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第78回 不棄英学校と村井保固
 
北宇和郡吉田町~宇和島市御殿町 
 今日、村井保固の名を知る人は少ない。村井は、福沢諭吉の愛弟子の1人で、慶応義塾の卒業生として初めて実業界に入り、戦前、日米貿易のパイオニアとして活躍した。村井の生まれ育った伊予吉田と、村井が通った明治初期に開設された英語学校の跡を宇和島市に訪ねてみた。

 「村井保固伝」
 最近、書庫にあった、昭和18年10月、財団法人村井愛郷会発行、大西理平編著の『村井保固伝』という伝記を読んだ。少しばかり時代がかった筆致ではあったが、村井について、ほとんど知るところのなかった私には大変興味深い内容であった。
 村井保固は旧姓、林三治(さんじ)。安政元年(1854年)9月24日、吉田藩御舟手組の下士の家に生まれた。丁稚奉公や寺の飯炊き男をした後、16歳の時に村井家の養子となった。宇和島の不棄英学校、広島、松山の英学校で学んだ後、24歳で慶應義塾の2年に編入、福沢諭吉に親炙した。同期の友には、犬養毅、尾崎行雄、本山彦一らがいた。卒業後は、政治家か学者、官僚、ジャーナリストがほとんどであった当時の慶應の出身者としては珍しく、福沢諭吉の世話で貿易商社の森村組に入社、日米貿易のパイオニアとなって、戦前に太平洋を90回も横断したという。アメリカ人のキャロライン夫人と国際結婚をして生涯添い遂げ、昭和11年83歳で亡くなった。戦前の日本の主要な輸出品の1つであった陶器製造を初めて工業化した、日本陶器会社(ノリタケや大倉陶苑、東陶などの母胎)の設立と発展にも大きな貢献をした。村井は64歳の時、名古屋で受洗し、事業で得た金を惜しげもなく郷里の吉田の教育事業に寄付したり、山室軍平の救世軍に多額の醵金をしたりもしている。しかし、村井は同級生の犬養や尾崎のように政治家となって名をあげることもなく、又、ジャーナリストとなった本山彦一のように毎日新聞の今日の礎を築いた人として、長くその名を記憶されることもなかった。村井は、一企業人として森村組に生涯仕えた。昭和11年に世を去ったし、活動の場がアメリカであったから、村井の名が生地と勤めた企業以外に知られる事が少なかったのであろう。インターネットで見た「ノリタケ」の社史にすら、日本陶器創業期に純白の陶磁器を開発するまでの苦難の時期をニューヨークの店で得た収益で支えた村井の名はどこにも見えない。私財を惜しみなく寄付し幼稚園までつくった生地の吉田でも、若い人々の間には、村井の名はそれほど知られてはいないのである。
 野人村井保固
 時代だと言って片付けてしまえばそれまでだが、村井の面目は世間にその名を知られることにはなかったし、私が、この伝記に興味を持ち、少しずつ引き込まれてしまったのも、そんなことではなかった。
 村井を顕彰するために出版された、この村井保固伝には、村井の矛盾に満ちた、極めて愛すべき人間的な姿があふれ出ていた。村井が人生の行路で犯した失敗は少なくない。生徒でありながら、その学力を認められ教師として遇されていた松山英語学校在校中に、道後の遊郭で道楽をおぼえ、養家の金をつぎ込んで1度退学の憂き目を見たこと、慶應義塾に入った後にも、犬養ら悪友とともに再び、悪所通いを始め、欲望を制する方法を考えあぐねた末に、福沢諭吉に「先生はどうやって克服されたましたか」などと、真剣に尋ねたりしたことなども書かれている。ついに生涯克服できなかったもう1つの悪癖、賭事と相場好きについては、いっそう救いのない、直截な筆で事実が記されている。村井が日本夫人との間にもうけた子供のことについても過不足なく触れてある。
 村井は決して、おつにすました名士でも、紳士然とした人でもなかった。野人の風貌を持ち、多くの過剰な欲望と欠点を隠さず、これまた過剰とも思える宗教的な情熱を奔騰させながら、ひたむきに生涯を走り続けた人であったようだ。
 村井幼稚園
 私は伊予吉田に生まれ育ったから、村井の名前だけはよく知っていた。晩年の村井が「故郷の苗床はよく注意して水を注ぎ肥料を与えて、立派に仕立てて行かねばならない」と考え、私財を投じて創立した村井幼稚園がすぐ家の近所にあったから、姉達も私もみな世話になった。当時の園児たちは、何かの折には先生の引率で御舟手の海蔵寺にある村井の墓に詣でた。当時、園長であった樋口先生は私たちに、鉄道で宇和島に行くときには、汽車が吉田の駅を出てすぐ、海蔵寺山門前の踏切りを通り過ぎる時に車窓から村井の墓に向かって手を合わせることを、きっと忘れぬようにと何度も教えられた。相当な乱暴者で、樋口先生の手を焼かせていた私も、なぜかその言い付けだけは妙に気になって、手を合わせぬまでも少しだけの間、眼をつむったりしていたのを覚えている。私たちは、すでに世を去って久しかった村井という人を見たこともなかったし、何をした人かを具体的に知るはずもなかったが、却ってそれゆえに、村井という人に、畏怖に近い感情を抱いたのかもしれない。
 不棄英学校を訪ねる
 この伝記で知ったエピソードをもう1つあげる。村井が吉田藩の藩校の後身である時観堂学校に通っていたときに、神山県(当時)の学務委員西園寺公成が学校にやってきた。漢籍の「左伝」の講義を見た西園寺は「相変わらず古くさいのう。これからは文明の新学問をせねば駄目だ」という一言を発したという。村井はすぐに学友5人と語らって宇和島の不棄英学校に入学した。不棄英学校とは神山県が明治5年10月に制定した「小学規則」によりつくった宇和島第1本校に付設された英学舎であった。校長兼任の先生は、後に三井財閥の基礎を築いた、福沢諭吉の甥、慶應義塾出身の中上川彦次郎。この学校は12歳から23歳までの子弟を受け入れ、校名は学問に志を立てて来るものはこれを棄てずという意であるという。村井は当時75円という高給で迎えられていた中上川の覇気にあふれた講義に強い影響を受けたが、中上川は7ヶ月で東京に去った。明治初年に宇和島に英学校がつくられたというのは少しも驚くにはあたらない。藩政時代に伊達家が招いた高野長英や福沢と同じ適塾に学んだ村田蔵六らの残したものが生きていたことは容易に想像できる。もっとも、神山県が愛媛県となり、2年後にこの学校は廃校となる。村井は広島や福沢の弟子草間時福が校長だった松山の英学校で学び、中上川の呼びかけに応えて慶應義塾に進んだ。
 村井が学んだ不棄英学校の場所を探してみようと思い宇和島に出かけた。市立図書館で市誌を見て、明治初期の学校というおおまかな地図に不棄英学校を見つけた。しかし、堀の埋め立て、空襲、道路の拡幅などで今一つわかりにくい。すぐそばの伊達博物館に入って学芸員の方に見当をつけてもらった。もう1度、国道に面した、上り立ち門の前に立って、偕楽園(伊達博物館の前庭のあたり)の方向を見ながら、歩き始めたが、いまひとつ当時の様子が浮かんでこない。
 23軒のお宅で話を伺った。上り立ち門の隣のお宅の庭に出ておられたおじいさんには、2番小学校の場所と松並木のあった街道や、国道56号線の拡幅前の位置を教えてもらった。また、国道から伊達博物館の方へ少し入った路地の民家の脇に煉瓦塀を見かけたので、斜め前の家の前に立っておられたおばあさんに昔のことを訊いた。「母が4年前になくなってね。母なら明治のこともわかったでしょうに。ここは堀だったとか聞いた覚えがあるのですけど…。でも、あの煉瓦塀は学校じゃないですよ」と親切に答えていただいた。
 もちろん当時の建物が残っているはずもないのだが、おおまかな場所くらいは見ておきたいと思い、もう1度図書館に戻って、明治の地図があるかどうか訊いてみた。司書の方が「南予案内」という本を見つけ出してくださった。その中に明治末の宇和島市街図が出ていた。この地図のおかげで堀が埋め立てられる前の様子がわかり、不棄学校の大体の場所を見つけることができた。不棄学校は、伊達博物館の隣のガソリンスタンドの前の路地を入ったあたりにあったようだ。正確に御存知の方がおられたら御教示を受けたいが、今回はこのあたりで止めることにした。路地を入るとちょうど、空襲をくぐり抜けたかに見える、板張りの古風な民家が向かいあって建っていた。村井たちは、城山のすぐ下のこのあたりまで吉田から歩いて通い、英語を習っていたのであったろう。宇和島東高校や藩校の明倫館の跡もすぐ近くにある。
 私は御菓子屋さんの先の2本の松の木の前を過ぎ、国道を渡って上り立ち門に戻った。久しぶりに城山に上ってみようと思ったのである。

参考
『村井保固伝』(大西理平編・昭和十八年村井保固愛郷会発行)『中上川彦次郎の華麗な生涯』(砂川幸雄著草思社刊)『宇和島市誌』・『南予案内』など


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1996-2012


吉田町海蔵寺の村井保固の墓。踏切を渡った山門手前のすぐ左にある。村井の生家林家のあった場所といい、生地と墓所が同一の場所となった。
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村井保固とキャロライン夫人

村井が海蔵寺の養家の墓に建てた石灯籠。

宇和島市御殿町
昔、松並木があった街道の名残という。

村井の活動の場。森村組ニューヨーク店。

村井保固(左)
伊予吉田の村井幼稚園の園庭で。村井は83歳の生涯で太平洋を90回横断した。松山英学校時代に村井が知遇を得、以後親交があった内藤鳴雪は村井の古希を祝い「涼しさや太平洋を盥舟」の句を贈った。

吉田町
現在の村井幼稚園
園庭の右端に、村井の写真の「光の国」の石碑が見える。

宇和島市御殿町界隈
このあたりに不棄英学校があったと思われる。