第67回 大瀬紀行
内子町大瀬
年末に、ノーベル文学賞の作家大江健三郎の故郷である内子町大瀬に出かけた。山間の集落を巡り、山に囲まれた谷間に沿って開けた成留屋の町を歩き、冬休みで生徒のいない大瀬中学の建築をゆっくりと見た。
大江健三郎の故郷
1年に何度か大瀬に出かける。都会から愛媛にやってくる友人たちを案内することが多い。全国的に街並み保存でよく知られた内子を見た後に訪ねる場合もある。また、道後の湯につかり、松山の市内を廻った後に、郊外の砥部焼の窯を訪ね、さらに広田村から山中を走る国道経由で小田町から入ることもある。
成留屋の旧大瀬村役場を再生した交流宿泊施設「大瀬の宿」でコーヒーを飲む。小あがりの3畳間にある大江健三郎の写真や著作を見て成留屋の町の中心部を歩く。醤油屋の蔵の前を過ぎ、橋を渡って川の反対側の山裾にある建築家原広司の設計になる大瀬中学を見て帰るのがお決まりのコースである。
大瀬の成留屋を1度でも訪ねた人なら誰でもわかることだが、成留屋には、ノーベル賞作家大江の事績をことさらに顕彰したりするものはひとつもない。中学校の校庭の片隅にノーベル賞をもらった大江がここで学んだという小さなプレートが埋め込まれているだけで、後は「大瀬の宿」の中に帰郷したときの大江の写真や、著作が集めてあるだけである。私は成留屋の人たちのノーベル賞作家大江健三郎に対する、静かできちんとした当たり前の姿勢をとても気持のよいものに思う。一過性の、消費に傾いた文化を柔らかに拒絶する知恵と品位を感じるし、外から訪れる者にとっても、大瀬の雰囲気をそのままに味わうことが出来てとてもよいことだと思うのだ。大江の生家や、大江の小説に表現された場所などについて知りたいことがあれば、「大瀬の宿」の管理をされている土地の人に声をかけてみればよい。「大瀬の宿」には、雑誌『スイッチ』がモノクロの美しい写真と文で大江の帰郷を特集した号も取り置いてある。この雑誌には亡くなった大江の母小石さんのことなども過ぎぬ程度に出ているし、成留屋の町や、土木工事で変貌する川の景色を背景にした大江の写真、草むらに横たわる大江の写真などがすばらしい。私は、初めてこの雑誌を手に取ったとき、これらの写真が撮られた場所を1度歩いてみたいものだと思ったほどだ。
地形学(トポグラフィー)
大江は、自分が生まれ育った大瀬の神話と伝承がはらんでいる独自の宇宙観、死生観を中央の天皇制の文化に対立する周縁の文化のモデルとして『M/Tと森のフシギの物語』などの小説に表現したいと考えたのだという。その神話と伝承は山の村を舞台にして起きた寛延3年(1750)と幕末の慶応2年(1866)の2度の一揆にかかわるもので大江の祖母が大江に語り聞かせたものであったが、その内容は地方史として伝えられる一揆の史実とは違い、グロテスクであって、しかも生き生きとしたものだったという。大江は、その伝承に自分自身が幼少年期を送った四国の森に囲まれた谷間の村、大瀬の地形学(トポグラフィー)をあわせて独自の宇宙観、死生観を見出したということのようである。
私は「大瀬の宿」の駐車場に車を止め、成留屋の表通りを一旦、東の端まで歩き、駐在所の所まで戻って川沿いの細い道に出た。目の前はコンクリートの護岸がそそり立ち、その上を大きな国道が走っている。まだ美しい川の水を眺めながら古い成留屋橋まで来ると、橋の袂に人なつこい犬がつながれていた。
成留屋橋から表通りに戻って「大瀬の宿」の隣の農協の脇からコンクリートの擁壁にそって細い道を墓地の方へ登った。高い2本の木が聳える辺りまで登り、下を見下ろすと川の向こうに星中山が見えた。山と言うよりは頂上が平らになった小さな丘に近い。小さなお堂は庚申堂で大江の母の小石さんがよくお参りしたという。以前に訪れたとき、お堂の手前の石の手水鉢に名前があった。石段を下ると、曹洞宗の明應寺。一旦また表通りに出て右隣の三島神社に拝した後、今度は新成屋橋を渡って大瀬中学に向かった。
大瀬中学
大瀬中学の校舎はいつ来ても、細部に心のこもった建築であることを感じさせられる。初めて森の中に浮かび上がったこの校舎を見たときのすがすがしい気分を今もはっきりと覚えている。これほどこの風景にふさわしい学校があるものだろうかと思った。
冬休みで人影のない校庭の端を歩いて、西側の階段を上がった。中庭に入ると、解体された旧校舎の瓦が通路に敷き詰められている。さりげないがハッとするほど美しい。中庭を先に進むと突き当たりに音楽室が見えてくる。階段を上がって踊り場で一休みする。グランドの向こうに、堂々とした陣が森の姿が見え、その上に白い雲が浮かんでいた。
校舎の東端にある音楽室は円形である。鍵の掛かったドアの6角形の覗き窓から中を見た。天井の明り取りから光が降りそそぎ、波形の吸音板や反射板が不思議な雰囲気をつくっている。小さいけれど、太陽と天空、宇宙を象徴したとされるローマのパンテオンを思わせる空間だ。階段を降りてグランドに面した回廊を通り、また中庭に抜け、今度は山際の美術室へ出た。青石で積んだ古い石垣をそのまま建物の基部に残している。大きさも形もそれぞれ様々の自然の石を組み合わせて積んだ石垣の重厚さに打たれる。見せかけの効率がいかに空しくうすっぺらいものであるかを証しているかのようだ。その美術室の前から背後の山に入る道が続いている。その山道の右手の林に赤い実を付けた柿の木が1本立っていた。大江はかつて大瀬中学校の古い校舎でNHK教育のテレビ授業をしたことがある。作文の授業を終えるときに大江が、中野重治の「十月」という詩を朗読して生徒達に聞かせたことを思い出した。
「空のすみゆき/鳥のとび/山の柿の実/野の垂り穂/ それにもまして/あさあさの/つめたき霧に/肌ふれよ/ほほ むね せなか/わきまでも」。
私は、ほんとうにここが、子供らにこの詩を声を出して読んで聞かせたくなる場所なのだということを思った。そして、少し敬遠気味の大江の小説を少し読んで見ようかという気も起きてきたのである。
〈参考〉
『新年の挨拶』大江健三郎(岩波書店)
『人生の習慣』(岩波書店)
『私という小説家の作り方』(新潮社)など
Copyright (C) TAKASHI NINOMIYA. All Rights Reserved.
1996-2012