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第50回 西条紀行
 
愛媛県東西条市 
 水都西条に出かけた。禎瑞(ていずい)新田を通って市街に入り、堀に囲まれた西条陣屋跡の一角にある愛媛民芸館を訪ねた。市内の湧水を巡り、保国禅寺の庭園を拝観した。

 西条陣屋町
 西条市西北、中山川ぞいの道を海に向かって走った。西条市街という標識にしたがい橋を渡ると広大な水田がひろがっていた。江戸時代に干拓された禎瑞新田である。網を干したコンクリート堤防の上の道を通って、水路に浮ぶ難波の集落や乙女川をたずねた。嘉母神社に参り、うちぬきの水を味わった後、加茂川にかかる水都橋をわたって市街に入った。大きな武徳殿の屋根瓦の先を噴水のある堀にそって左折すると、旧西条藩陣屋の大手門が見えてきた。
 西条藩の起源は、寛永13年(1636年)に伊予河野氏に縁のあるとされた伊勢国神戸の一柳 直盛(ひとつやなぎなおもり)が西条6万8千石に封ぜられた時にさかのぼる。しかし、直盛が西条に赴く途次、大坂(当時)で病没し、長子、直重が父の遺領のうち3万石を引き継ぎ西条藩初代藩主となった。直重は陣屋町を建設するが、その子直興の代には早くも改易の憂き目に遭い、一旦幕領になった。その後、寛文10年(1670年)、紀州徳川藩主の次男である松平頼純が新たに西条3万石に封ぜられ、以後明治にいたるまで10代、200年にわたる松平氏の治世が続いた。
 今、堀にかこまれた旧西条陣屋の敷地には、県立西条高校と、ついさっき通り過ぎた市立図書館や武徳殿、市立郷土博物館と愛媛民芸館の建物が建っている。私は堀の東側から堀の内側の大手門にまっすぐ続く道に入って左手に車を止めた。
 愛媛民芸館の建物は、市立郷土博物館と一体になっている。玄関の右手が民芸館、左手が郷土博物館だ。最初に、入場無料の市立博物館をさっとのぞくことにした。1階には西条陣屋の御殿にあった戸襖(とぶすま)などの遺物や、書画や刀剣などがある。夏目漱石の臨終を看取った西条出身の医師、真鍋嘉一郎の写真もかざってあった。2階には貝類や鳥類の標本、鉱石や化石が陳列されていた。すべてに、丁寧な解説が墨書してあり、郷土の子弟教育への強い情熱が伝わってくる気がした。
 しかし、あまりに内容が濃くて、なんとなく落ち着かぬ気がして来た私は、サヌカイトを23度、木槌でたたいて音を聴いた後、同じ建物の反対側にある民芸館に向かった。
 愛媛民芸館
 なぜ、(というと失礼かもしれないが、)西条市に愛媛民芸館があるのだろう。ずっと気になっていたわけではないが、不思議には思っていた。受付の女性に入館料200円を支払い、中に入ると、吹き抜けの、円い天窓から柔らかい光が落ちている。2階の床は松板だし、窓枠や階段の踏み板や手摺にも木が使われていてあたたかい雰囲気だ。白い壁面には東北地方の「けら」と呼ばれる美しい蓑などが掛けられている。手前のガラスケースの中には、伊万里を写したといわれる南宇和郡の御荘焼の大皿や、伊予絣、陶器時代の砥部焼もある。
 奥の部屋に入ると、右側の壁にそって、つきあたりまで、腰ぐらいの高さで畳の間がしつらえられていて、近畿地方の農家で使われたという茶棚が置いてある。つきあたりの床には柳宗悦の「今日 空晴レヌ」という法偈(ほうげ)の軸がかかり、畳の間の近くに石で組んだ炉があって天井から吊るされた自在鉤には鉄の茶釜がかかっていた。
 2階には、陶器のコレクションがあった。李朝の壷や、肥前二川(弓野)の松絵の大きな水瓶がのんびりと並んでいる。いわゆる黒薩摩、苗代川の甘酒壷もあった。これらの品物はみな堂々とした風格のある品で、決して最近つくられたものではない。日本の手仕事が生きていた時代のものであることが、私のようなものにもわかるものばかりだった。学生時代に友人と訪れた東京駒場の日本民芸館の蒐集(しゅうしゅう)に通じるものを確かに感じた。
 なぜ、日本の手仕事を見渡すこれほどの蒐集が西条にあるのだろう。受付に居た女性にこの民芸館はいつ建てられたのですかと聞いてみた。すると親切な女性は、ちょうど在館されていますからと言って、西堀勝館長を呼びに行ってくれた。
 西条と大原總一郎
 お言葉に甘え、西堀館長にいろいろお聞きして疑問が氷解した。
 この民芸館は昭和42年に、西条に工場のあるクラレの経営者、故大原總一郎の寄付によって建てられたものであった。大原はその当時、民芸運動の創始者柳宗悦亡き後の日本民芸協会会長を務めていた。館蔵品の基礎は京都時代の柳宗悦に民芸蒐集の薫陶を受けた周桑郡小松町出身の菅吉暉氏のコレクションであって、新たに砥部焼や伊予絣など、愛媛の民芸を主に少しずつ蒐集をしてこられたそうだ。
 バブルの時代に雨後の筍のように生え出した企業メセナやフィランソロピーは長い平成不況の間にほとんど姿を消すか、気息奄奄の状態になっている。ところが、戦前のむつかしい時代に、岡山県倉敷という地方都市に、本格的な美術館や社会の貧困を解決するための社会問題研究所、東洋一の総合病院などを私財を投じて作り上げた企業家がいた。總一郎の父、大原孫三郎である。孫三郎は柳宗悦が日本民芸館を建てるときに10万円の資金を出している。戦中から戦後の混乱期に社業を受継いだ總一郎は、公私ともに父と違った個性を持った経営者であった。しかし企業の社会貢献、文化事業には、父と同じ熱意をもって力をつくした。特に民芸については父の趣味をそのままに受継いでいたのであった。
 總一郎は、東大を卒業して入社後、すぐに新居浜に赴任して倉敷絹織(クラレの前身)の工場新設にあたった。また新婚生活も新居浜で始めるなど東予地方とは縁が深い。新居浜工場は戦争の時代に国によって接収されてしまったが、西条工場だけは戦時中も、操業を続けた。非軍需工場として生き残ったのは、宮崎延岡の旭化成の工場とともに全国で2つだけであったそうだ。
 總一郎は自社の工場がある西条を年に2回は訪れた。そして、同じ東予地方でも住友一色の趣がある新居浜とは違い、クラレが早くから地域に馴染んでいた西条では、まるで郷里に帰ったような居心地の良さを感じていたという。とりわけ、定宿にしていたクラレの寮、渓石荘と工場との行き帰りに目にする旧西条藩陣屋あたりの街並みは、故郷倉敷の美観地区に似たところがあって、とても深い愛着をもっていたそうだ。
 昭和41年6月に県立西条高校の講堂を借りて行われた東予民芸協会(現在の愛媛民芸協会の母体)の設立総会に出席した總一郎は、「東予地方には誤った先入観がないということ、山紫水明の美しい自然があるということ、また権力につながらない、あたりまえの生活が展開されておるというようなこと、これらが民芸にとって欠くことのできない条件であります」などと述べている。
 「東予民芸」という協会の機関紙の題字をバーナード・リーチに書かせた。民芸館と博物館の建物の設計は、倉敷紡績と縁の深い建築家浦辺鎮太郎にまかせた。そして、民芸館の建物だけでなく、県立西条高校の隣、同じ陣屋跡の敷地内に戦後間もない1949年に完成した栄光教会と幼稚園の建設にも尽力した。(この簡素で美しい教会と幼稚園は40才になったばかりの浦辺鎮太郎の作品である)西条への思いはひととおりのものではなかったのである。
 大原總一郎は昭和42年4月、国立がんセンターに入院した。惜しくも、その2年後に57歳で亡くなったため、再び西条を訪れることはできなかったが、東予民芸館の完成式典には柳宗悦の盟友、濱田庄司が訪れて祝辞を述べた。
 西堀館長に大原總一郎や民芸館を訪れて個展を開いた日本最高といわれた染色家芹沢けい介(「けい」は金へんに圭)や版画家の棟方志功らについて、また館と民芸協会のその後についてお話をうかがっているうちに閉館時間の5時が近づいてきた。
 西堀さんは約20年前の定年まで、クラレの西条工場長を務めておられたという。「私は技術畑の人間で何も知りませんから」としきりに謙遜されるが、技術畑の西堀さんが、民芸館の運営を見事に、自然にこなされているのが、クラレの企業文化の底力ではないだろうか。民芸の考え方についても、各地の民窯の現況についても、ご自分のはっきりした見識をお持ちであった。
 西堀さんは、美しいものや醜いものが切り離されることなく共に存在する現在の工芸の世界をあるがままに、寛容に受け入れておられる。その上で、ものをふだんの暮らしの中に活かして使うことによって生み出される「用の美」をじっくりと、自然体でもとめておられるように思った。
 弘法水から保国禅寺へ
 民芸館を出て、本陣川にそって北浜港に向かった。海中から真水が湧き出しているという弘法水を見ようと思ったのである。小さな漁船がいっぱい繋留された漁港の突堤に小さなお堂があって、石の手水鉢からこんこんと清水が湧き出している。昔は汐がひいたときしか見られなかったそうだが、今はいつでも大丈夫だ。大師像に賽した後、味見をした。なんとなく有難い味に思えた。
 もとの道をもどり国道に出て、伊曽乃神社の境内の脇を抜けた。掘り起こされ田植えを待つ田圃の向うに、湧き上がる緑の森を背景にして、保国禅寺の美しい白壁の塀と山門、そして茅葺きの本堂の屋根が見えた。山門の右手、墓地の前の駐車場に車を止めて境内に入り、庫裏でご住職に拝観をお願いして本堂に上がった。保国寺の本尊は阿弥陀如来、萬年山金光院と号し、臨済宗東福寺派である。有名な国指定重要文化財の仏通禅師座像は金網の奥、薄暗がりの中にいらっしゃった。鎌倉末期の頂相(ちんそう)(禅宗高僧の肖像)彫刻の傑作といわれる。なんだか、いまにも一喝されそうな表情で、大きな存在感がある。
 本堂裏手の縁に出てすわった。四国最古、京都龍安寺の石庭とほぼ同時期といわれる室町時代作庭の庭園である。いつもお世話になる日本庭園鑑賞会編『伊予路の庭園』を導きにして、しばらくの間、庭を眺めた。

※栄光教会について新居浜東高校遊口親之先生のご教示をいただきました
参考●『柳宗悦』鶴見俊輔 『評伝柳宗悦』水尾 比呂志


 柳 宗悦(やなぎ むねよし)と民芸運動
柳 宗悦
バーナード・リーチ筆、1918年、ペン画
柳 宗悦 (やなぎ むねよし)【1889年(明治22年)~1961年(昭和36年)】は、宗教哲学者で日本民芸運動の創始者。海軍軍人の家に生まれた。母は嘉納治五郎の姉。雑誌『白樺の』創刊に参加。早くから朝鮮の芸術を愛した柳が、無名の工人によってつくられた李朝陶器の美に開眼したことが、柳の民芸運動の端緒であった。「民芸」という言葉は「民衆的工芸」の略語で、柳と美の認識をともにした陶芸家の濱田庄司、河井寛次郎らによって作られた言葉。「一般の民衆が日々の生活に必要とする品」をつくる「民衆による民衆のための民衆の工芸」の意。
 柳は「下手(げて)もの」と呼ばれる無名の職人の手になる日常雑器のなかにかつて何人も捉えることのできなかった美を発見した。 柳が主唱した民芸運動は自由で健康な美が、最も豊かに民芸品に表れているという事実を 人々に知らせ、民衆の暮らしから生まれた手仕事の文化を正しく守り育てることにより、普通の多くの人々の生活をより豊かにすることをめざしていた。共鳴者が増え、各地での民芸品の調査蒐集が進む中、1934年(昭和9年)には民藝運動の活動母体、 日本民芸協会が発足した。 そして1936年(昭和11年)には、倉敷の実業家大原孫三郎の支援によって、 現在も東京駒場(目黒区)の地にある日本民芸館が開設された。
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1996-2012


黒薩摩、苗代川の「ちょか」。西堀 勝愛媛民芸館館長の蒐集。
背後には肥前二川(弓野)の松絵の水瓶がある。

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陣屋跡を流れる本陣川あたりの風景
西条陣屋町を築いた一柳直重はまず水路を付けかえて喜多川の流れを陣屋を囲む堀に引き入れ、さらに本陣川を新たに開鑿して堀の水をすぐ北に広がる海に注がせた。そして、総町名に喜多浜町という名を持つ七町からなる陣屋町を建設、有力商人を移り住ませた。

県立西条高校
旧西条藩陣屋の大手門が校門になっている。

西条市立郷土博物館・愛媛民芸館正面。

民芸館の窓

民芸館内部



朝鮮の石鍋

柳宗悦の書 
西堀館長は梅雨の時期になるとこの軸をかける。柳は「長い雨の後、一点の雲もなく、蒼蒼とした空が晴れ渡るときのすがすがしさは誰もが味わう…心の空の晴れる日を待つ人は、如何に少ないことか…」と書いている。

民藝館の蒐集の基礎となった菅吉暉や湯浅八郎ら柳の同調者による京都民藝同好会の展覧会目録。

市立郷土博物館・愛媛民芸館
1967年完成。施工 藤木工務店。延床面積612平方メートル。鉄筋コンクリート造、木造2階建。設計は浦辺鎮太郎(うらべしずたろう)。浦辺は1909年倉敷市生まれ。京都帝国大学建築科卒。学生時代には武田五一に大きな影響を受けた。1934年、倉敷紡績の営繕部長となり、後に事務所を設立して独立。倉敷市民会館や倉敷市の環境造成で毎日芸術賞を受ける。代表作は倉敷国際ホテルなど。民藝館の白壁土蔵のような外観、黒瓦の化粧貼りなどは後に浦辺が設計した倉敷文化センターにもつながる。重厚な民芸調のネオクラシズム、きめの細かいヒューマンスケールの空間はときに、浦辺調あるいは倉敷調といわれる。
栄光教会と幼稚園
戦後間もなく一信徒のもとめに応えた大原總一郎の尽力で建てられた。建物の設計は当時、クラレの社員だった浦辺鎮太郎。浦辺の初期を代表する細部に心のこもった作品である。

教会鐘楼

礼拝堂

牧師館の玄関ホール吹抜け

居間

幼稚園舎



保国寺遠景

弘法水 
本陣川が海に注ぐ喜多浜漁港にある。

保国寺 塀の白壁に残る弓の矢口
南北朝時代、伊予の豪族河野氏が寺の西南約1キロに築いた高峠城(たかときじょう)の出城の役割を果した名残といわれる。

保国寺庭園
四国最古。15世紀前半の作庭。「ここでは総体的に、中国の神仙思想に基づく不老不死の世界を表現する蓬莱石組や鶴亀石組、仏教思想に基づく須弥山石組や三尊石組などの思想的構成が見事に表現されている」(日本庭園鑑賞会編『伊予路の庭園』愛媛文化双書)そうだ。戦乱で焼失した本堂が再建されたときに庭の一部が埋められたのではないかという興味深い推理もある。