、その破風には色ガラスの入った小さな丸窓がステンドグラスのように配されている。中川は町が出した「民主主義社会の役場」、「公衆の使いやすい役場」という二つの抽象的な要求に応え、町議会の議場を建物の最上階中央に置き、町民の利用度が高い一階中央ホール周辺にはカウンターを設けて役場職員と住民との親密な接触を図ったという。
- 漱水 -
善光寺の手水鉢。
中川は、この庁舎を設計した後も、三島小学校体育館の設計監理を無償で引きうけるなどして、故郷のために尽くしたのであった。私は、三島小学校を訪ね体育館を見せていただいたことがある。二階右手の物置の中に体育館建設に協力した卒業生の名前を記した板が貼ってあった。中川は設計を、大阪に出て楽器製造の会社を起した人はピアノをと言う具合に、故郷を離れた人々がそれぞれの出来る寄付を寄せていた。物置の中に決して偉そうにではなくその板は貼ってあった。見ているとまるで「故郷」の歌が聞こえてくるような気持ちがしたことを今も覚えている。
帰り道には、近永の川沿いの散歩道を通って、久しぶりに旧広見町役場の建物(
『あけぼの』2000年11月号 建築・点描)を見て帰ることにした。