愛媛県立歴史文化博物館で映画『てんやわんや』のビデオを見た。オールロケーションで撮影された昭和25年当時の津島町岩松の美しく、風格のある町並み、そして、南国の豪壮な気分が横溢した闘牛や、秋祭りの風景に圧倒された。
獅子文六の宿
3月20日、津島町の岩松に出かけた。風の強い、よく晴れた寒い日であった。宇和島と津島町の間にはトンネルが抜け、昔のように、つづら折れの松尾峠を越えることはない。宇和島から20分ほどで岩松に着いた。役場の手前で岩松橋を渡り、川沿いの右手にある大畑旅館をたずねた。大畑旅館には獅子文六の一家が暮らした部屋が、今も客室として使われている。獅子文六は、昭和20年12月に、食糧難を避ける為、妻と、死別したフランス人の先妻との間に生れた20歳の娘を連れて、最初の疎開先であった神奈川県吉浜町から、妻の郷里の津島町岩松へ「戦後疎開」をした。敗戦直後の混乱した鉄道事情の中、やっとの思いで岩松にたどり着いた文六たちは、最初、近家(ちかいえ)港に近い妻の実家に厄介になったが、すぐに町の中心部にある岩松の豪家、小西家の分家、通称「東小西」の邸内(今の大畑旅館)に移ったのであった。大畑旅館は、明治中期の創業で、元は現在の商工会館の場所にあったが、昭和30年代に「東小西」の一部を譲り受けて今の場所に移った。御主人の大畑勝照(かつのぶ)さんに文六一家の住んだ2階に案内していただいた。文六唯一の私小説『娘と私』に「2階は4間あったが、東側の6畳を私の書斎と定め、疎開して戦災を免れた、僅かな書籍を列(なら)べ、机を置いた。西側の4畳半を、麻理の部屋にした」とあるそのままの間取りだった。
『てんやわんや』の誕生
文六は、岩松での、生れて初めての地方生活に馴染まず、しばらくの間はマゴついたり、癇癪を起こしたりしたようだ。人嫌いになって、時には、外国にいた時よりも異境の寂(さび)しさを感じたという。しかし、すべてに鷹揚(おうよう)、闊達な小西家の当主や、「気さくで、冗談好き、そしてやや不行儀であって、かつ暗さをまったく知らない土地の人々」との交流が深まるにつれ、文六の屈託も薄れていった。薄れたどころか「もう、文士はやめて、ここで、一生を送ることにするか」などと半ば本気で妻に語り掛けるようになるほど打ち融けた。秋祭りで、町全体が浮き立ち沸騰する様子に驚いた文六は、徐々に農事や農村生活にも目を向けるようになった。この地方の方言や、民謡、口碑(こうひ)そして、1年の行事などをノートに取ったり、青年たちの協力を得て新たに採集したりもした。ユーモアと哀歓に満ちた文六の『てんやわんや』の世界はこうして生みだされた。
生きた白魚
岩松川に面した西側の部屋で勝照さんに文六の思い出をうかがった。
「もう33年くらい前になるかなあ。ぼくが学生時代、東京にいた頃に女将をしていた久枝お祖母ちゃんが、飛行機で生きた白魚をガラスの金魚鉢に入れて東京の文六さんのとこに持っていったことがあるんです。たしか2度です。1回目は途中で死んでしまってうまくいきませんでした。それで翌年だったかな、2回目はぼくも一緒についていきました。すこしは生きていましたよ」
透明で少し小ぶりな岩松の白魚は2月のほんの2週間ほどの間に、群を成して岩松川を遡上してくる。文六の『食味歳時記』(中公文庫)に「川の水が瀬となって、音を立てるあたりを、魚群がチリメンのような水の皺を、呈するので、すぐ、それとわかる」とある。
岩松では、人参と椎茸の千切りを煮た汁に、大量の白魚を投げ入れて御汁にする。すると、生きた白魚からおびただしいヌメリとと膏(あぶら)が出て、中国料理の「燕巣(えんず)」のような濃美な味になる。食にひとかどの見識をもっていた文六が、岩松を離れた後もその味を忘れず、御椀を拝みたくなるほどのおいしさと書いている。久枝さんと生きた白魚を届けた勝照さんに、文六は大喜びで「大畑青年へ」と書いて『てんやわんや』を1冊よこしたそうだ。
魚市場で
翌朝、小西本家のすぐ先にある岩松魚市場に出かけてみた。こじんまりとした古い木造の市場である。2、3人の漁師が釣り上げたばかりの見事な鯛や、新鮮な貝、カニ、透き通ったモイカ、タコなどをならべていた。みな生きていて、パシャパシャと音を立てながらトロ箱の中で跳ねている。競りの始るのを待つ間に、貝を持ってきた女の人に話しを聞いた。「おばちゃんは、岩松のあさり取りの名人やけんな。きれいな貝やろう」とニッコリ笑われる。市場の顧問の川口さんが来られ、令弟の一夫氏が岩松の民話やとっぽ話を集めた「大鰻の小太郎」とか「2重柿物語」などの書を上梓(じょうし)されたことをうかがっているうちに、また何人かの漁師が魚を運んできた。コヅナとか、イトヨリだとか、大きなヒラマサなども並べられた。8時半を過ぎて、競りが始った。川口さんは、中央にどっしりと腰をおろして競りを見守っておられる。長い「競り棒」を持った、ロマンスグレーの髪を、きちんと分けた人が魚を次々と競りに掛けていく。表情と語り口が軽妙で、手際がとてもよい。魚を取り巻く人々の中に、符帳とあけすけな冗談が飛び交う。売買の成り行きは、ほとんど分からないが、見ているだけで、なんともおもしろい。どことなく大らかで、親密な気分がある。見とれていたら、あっという間に競りは終わった。仕入れに来ていた勝照さんに、「もう全部売れてしまったのですか」とたずねたら、「うん、もう全部きまったよ」との返事。たしかに、のんびり競っていたら魚が古くなってしまう。
『坊っちゃん』と
『てんやわんや』
津島町を歩き、お話しをうかがううちに、「わしは、文六が嫌いよ」という何人かの人に出会った。文六が田舎を馬鹿にしていると言うのである。そしてこの地方の遅れたところを遠慮なく書いているのは思いやりにかけるというのだ。私は、文六の小説や随筆が大好きなので、文六が作家として自由に、いいとこも悪いとこも書いていること、岩松だけではなく、外国も、日本も、東京や田舎も、何より自分のことも辛辣に描いていること、そして当然のことであるが、悪くばかりは書いていないことなどを話してみた。しかし、言葉を交わした人たちには、理屈ではなく、やっぱりおもしろくないのだという雰囲気が覗えた。
完全なフィクションである『てんやわんや』や文六の初めての戯曲『東は東』などと、私小説の『娘と私』とを読み比べれば、文六が自分でも認めているように、文六の本領は、やはりフィクションにあったと思う。
戯曲の『東は東』は、文六が最初に結婚したフランス人の妻が日本の生活に耐えられず不幸な死をむかえた意味を問うために文六が書いた、今なお新しい作品である。文六は、狂言のかたちを使って、自らの悲劇を喜劇にするため、1日に、2行か3行しか筆が進まぬほど身をけずったという。
夏目漱石の『坊っちゃん』で松山は全国に知られる。松山の人たちは名前を付けた文学賞をつくったり登場人物のモデルを捜したりする。「温泉以外に感心するものが何1つない」とは松山に対する侮蔑以外のなにものでもないと言って、怒る人は少ない。
『てんやわんや』が映画化された頃は、岩松もそれに似た様子だったようだ。しかし、今や文庫本も版元品切れ、主人公犬丸順吉やわが南伊予のヒーローたちは、すでに忘れられた存在に近い。残念ではないか。『てんやわんや』を読んで岩松の街を歩けば愛すべき南国の気風や、秋祭りの奔騰(ほんとう)が彷彿(ほうふつ)し、岩松に対する親密感が一気に倍加するであろう。文六が冗談のように土地の人々に語らせた「四国独立」や「求心」の思想も、環境問題や戦争に苦しむ現代を先取りしたといえなくもないだろう。
いっそ、2月の白魚祭りの時にでも『てんやわんや』ユーモア文学賞を募集し、「鉢盛料理」で都会人士を震撼させてはどうだろう。
〈参考〉
「『獅子文六全集』4・6・14・15巻」(朝日新聞社)、『牡丹の花―獅子文六追懐禄』、『岩田豊雄他集』現代日本文学体系53(筑摩書房)、『津島町誌』