冬の1日、明治の昔に日露戦争のロシア人捕虜たちが訪れた五色浜や郡中の町を歩き、上吾川の稱名寺(しょうみょうじ)に詣でた。稱名寺は、瀬戸内の海を一望にする小高い山裾にある。寺域には蒲冠者(かばかじゃ)源範頼(のりより)の墓があり、かつて子規や漱石が訪れ句を作ったことで知られる。
五色浜と
ロシア人捕虜
有名な花かつおの工場が建ち並ぶ町を抜けて海の方に歩いた。すぐに漁船が繋留された内港に出る。その港に面して、建て替えられ、新しくなった彩濱館がある。
彩濱館は、日清戦争直前の明治27年(1894年)1月に落成した。若き高浜虚子が書いた『松山道後案内附伊予鉄道の栞』には、「この彩濱館は青松白砂の中にあって、一望際涯なき海原に遠く白鴎の飛ぶのを見る。災暑の候来たり遊ぶものが最も多い。又寒風に海波の躍るのを見るものも少なくない。館は貸席を業として有志の建設するところである」とある。
明治37年9月25日、この彩濱館に日露戦争で捕虜になり、松山収容所に収容されたロシア人捕虜たちが招かれ、歓迎会が行われた。時の郡中町長豊川渉や町の有志たちが松山収容所に招待を申し入れたものだ。敗者である敵国の捕虜に礼節を以て接することが、日本を世界の一等国たらしめることに通じると明治の郡中人たちは考えたのであった。招待を主導した豊川町長は旧大洲藩士。坂本龍馬が船長であった大洲藩の蒸気船いろは丸に海援隊の土佐藩士らと乗り組み機械方見習をつとめたこともある開明的な人物であった。
才神時雄著の『松山収容所』(中公新書)に、招待されたロシア人捕虜将校の紀行文「郡中行」が紹介されている。その将校は、軍事通信員として派遣されたタゲーエフという少尉で、奇しくも文豪トルストイの弟子であったそうだ。
彼らは、12時半に伊予鉄道郡中線の2両増結された1等車に乗って松山を出発した。「この日はよく晴れた好天気で、息苦しいほどではないがかなりの暑さで、トルキスタンの夏を思い出すほどであった」。汽車は窓から沿線の畑のさとうきびが手折れるほどゆるやかな速度で走った。30分ほどで郡中駅に到着。出迎えの豊川町長らに案内されて五色浜の彩濱館に入った。一行は日本の習慣に従い履き物をぬいで館内に上がった。案内された2階大広間では、大机の上にリンゴや葡萄を山と盛った籠が置かれ、美しく着飾った女性たちが笑顔で茶菓をすすめてくれた。壁に掛軸が飾られた1階の広間には、壇が設けてあって生花と様々な伊予の産物が飾られていた。タゲーエフは、土地の産物を自分たちに紹介しようという郡中の人々の配慮はきわめて適切でその心情は尊ぶべきものであると書いている。ロシア人の捕虜達は、五色浜を散策したり、いわしの網引きを見物したりして「草の葉は、そよともしない伊予の夕凪(なぎ)どき」に松山に帰っていった。
私は、形だけ昔の建物に似せた新しい彩濱館を通り過ぎて、美しい松林を海に向かって歩いた。季節はずれの海浜公園に人影はまばらである。100メートルも歩くと古い石造りの灯台が立っていた。そこから海の方を眺めると、新しい港の向こうに小さく興居島が見えた。
郡中から稱名寺へ
郡中の商店街に戻り、ところどころに残る豪壮な商家や露地をたずねて、街歩きを楽しんだ後、子規と漱石の句碑があるという、上吾川の稱名寺に向かった。
市役所の脇の道をまっすぐ東に進み国道を越える。ゴム工場の所から右に折れて山手に細い道をとれば稱名寺の参道だ。田圃の中の道を登っていくと、右手に海が広く見えて来た。午前中は晴れていた空が鉛色になり、海岸近くの工場の煙突から白い煙が寒そうに立ち上っている。池の畔(ほとり)のこんもりした林の中に鎌倉神社の社殿があり、そのうしろに「源範頼(のりより)公の墓」があった。林の中の境内はきれいに掃き清められていて、お墓には新しい花と供物があった。
子規と漱石と範頼の墓
松山中学の英語教師夏目金之助は、明治28年の冬か晩秋に、松山から約3里、12キロの道のりを歩いてこの地を訪れた。
範頼の墓に謁して2句
蒲殿(かばどの)のいよいよ悲し枯尾花
木枯らしや冠者(かじゃ)の墓撲(う)つ落松葉
社殿左手前にある句碑に刻ま
れた漱石の句である。源範頼は、義朝の第6子で、遠江国(とおとおみのくに)(いまの静岡県西部)蒲御厨(かばみくりや)で生まれたから蒲殿(かばどの)とか蒲の冠者(かじゃ)とか呼ばれた。源氏の覇権が確立した後、伊豆の修善寺で兄頼朝の手にかかったといわれる。その範頼の墓が、なぜか、遠く離れた伊予の地にあり、「鎌倉さん」と土地の人々に呼ばれ、手厚く祀(まつ)られていた。
漱石が「範頼の墓」を訪れたのは晩秋の風の強い暗い天気の日であったろう。兄に殺された範頼の身の上と、寂しい池の畔の林の中に点在する従臣たちの墓は、孤独な漱石の心をいたく動かしたに違いない。
漱石が訪れたのは子規の導きであると考える他はない。明治20年、大学予備門に在学中の正岡子規は夏に帰省し、中学時代の友人武市(たけち)庫太(くらた)とこの地を訪れ、範頼の墓や稱名寺を題材にしたいくつかの漢詩をつくった。のちの明治23年には「範頼の墓」(『筆まかせ』第3編所収)という短い文章に
「範頼とは何の縁もなき四国にその墓あるは必ず多少の原由あるべし。義経さえ衣川に死せずして蝦夷へ行きしといえば、範頼も修善寺に死せずして四国へ逃げ来たりしかも知れず。あるいは、さなくば範頼の従臣がその首などを持ち来たりて、ここに葬りしものかも分からず。歴史に志す人は注意したまえ。砂の中に金があります」などと書いている。漱石は子規の随筆や漢詩、俳句を見てこの地を訪ねる気になったのであろう。
句碑にある漱石の句は、明治28年12月18日に漱石が、東京根岸の子規に添削を乞うて送った句稿の中に見えるものである。その句稿61句の中には、稱名寺を詠んだ「山寺や冬の日残る海の上」の句と鎌倉神社を詠んだ「古池や首塚ありて時雨ふる」の句もある。時も季節も同じではないが、漱石の山寺の句と、明治20年に若い子規が作った漢詩の一節「登臨沃野平 山寺低残日」(登臨(とうりん)すれば 沃野(よくや)平(たい)らかにして 山寺は残日を低めたり)とが、お互いにこだましあっているのは論をまたない。
子規、漱石と範頼の墓の縁は深い。2人は、伊豆修善寺にあるもう1つの範頼の墓にも詣でて、句を残している。子規は、明治25年10月15日、「旅の旅の旅」の紀行の際に、伊豆修善寺の範頼の墓に笠を手向(たむ)けて「鶺(せき)鴒(れい)よこの笠叩(たた)くことなかれ」という句を残した。
漱石は明治43年9月、修善寺での療養中に「範頼の墓濡るるらん秋の雨」、
「秋草を仕立てつ墓を守る身かな」と2つの句を詠んだ。病中の漱石の日記、10月4日火曜日にはこうある。
「鶺鴒多き所なり 鶺鴒や小松の枝に白き糞」。同じ鶺鴒の句を詠んだ子規は既にこの世になく、漱石はちょうど「生を九仞(きゅうじん)に失って命を一簣(いっき)につなぎ得たるは嬉しい」と率直に書いた大病から生還したところであった。
修善寺の苦しい病の床にあって、伊予の範頼の墓や亡友子規のことを何度も想起したに違いないと思うのである。
〈参考〉
伊豫市誌、『稱名寺と鎌倉さん』(臨光山稱名寺著者兼発行)、
『伊豫市の子規と漱石(2)』神野昭、
『子規・ 漱石と伊豫市』森岡正雄、
『漱石全集』17巻、20巻、22巻(岩波書店)、
『子規全集』11巻・17巻(改造社)、
『正岡子規』柴田宵曲(岩波文庫)
<資料提供> 永井敏隆