鉄道唱歌の作者大和田建樹は伊予宇和島の人である。
9月末に、駅前の詩碑から、生家跡、建樹の父が神官をつとめた宇和津彦神社、
母の墓のある龍華山等覚寺などをたずねた。
駅前の詩碑
宇和島には、どことなく伊予の果て、終着駅というイメージがつきまとう。文学散歩の達人、野田宇太郎も、昭和30年代のはじめに宇和島を訪れた時、少年の頃につくったという幼い詩を思い出して、感傷にふけっている。「宇和島といふところにいきたし 知る人はなけれども 地図の上の青き海 その海こえて 伊豫の南のさいはての 宇和島にわれはゆきたし」。今も、宇和島には、旅人をはるばるとやってきたのだという感傷に誘うなにかがある。
駅前広場の大和田建樹の詩碑をきちんと見るのは今度が、初めてだった。駐車場の南側にある宇和島軽便鉄道の一号機関車のレプリカを過ぎ、碑に向かって歩いて行くと、ほとんど暗渠になった川の一部が露出している場所があった。水は思いのほか、きれいである。駅前広場は、長方形に近い大きなロータリーの中にあり、周囲を車道が囲んでいるので、なんとなく慌ただしい雰囲気を感じる。
詩碑は広場の南端にある。南側正面の「大和田建樹詩碑」の字は、新居浜の人で「新幹線の父」と言われた第4代国鉄総裁十河信二の揮毫。西面の有名な鉄道唱歌一番「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入りのこる 月を旅路の友として……」と東面の散歩唱歌「わがふるさとの城山に 父と登りてながめたる 入江の波の夕けしき」は松山人安倍能成の筆になる。安倍と十河は一高の同期だ。モダンですっきりした碑の設計は母親が宇和島藩士の家に生まれ、父親が宇和島中学の出身である建築家の清家清である。詩碑は、今から約40年前の昭和40年10月に建てられた。
城山
碑面に刻まれた「散歩唱歌」の歌詞に誘われたわけでもないが、ヤシの並木がある駅前の道からアーケード街に入り、途中で右に折れて城山の上り口へ。移築された宇和島藩の藩老、桑折家の長屋門をくぐり、鬱蒼とした木々の中をゆっくりと登る。登山道の周囲は南国の闊葉樹を主とした自然林である。戦前に、伊達家が植物分類学者、東京帝国大学教授の中井猛之進(中井英夫の父)らに、この自然林の調査を依頼したことがあった。その時の報告書には、この城山の自然林こそ後世に伝える故郷の文化遺産であり、城郭をつくるときに加えた以上の人工をこの貴重な自然林に加えるべきでないと書かれている。
何人かの散歩の人とすれ違いながら井戸丸を過ぎ、10分ほどで天台に着いた。石垣の端に立って、海の方を眺める。幕末に、西郷隆盛や、アーネスト・サトウ、パークスらが来航した宇和島湾は埋め立てられて、海は遠くなったが、それでもなお素晴らしい眺めであると思う。
空襲を免れた天守閣を見て、自然林の中の道を下った。修理中のシートに包まれた搦め手の上り立ち門を出ると、左手に大津事件で知られる児島惟謙の像がある。門前の広い道路は堀を埋立てたものだ。大和田建樹の生家跡は、この道路を隔て、児島の銅像の真正面の位置にある。
大和田建樹の家
大和田建樹は安政4年(1857年)4月29日に生まれた。家は代々の伊達藩士で、父の水雲は宇和津彦神社の神官でもあった。母は英。建樹は、藩校明倫館で和歌と国学を学び、幼時より秀才として知られた。一時、東京や広島に遊学したが、明治11年3月14日の母の死に際して宇和島に帰り、再び上京する明治12年、23歳迄を宇和島で過した。上京後は交詢社書記などを務めながら独学で古今東西の知識を広く習得した。いくつかの学校で教職につき、散文、韻文、唱歌、辞典、文学史など多くのジャンルに精力的な執筆活動を続けた。編著書は百数十冊に及んだというが、その浩瀚な建樹の仕事の中で、後の世まで忘れられることなく、残ったものは多くの人に歌い続けられた「鉄道唱歌」や「青葉の笛」などの唱歌であった。
道路を渡り、大和田建樹の生家跡という小さな看板の前に立った。大和田家の敷地は一時は300坪以上もあったという。道路を渡って、看板の脇の露地に入ってみた。
明治30年に出版され、版を重ねた建樹の『散文韻文 雪月花』(博文館)の冒頭に「ふるさと日記」という一文がある。明治30年4月初めの帰郷の記録である。建樹は新橋から汽車に乗り、広島宇品港から三津浜へ渡り、そこから海路、第三宇和島丸で八幡浜、吉田を経て宇和島に帰った。帰省の宿は宇和津彦神社神官の毛山氏宅であったが、建樹は、一族や母の墓所に参った後、4月8日に、幼いころから親しい間柄であった西村氏という人の家となった生家を訪れている。
「此家は半生を送りし我が旧宅なれば。門を入るより、一種異様の感情に打たれたり。11年前に帰りし時は。父上かしこの柱のもとにて鼓打たせ給ひ。おのれこのあたりにて謡うたひつるなど思ひ出づるもただならず。2階はおのが遊戯室とし 復習室として20年間も住みたるところ。壁に描きし義経の顔は。塗りかへて 今はなけれど。天神様を祭りたる3尺の床の間は。あるじのかはれるも知らずがほなり。庭には梅。李。栗。柿。蜜柑など大かたの果物はありたるが。今日来てみれば切られたるが多きこそあはれなれ。」(大和田建樹著『散文韻文 雪月花』所収「ふるさと日記」より)
露地の奥には、今も西村氏がお住まいであるが、かつて建樹の一家が暮した生家はすでにない。一度、龍華山等覚寺の境内に移された後、市が解体保存していると聞いた。現在の風景から、かつての大和田家の宏壮な敷地を想像するのは難しい。城の堀までが埋められて道路に変わっているのだから無理からぬことである。
龍華山(りゅうげさん)
私は、大和田建樹の母と先祖の墓のある龍華山等覚寺に向かうことにした。宇和津彦神社から、金剛山大隆寺を通り、引き返すようにして道を下った。
宇和島人が、ただ龍華山と呼ぶ等覚寺は宇和島藩祖伊達秀宗や幕末に四賢侯の1人とされた伊達宗城の墓所がある宇和島屈指の名刹である。空襲に遭い、山門の他は再建された。
私は、7年前に宇和島の墓巡りをしたときに、この寺をおとずれ、空襲から寺の方が守られた伊達家累代の位牌や庭園も拝観させていただき、その時にはまだ境内にあった建樹の家も見せていただいたのであった。
庫裡に声を掛けて、建樹の先祖や、父母の墓がある大和田家の墓所に参った。墓は伊達家墓所に近い山すそにある。父水雲の本墓は建樹とともに東京の青山にあるが、龍華山の墓石にも父母の名が並んで刻まれていた。「ふるさと日記」には「境内もいと広く母君のは東向きにて立ちたまへるが。苔半ばとざして石のおもて神さびわたれるもかなし。今さらに葬り奉りし夜のさまなど思い出でられて。しばしは顔もあがらず。土の下なる母君。もしこころあらば。いかに語らまほしくや思(おぼ)すらん。」とある。
寺の方に挨拶をして山門を出、昔の武家屋敷風の門がある民家が連なる住宅街をぶらぶらと下る。「洗張、湯のし、丸洗い」、「洋服洋裁お直し」などの看板が目に付く。ところどころに小さな喫茶店が新しく店を開いている。久しぶりに歩くと、やはり宇和島はいいなあという気持ちになった。私は、木屋旅館の所まで下り、隣の古い喫茶店に入ってコーヒーを注文した。