日本女性史の開拓者高群逸枝(たかむら いつえ)の『娘巡礼記』に従って、急坂で名高い柏坂を越えた。
新しい緑の中を、木の小枝に結ばれた「南無大師遍照金剛」の布をたよりに歩いた約10キロの道のりには、大師の伝説が伝わるお堂や、宇和海の美しい展望が待っていた。
四国遍路道
“往時の遍路は、「お大師さま」と同行二人(どうぎょうににん)で362里を歩きぬく、苦しい信仰の旅であり、人に忌まれる「業病」にかかったり、失敗によって家郷にいられなくなった悲運の人々の、おのれ自身を捨てにゆく場所でもあった。行き倒れて命の果てるまで、歩き続けるほかなかった人々にとって、遍路は文字どおりの死出の旅である。そして遍路の着る白衣は、もともと死装束にほかならない”
(堀場清子の高群逸枝『娘巡礼記』の解説より)
四国遍路のあり方は時代の変化により、さまざまに変容してきた。戦後の車社会の到来と道路の整備により、短期間の車による聖地巡拝が普通のものとなったかと思うと、日本に世紀末の閉塞感が漂う近年は、昔ながらの宗教性を求める人たちや、自然の豊かさやヒューマン・スケールの社会を再発見したいと願う人々に「歩き遍路」への回帰現象が見られるという。業病に罹った人々など、悲運の人々を受け入れるという「四国遍路」が果していた社会的な役割も、社会保障の制度がまがりなりにも整った現代ではすでに、過去のものとなり、四国の人々の心の中に無形のものとして伝わるばかりとなった。
しかし、人々が1,200年の歴史を持つという四国遍路の道を変わらず踏み続けていることもまた事実である。信仰心のうすい私さえ、遍路道を歩くと、積み重ねられた歴史や、歩いた人々の気息を感じる。時には、「人はなんのために生きるのか」などという問いがもたげてくることもある。
『娘巡礼記』
愛媛県の北宇和郡津島町上畑地から南宇和郡内海村柏へ越える柏坂という約10キロの峠道がある。旧い遍路道で、第40番札所の観自在寺と第41番札所の龍光寺を結ぶ長い道の途中に位置する急坂である。
この柏坂を、高群逸枝(1894~1964)が米騒動の年、大正7年(1918)の7月に越えた。満24歳の時、約半年間の、四国遍路の旅の途上でのことであった。
高群は当時熊本で教職をなげうった恋愛に行き詰まり、人生と生活のすべてに追いつめられていた。兄3人が続けて早世したため、両親が観音様に願をかけ「観音の子」として育てられた彼女は、今の時代には想像もつかぬような話しであるが、九州日日新聞に「巡礼記」を書いて送る約束のかわりに豊予海峡を渡る10円の旅費を得て、ほぼ無銭旅行に近い、捨て身の「娘遍路」に出かけたのである。
後年、女性史家となった高群逸枝は、ヨメイリが古くから一貫して変わらない日本の結婚制度であるとされていた学会の定説を、厳密な考証と、徹底的な実証的方法によってくつがえした。ヨメイリは近世になって始った俗で、それ以前はムコトリであったこと、その形態はどのようなもので、どのような事情で変化したのかということを膨大な資料を読み込んで明らかにしたのであった。
高群は独学で、母系制から父系制への変化を明らかにし、日本の女性史を確立した人として記憶されるべきであるが、四国遍路に出た当時の追いつめられた迷える子羊というしかない存在であった当時の彼女もまた忘れることの出来ない人である。
八幡浜から柏坂へ
高群の柏坂にたどり着く前の道のりを簡単に見てみよう。7月14日午前3時大分港抜錨。佐賀関港経由、7月15日、八幡浜港着。大黒山吉蔵寺に1泊。翌日、道連れになった老人と道に迷い険しい「大窪越え」を経て宇和町の43番明石寺へ。いわゆる「逆打ち」で出発。卯之町の汚い木賃宿を嫌い、歯長峠で野宿。翌朝、痛む足をひきずり、崖の野苺を食べながら、三間町の42番仏木寺、41番龍光寺と巡拝。宇和島に下り、宿を断られるが親切な若夫婦の家に泊めてもらう。雨にあい、すすめられるまま2泊。出発前夜、和霊神社に参詣。朝10時宇和島を立ち、松尾坂を越える。「道は峡(はざま)に落ち峰に上り寂しく遠く続いている。ああどこまで長い旅であろう」夕刻、「畑地村という部落の奥からいよいよ急坂になっている。そこに清い小川があった」。そこで、また野宿し、翌朝柏坂へと登り始めた。
高群のきつく長いアプローチに比して、私は、宇和島自動車の丸之内バスセンターから、宿毛行きのバスに乗り、約40分で津島町の大門バス停に着いた。料金は760円。田の中を通る細い道を抜け、「みしま橋」という小さな橋を渡ると郵便ポストのある雑貨屋があり、道標があった。小川にそって約1キロほど歩き、また小さな橋を渡ると、小さなお大師さまの道標があり、そこから山道になっている。高群とおじいさんが野宿をしたのは、このあたりではないだろうか。道に沿った棚田では田植えの最中であった。
柏坂越え
道端に筍や蕨が生え出している山道を30分ほど登ると、あっけなく道が開けて、轍がついた道になった。道路にそって温室みかんのビニールハウスがならんでいる。廃屋が2軒あり、その少し先の民家の手前にお大師さまの木像が安置された祠があった。茶堂の集落である。民家の先から、ふたたび道が山道になる。茶堂の休憩所を過ぎて、林の中の細い道を登っていく。両側が切れ落ちた「馬の背」というところや、猪が毛並みを揃えるというヌタ場を過ぎ、思案坂というやや急な坂を越えて、少し行くと、突然視界が開ける。眼下には、由良半島や宇和海の島々が一望に見えた。高群は、予期せぬ海との出合いを次のように書いている。
“「海!」…… 私は突然驚喜した。見よ右手の足元近く白銀の海が展けている。木立深い山を潜って汗臭くなった心が、此処に来て一飛に飛んだら飛び込めそうな海の陥(おとし)し穽(あな)を見る。驚喜は不安となり、不安は賛嘆となり、賛嘆は忘我となる”ふたたび、道が林の中に入る。少し登ると、かつて接待松といわれた大松の切株がある場所に出る。切株の根に不動明王とお大師さまの小さな石仏があった。水準点を過ぎた先に、かつて牛を放牧していた当時の木戸の礎石が残っている。案内板によれば「ゴメン木戸」と呼ばれていたそうで、昭和20年頃まで、この付近は大草原であったそうだ。少し先を下った、大師の伝説が伝わる清水大師に寄る。昔はここで奉納相撲が行われたという。
「横通り八丁」という風のよく通る、平坦で歩きやすい道を過ぎると、ふたたび展望がひらけて、道はようやく柏坂の急な下りに差掛る。高群は書いている。
“「急坂二十六町、風が非常に荒く吹き出した。……面白い!風に御して坂道を飛び下りる。髪を旗のように吹きなびかせつつ、快活に飛び行く私…”
私は、急坂を少し下った柳水大師の休憩所でお昼にした。見事な大師の石像が安置されたお堂がある。お堂に掲げられた額を読むと、このお堂は、内海村柏区民の浄財で建てられたものであった。昭和60年に柏区民全員が「柏を育てる会」を結成し、当時荒廃していた遍路道の刈り払いを行ったことが機縁になったものという。しばらく休憩した後、1歩、1歩笑う膝を押えながら急坂を下った。
高群逸枝は麓の村でラムネを飲み、なおも歩みを観自在寺に進めた。
〈参考〉
高群逸枝『娘巡礼記』(堀場清子校訂朝日新聞社刊)村上信彦『高群逸枝と「女性史学」』(朝日選書6『思想史を歩く』下巻所収)『旧へんろ みち柏坂越えのみち9.8km案内』(柏郵便局前柏坂案内板にて配布)