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第77回 笠置峠紀行
 
愛媛県八幡浜市出店~東宇和郡宇和町岩木 
 10月下旬、八幡浜市から宇和町へ初めて笠置峠を徒歩で越えた。古い道しるべや石畳の残るこの峠道は、四国遍路の人々、高野長英や二宮敬作、シーボルトの娘イネや佐賀の乱で敗れた江藤新平なども越えたと言われる歴史の道でもある。

 笠置街道
 明治以前の藩政時代、笠置峠は八幡浜と卯之町を最短距離で結ぶ本街道で、人馬の往来が盛んな道であった。開通した峠の下の笠置トンネルを車で通ったり、最近、峠の頂上近くで古墳の発掘調査が行われていることなどを新聞で見かけたりするたびに、1度歩いて越えてみたいものだと思っていた。吉村昭の歴史小説『ふぉん・しいほるとの娘』にこの峠道の様子が描かれていたことも笠置峠を1度越えてみたいという思いを強めていた。
 9月の終わりに八幡浜市若山で行われたマウンテンバイク(MTB)の全国大会を取材したときに、会場の市民スポーツパークのMTBコースを造った八幡浜MTB倶楽部の吉野さんが、たまたま笠置峠を越えたという話をされた。そのときの吉野さんの「1度、案内しますよ」という親切な一言に私はすぐ飛びついたのであった。
 『ふぉん・しいほるとの娘』に拠れば、天保11年(1840年)3月、シーボルトの娘イネは、卯之町で開業していた父の弟子二宮敬作のもとで医学を学ぶために、はるばる長崎から九州を横断し、臼杵から船で八幡浜に渡る。イネは八幡浜の高橋家に2泊した後(長崎に遊学し松本良順に医学を学んだ清家堅庭が宮司を務めていた八幡浜市八代の八尺神社にイネが泊まったという説もある。)、この笠置峠の道を通って卯之町に向かったという。
 八幡浜から笠置峠への道を描写した部分を少し引用する。「家並の間をぬけると、道はすぐに山中に入った。道は細い川に沿って南へむかっている。道幅はせまく両側から生いしげる樹葉が道の上におおいかぶさり、薄暗かった。…しばしば道の前方から、荷を背負った者や旅の商人らしい者が通り過ぎる。…半里ほど山路をたどり、川舞という村落で路傍に坐って休息をとった。道がせまいので大八車などは通れぬらしく、小車や馬が荷をのせて通るだけであった。気温が低く、汗ばんだ肌に空気が快かった。段々畠に水桶をはこぶ農夫の姿がみえた。…夫婦者らしい遍路姿の男女とすれちがった。…釜の倉という地を過ぎると笠置峠への急坂にかかった。空気はさらに冷え、樹木の密度もました」
(吉村昭『ふぉん・しいほるとの娘(上)』新潮文庫より)
 出店(でみせ)から
 10月下旬の快く晴れた朝、吉野さんと私は宇和側の麓、岩木の安養寺の近くに車をデポした後、新しいトンネルを抜けて八幡浜側の釜の倉に引き返した。笠置峠の登り口である釜の倉の出店という集落には、戦前は呉服屋や雑貨屋など6、7軒の商店があって賑わっていたという。今は、数軒の古風な佇まいの民家が寄り添うように建つだけの、静かな山間の集落である。峠の入り口に、御影石の柱の道標や、台座に道しるべのあるお大師様の石仏がある。正面に見える茅葺きにトタンをかぶせた民家を見上げながらつま先上がりの道を上る。民家の脇を抜け、色づいた蜜柑畑の脇を通る道に出ると道はゆるやかに勾配を増しながらすぐに石畳の道になる。石畳は、法華津峠の旧道にも残っているが、距離はこちらの方が長いようだ。すぐに道は葛折になる。歩くだけであれば、それほどきつい登りではないが、重荷を肩に担いだり、馬で荷を運んだ人たちには、相当にしんどい峠であったに違いない。1度林から出ると右手の展望が開け、小さなお堂や墓地を通り過ぎる。林道を横切り、また、林の中に入ってさらに登る。昔の松並木の名残であろう。大きな枯れた松が根こそぎ倒れて横たわっていた。少し上がると今度は、立ち枯れの松の巨木がある。根っこのあたりに、小さな石の祠があった。降り積もった落葉を手で払うと、中に小さな石仏が2体坐っていらっしゃった。
 峠の頂上で
 登りが緩やかになったと思ったら峠の頂上に出た。立派な道しるべのお地蔵様がある。これは、釜の倉の和気吉蔵という人が寄進したもので台座に名前がはっきりと読める。ご子孫が釜の倉に健在であるという。「寛政六甲寅三月吉辰」1794年3月に立てられたものだというから、イネがここを通ったのは、その約50年後のことである。
 二宮敬作がイネを出迎えたことになっている茶店の跡はよくわからないが、峠の頂上はかなり平坦な場所なのでどこかにあったのは間違いのないことであろう。本「あけぼの」紙を印刷していただいている株式会社豊豫社社長菊池住幸氏は在野篤学の郷土史家である。菊池氏がかつて、地元新聞に連載された「やわたはま峠物語」に、笠置峠の頂上に茶店が2軒あったこと、そして、その内1軒は鉄道が開通した昭和20年以降も店を続けていたことなどが書かれている。
 「最後まで峠に茶屋を営んでいた人は、岩木の立花嶋吉、イシの老夫婦であった。節分に豆とともに欠かせない、鬼の棒と呼んだタラの木は、春になると笠置山に群生する。嶋吉氏がその芽を摘み、焼いてみそを添えて出す味は格別で、峠の名物の1つであった…」(「やわたはま峠物語」菊池住幸著より)
 峠の頂上から右手にのびる尾根の縁を登ると、秋の空が広がり、足元の草むらに野菊が咲いていた。昆虫の好きな吉野さんはデジカメで蝶の写真を撮っている。私たちは、突き当たりの高見にある、前方後円墳「笠置古墳」に少しだけ、立ち寄った。防護のために墳丘の表面がシートで覆われているが、意外な規模の大きさに驚いた。
 峠の頂上にもどり、宇和側の林道と重なったり、離れたりする笠置街道を下る。途中、続くと思った細い道を、谷にまっすぐ降りて、竹の柄杓のある水場に行き当たったのちに道を失った。もとの林道にもどってしばらく下ると、「モロイ岩」という道標が右手の林の中を指していた。吉野さんと一緒に林の中の道を下ると、大きな岩に木のハシゴがかけてあるのが見えた。岩の上に登ってみると、素晴らしい展望である。正面には宇和の山々や、遠く吉田町の高森山と法華津峠がくっきりと見えた。足下には岩木の集落と美しい宇和の田んぼが広がっている。ちょうどお昼が近づいたので、ここで弁当を開いた。田んぼの中を走る列車や笠置トンネルを抜けてきた車がミニチュアのように見えた。
 峠の町、宇和
 笠置街道に戻って少し下ると、林の中にひっそりとした遍路墓があった。小さな拝み石が置かれただけの無縁仏が多い。九州から四国遍路に来た人の墓碑がほとんどであるというが、中に加州金沢霊雲寺僧とある小さな墓碑もあった。遥々とした行路の果てに、お遍さんたちが病に倒れ、この林の中に眠っているのであることを思うと哀切な思いにつつまれる。
 空がすこしずつ広がり、馬頭観音が祀られている水場を過ぎ、墓地のコンクリートの階段を下れば、安養寺の静かな境内である。途中、写真を撮ったり、道標を見たり、古墳を見たり、モロイ岩で弁当を使ったりと寄り道ばかりしたが、それでも九時半に出店を出発して3時間半ほどしか経っていない。
 笠置峠を始め、法華津峠、鳥坂峠など宇和盆地に至る古い峠道は、その展望や佇まいに、それぞれ独特の捨てがたい魅力がある。生活の動脈としての役割を終え、すでに忘れられかけた存在になってしまっているのは同じだが、歩く楽しみということにかけては(MTBでもツーリングができる)これほどすばらしい峠道はそんなにない。宇和はつくづく峠の景にめぐまれた町であると思う。

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1996-2012


八幡浜側の笠置街道には石畳がよく残っている。
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釜の倉 出店の集落。かつては6~7軒の呉服や雑貨を商う店があった。

出店の道しるべ 江戸時代に建てられた四国遍路のためのもの。

笠置峠への登り口。

頂上の地蔵像。釜の倉の和気吉蔵が寄進。台座は道標になっている。宇和側には「あげいし2里10丁」とあり、四国霊場43番札所明石寺への距離を示してある。八幡浜側には、「やわたはま2里、いずし…里」とある。



最近発掘調査が続けられている前方後円墳笠置古墳へ続く道。

笠置古墳

笠置街道の遍路墓 加州金澤霊雲寺僧

笠置街道 宇和側の石畳。

安養寺の静かな境内。