中高年主体の自転車歴の長い人たちの南予自転車ツアーに同行させてもらった。途中、雨に降られたが、参加した人たちは、南予はわが国の中でも、自転車旅行に最も適した地方のひとつであることを心から納得して無事に旅を終えた。
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南予グランドツアー
- 解体と組立が簡単で走行性能も高い自転車ジャイアントのMR-4。ツーリングにいい。 -
六月の終わり頃、ずっと自転車雑誌の編集をしてきた大学時代の友人宮内忍が中高年主体のグループで夏の終わりに松山から南予を走りたいと言ってきた。自転車はほぼ素人の私に同行せよと言う。結局、参加させてもらうことになった。
「しまなみ海道は自転車乗りの世界では全国区だが、愛媛の南も捨て難い。海山が迫り、アップダウンが適度にあって景色が美しく変化に富んでいる。峠を越えるたびに、落ち着いた歴史のある町並みが待っている。自転車のツーリングでこれほど魅力のあるところはそんなにないよ。過疎が進んでいるが、道路もよく整備されていて、少し奥にはいると滅多に車が通らない。驚くほどだ。信号もほとんどないじゃないか。人に出合えばみんな親切で、宿も安い。何より食べものがおいしい。」しまなみ海道だって、愛媛に入ってからがおもしろい。学生の時に1度、「サイスポ」の取材で3回走った南予はすごくよかった。お前は住んでるんだから、当然わかってるだろう。中高年の南予グランドアーなんだ」というのが彼の圧倒的な言い分であった。
高校を卒業してから二十数年を東京などの各地で暮し、13年前に地元に帰ってきた私の故郷に対する見方も、生活者の視点を外し、愛増半ばする故郷への強い思いを外せば、宮内とそれほどは違わない。二人で地図を見ながら、数度のやりとりを繰り返し、天候や体力に応じたいくつかのコースを準備した。
旅程は2泊3日の一周コースである。最初の日の出発は正午。帰りの飛行機やフェリーの時間に余裕を持つために松山には最終日の午後1時必着が条件だ。佐田岬半島の突端まで行って泊まりおいしい魚を食べて泊まり、翌朝、釣り船を借りて対岸の三瓶に送ってもらう事も考えたが、最初の日の出発時刻が遅いこと、宿の都合がつかなかったことで取りやめた。宮内は2001年に東京から鹿児島までを自転車で走破した歌手の忌野清志郎さんと一緒にメロディラインを走った。清志郎さんは宮内の幼なじみ。今も清志郎さんと走った時の風景が忘れられぬ様子だったから、佐田岬半島を割愛したのは気の毒な気もしたが、意外にあっさりと「時間があるし、しかたないな」とあきらめた。船の利用は自転車の場合には、時間短縮のショートカットに有効で、いつか試してみたいとは思う。
出発まで
現実化したコースは、初日は松山から海沿いに長浜へ走り、長浜から大洲を通って鳥坂峠をトンネルで越えて西予市卯之町松屋旅館泊(素泊まりOK)。翌日はコースを二つに分け、短距離コースは卯之町から川沿いに野村ダムを経て野村へ。さらに鹿野川ダム湖沿いに走り、鳥首から県道229号線で五十崎を経て内子に入る60キロコース。里山の風景にめぐまれた下り中心の走りやすいコースである。長距離コースは、卯之町から、峠をトンネルで越えて、海に面した三瓶町へ一気に下る。吉田まで国道378号線を走って、アップダウンの多いリアス式海岸を堪能。吉田から国道56号線に出て知永峠を越え、すぐ先で県道283号線で峠を一つ越して三間町の道の駅へ。三間盆地を山沿いに走り、きほく町の小倉(おぐわ)で広見川沿いの県道441号に出て、日吉の道の駅で休憩。国道197号線で城川を経て、肱川に入り、そこからは短距離コースと同じルートで内子に入る。宿泊は内子の八日市の町並みにある「月乃屋旅館」である。最終日は内子から大瀬経由で、突合(つきあわせ)の分岐から、国道378号線を広田、砥部と走り、国道33号線で松山に入る。距離は約60キロ。上りもそれほどきつくはない、上尾峠だけで、ほとんどが、ゆるやかで平坦な里山の風景を楽しめるコースである。
コース選択の目論見は、まず長浜まで瀬戸内海の穏やかな景色を楽しみ、長浜の開閉橋を見る。大洲で城郭と古い町並みを見て、七福堂の和菓子で一服。卯之町で二宮敬作やシーボルトの娘が暮らし、高野長英が逃亡の途中に滞在した歴史の町並みを散策、西日本最古の擬洋風校舎が健在の開明学校や札所の明石寺へ。夕食はステーションの横手さんが腕をふるった宇和海の幸を使った料理を食べる。翌日は南予の海と山の迫った景色、「分け入っても分け入っても青い山」という山頭火の句を思わせる伊予の山並みを満喫する。内子の美しい町並みの中心に泊まって、月乃屋の家族的なホスピタリティーにふれ、おいしい料理をいただく。最終日は大江健三郎の故郷を通り、小田川を遡上、里山の風景の中を砥部へ下る。時間があれば五本松のきよし窯を訪ねてもいいだろう。松山で道後の湯につかり、うどんを食べて解散する。おそろしく欲張りな目論見だが、天候や疲労度などでかなり大胆に割愛を強いられることも想定してのことである。
出発
- 晴れた日の国道378号双海辺り -
心地よいツーリングがができる。
8月の終わり近く、まだ暑い日が続いていた。集合はJR松山駅。時間通り、総勢14名が集まった。東京からの参加者以外に、姫路や岩国からの人もいた。空路で松山に来た人がほとんどだが、会社をリタイヤした方で何日も前に先発して、自転車で四国遍路をしながら、途中にこのツアーに参加した人もいた。また、東京から新幹線、特急を乗り継ぎ西条まで来て1泊、しまなみ海道を往復した後、寒風山トンネルから高知に越えて1泊し、さらに国道33号線で三坂峠を越えて松山入りした健脚の人もいた。岩国からの人は柳井から三津浜にフェリーで渡り松山駅まで走ってきた。最高齢は70歳を越え、いちばん若い人が30代半ば過ぎというところ。女性は3名、男性が11名の構成だ。自転車歴の浅いのは私だけ。私以外は、少なくとも十数年以上のキャリアを持ち、全員が宮内が編集長時代に「サイクルスポーツ」誌が催行していた海外自転車ツアーへの参加経験があった。
出発の準備をしながら、交替で愛媛新聞に近い「めん吉」に行き、うどんを食べる。
12時半に、30分遅れて出発。空模様が少し怪しい。JRから市立病院の方へ細い道を選びながら、ゆっくりと進む。固まらず車が追い越しやすいように3人位ずつで走って行く。後続が信号で遅れたら必ず安全な場所で待つ。10分ほどで、石手川の土手の下に出た。ここから石手川自転車道路経由で市坪へ向かうつもりだ。その時、ご婦人の一人が「あらっ、私のヘルメット」と言う。昼を食べたうどん屋にヘルメットを忘れたようだと言う。約4キロ走ったところだが、後々のことを考えて、土地勘のある私が取りにもどることにする。急いで「めん吉」にもどって尋ねると店の人が「ないですよ」と言う。携帯でもう一度、確認すると「駅のトイレかもしれない」。駅に行き、クッキー屋さんの娘さんに頼んで女性トイレを見てもらう。「ありません」。こまった。遺失物の窓口へ直行。「女性トイレにヘルメットはありませんでしたか」と尋ねると、受付の女性が私のヘルメットを指さして「あっ、そんなのがさっき一つ届いてます」。石手川の土手に急いで戻り、みんなと合流。
重信川自転車道から伊予市へ
そこで、雨が落ちはじめた。カッパを着用し、土手に上がって自転車道を走る。市坪に着いて、重信川自転車道に入ると、雨の勢いが少し強くなった。自転車専用の道なのでゆっくり走れば問題はない。対岸の橋詰めに子規の若鮎の句碑がある出合橋を過ぎ、重信川河口に近い、川口大橋に到着。幸い、雨は少し弱まってきた。
- 松前の瀧姫神社 -
ここから郡中までは県道を走る。道は細いが、通勤時間帯以外は、交通量が比較的少なく、松山城をつくった加藤嘉明が最初に築城した松前城の跡や、魚の行商をするおたたさんの起源となった瀧姫の伝説が伝わる瀧姫神社、郡中の歴史を感じさせる町並みや佇まいのよい港など見どころも多い。少し時間をロスしているので今日は、ただ通り過ぎるだけだが、余裕があれば立寄りたいところである。松前の港と瀧姫神社に近い、川崎屋のチャンポンもおいしい。
かつおぶし工場の集まった郡中の町を過ぎて、国道378号に出る。路面は濡れているが、少しずつ天気は回復してきた。伊予市三秋から道が上りになる。長い坂ではないが、途中で1回平坦になり、また上る。平坦になったところで、ばらついた隊伍を一度整えて、下りにかかる。道は大きく右に一度、左に一度曲がって海岸に出る。空が少し明るくなり、雨がだんだん弱まってきた。鉛色の風景だが、走りやすい道である。ここからは、集団を解き、最初の休憩地である「双海の道の駅」まで自由走行とする。
私は、練習のために、ペダルの回転数(ケイデンスというらしい)の安定したIさんというベテランの後ろについて走らせてもらった。メーターを見ると、Iさんは、毎分きっかり90回転くらいで漕ぎ続けている。スピードを落とす時もギヤを軽くして回転数は変らない。なるべくまねして漕ごうとするのだが、なかなかうまくいかない。まあゆっくり慣れようと思いながらついて走った。
- 双海の道の駅 -
松山から約1時間。伊予市の三秋峠を越えるとすぐに着く。
上灘にある双海の道の駅に着いたのは午後2時過ぎ。雨はほとんど上がっている。後続の人たちも、ほどなく到着し、約15分の休憩。自転車乗りは痩せてはいても、よく食べる。休憩の時は、必ずといっていいほど、飲むゼリーや、菓子パンなどを口にしてエネルギーを補給している。水は休憩の時だけでなく、走っている時も、まめに水筒から補給しているが、水の補給をおこたると、疲労が高じて、足がつりやすくなるということだ。
長浜~大洲へ
- 赤橋 -
長浜をめざして出発。回復はしてきたが曇り空で、潮風を受けて走る晴れた日のような爽快感はないが走りやすい道である。沖には青島がかすんで見えていた。国道と平行して走る、一両だけの予讃線の普通列車とすれ違う。下灘を過ぎ、しばらく走って、右手の埋め立て地にコンクリート製品を作る工場が見えてくると長浜はもうすぐそこだ。双海から1時間弱走り、長浜駅手前のローソンで小休止。再び、少しばらばらになった後続を待った。全員が揃ってから、水槽で活魚を売っている魚屋のある曲がり角から、商店の連なる町内に入った。幕末の頃、坂本龍馬や吉村寅太郎が泊まったと伝えられる家を過ぎると、その少し先が長浜大橋だ。赤く塗られたこの橋は、今も開閉可能で、現役としては我が国でいちばん古い道路可動橋(バスキュール式(跳ね上げ式)鉄鋼開閉橋)である。昭和10年8月の完成で橋長226m。開閉部分の長さ18m、重量82トン。太平洋戦争中に機銃掃射された時の弾痕も残っている。平成十年に登録有形文化財に指定され、ライトアップされることもある。
- 肱川ぞいの収穫の季節 -
- 肱川の風景 -
- 五郎の手前で一度休憩 -
橋の袂で記念写真を撮り、対岸に渡る。肱川左岸の道に較べてこの県道はさらに、車の量が少ない。橋を渡って左に行くと、細いワインディングロードが少し続く。左には河口近くで川幅が広がり、水を一杯に湛えた肱川が眺められる。
道が二車線になり、川沿いに桜の並木が続く平坦な道を走っていく。二三ヶ所アップダウンがあるが、きつくはない。登りきった場所は場所はたいがい川の眺めがすばらしい。道が分岐する大きな橋の袂で、後続を待ち、五郎の肱川堤防上を走る長い1本道に上がった。いつのまにか、天気はすっかり回復している。左側は肱川、右側は丹精した田畑が広がり、その向こうに下須戒の青い山々が連なっている。堤防の道が尽き、大洲八幡神社の辺りまで来ると肱川の鉄橋の向こうに大洲城が見えて来る。
鉄橋を過ぎ、左の田圃の中に続く新しい道に入って大洲の旧市街に出た。大洲城三の丸跡から中江藤樹居宅址の前を通って大洲高校へ。遠来の人々に、外濠を埋めて作ったグランドから東南隅の櫓と再建された天守閣を眺めてもらい、大洲城の城郭の規模を実感してもらう。ハイデルベルク大学ではないが、大洲高校は城の中に作られた学校である。高校の中を、ほんのちょっとだけ、通らせてもらい、最近整備公開されている旧藩主加藤候の邸宅に寄った。山田洋次監督の、寅さんシリーズで、嵐寛寿郎が殿様になった「寅次郎と殿様」は大洲でロケをされた。映画の舞台となった古い町割は、今もそのままだ。その核心部である志保町を通り、そこから露地を抜け臥竜山荘前の急坂を越えて柚木に下った。大洲では臥竜山荘の庭園や如法寺の紅葉や堂宇も見てもらいたかったし、七福堂のお菓子も食べてもらいたかったが、時間が押していたので今日は割愛した。
- 大洲市五郎の肱川堤防上の道 -
河口からの距離の標示がある。
鳥坂峠での出来事
- 鳥坂峠 -
- 卯之町中町の民家の飾瓦 -
大洲の町並みを出て、国道56号線に入ると、今日の行程では最大の登り、鳥坂峠である。約4キロほどの急坂が続く。ゴルフ場までの最初の坂にとりつく。トラックが多く、歩道を走る。登坂車線が始るところから、車道に降りたが、時々スピードを上げた車が追い越し車線を、けたたましく通り過ぎて行きなんとなく落ち着かない。ゴルフ場を過ぎて道路の反対側の札掛ポケットパークで小憩を取る。トイレから戻ると、峠を下ってきた若い歩きのお遍路さんが自転車についてKさんと会話を交わしていた。もう雨の心配はないが、坂はこれからトンネルまでが本番だ。10分で休みを切り上げて出発。トンネルの入口までそれぞれのペースで走ってもらう。ここまで、松山から約65キロほど走った。宿まではあと15キロほどの計算だ。私は、ハンドルに取り付けたライトの螺子が緩んで音がするので、少し遅れて出発し、最後尾で坂を上っていた。追いつくために少しペースを上げると前方の歩道の上で、70代のご夫婦が休憩しているのが見えた。あれっ、待っていてくれたのか、悪いなと思いながら近づくと、ご主人が「家内の足がつって動けないんです」と言われる。ご夫婦で南仏をツーリングしてきたばかりのベテランであるが、どうも疲れが出たようだ。私が、それじゃあ、しばらく休んでゆっくり行きましょうと声をかけたとたん、ご主人にもたれ掛かるようにして、奥さんが気を失われた。仰天した私は、「とりあえずゆっくり寝かせてください。」とご主人に申し上げた。ところが、ご主人も動転されていて、頭を坂の下の方に向けて奥様を寝かせようとされている。あわてて、頭の向きを逆にしてもらい、靴を脱がせて一緒にマッサージをした。すると、すぐに奥さんの意識は戻り、薄目を開けて「すこしよくなったわ」と言われた。しかし安心は出来ないし、もう無理もさせられない。私は鳥坂峠の向こう側にアトリエのある友人の彫刻家ケース・オウエンスを思い出した。携帯で電話をかけると、幸運にもケースは在宅していて、すぐ駆けつけてくれるという。ケースに松屋旅館まで車で送ってもらうことにした。だいぶ先を走っていた宮内達に携帯で知らせ、先行させ、ケースの到着までは一緒に待つことにした。奥さんは少しずつ疲労が解けていくようでやや安心した。ケースの到着を待つ間にとても驚いたことがある。30分に足りない時間の間に、通りがかった何人もの人たちがわざわざ車を停めて「大丈夫ですか」と声を掛けてくれたことだ。病院に運んであげると言ってくれたり、宿まで送ろうと言ってくれた人も一人だけではなかった。南予の人情はまだまだ健在。こんなときではあるが、少しうれしくなった。幼い頃暮した頃に較べると、十三年前に帰郷してこの方、ふるさとの自然や人気がひどく荒廃して思え、時につらくなったことがあった。しかし、こういう親切に接すると、表層の変化に惑わされてはいけないと思いかえしたものである。南予の人情は捨てたものではない。
- 渡辺家に残る高野長英の潜んだ部屋 -
- 開明学校 -
さて、危急を聞いて、二つ返事で駆けつけてくれた「ガイジン」のケースも無類にいい奴だ。到着したケースは、横たわる奥さんを見て、仰天、すぐに車の助手席を倒し、奥さんを抱え上げてそっと寝かしつけた。お二人の自転車は、「バイク・フライデー」というバイク・ツーリングに最適の米国製高級折り畳み小径車である。ロードレーサー並みの高い走行性能を誇りながら、畳むとすごくコンパクトになるという自転車で、ロビンソンクルーソーの忠実な従僕フライデーの名を冠した傑作だ。(因みに宮内もツーリングに来る時はこの自転車を使う。専用のスーツケースにたたんでしまうことができ、海外ツアーにも便利だそうな)
その、お二人の自転車をご主人に畳んでもらい、後事はケースに託した。みんなに遅れた私は先を急がねばならない。いずれ、車にはどこかで追い越されるだろう。
ケースを待っている間に少し疲労が取れたのか、トンネル入口までの上りは快調に過ぎた。峠の西の空が少し色づいている。ライトを点けて、トンネルに入ると、オレンジ色の照明が排気ガスで煙っている。鳥坂トンネルも路側帯は狭く、後方から迫ってくる自動車に気を取られていると前からお遍路さんが歩いて来たりすることもあるので気が抜けない。実は旧道の峠道がありお遍路さんにはそちらをおすすめしたい(第71回 鳥坂峠を越える
参照)。しかし、かなりの歩き遍路の方々がトンネルの峠道を選ばれる。トラックの排気ガスをふきつけられたりすると、地獄の責め苦にあったようで修業にはなるかもしれないが剣呑この上ない。
トンネルの道が少し下り加減になり、前方に出口の光が見えてくるといつもほっとするが、油断は禁物。もう一度、気を引き締めてペダルを漕ぐ。トンネルを出るとやや急な下りがしばらく続く。まだケースはやってこない。少し心配だがとにかく先を急ぐことにする。かなりのスピードで、多田の交叉点を過ぎた。勢いがついたまま、田圃の中を通る平坦な国道を時速30キロ以上で飛ばしていると、前方、旧道との分岐にあるコンビニの駐車場で先行した人たちが休んでいるのが見えた。ケースはまだ追いついてこない。のんびりした表情で待っている宮内に念のため、「ご主人の携帯に電話を掛けてみろ」と言った途端、周囲から「あっ来た、来た」という声が上がった。自転車を積んで、しばらく奥さんの様子が落ち着くのを待ってからた出発したそうだ。このあたりの沈着さはケースのいいところだ。私だったら、せっかちでなかなかこうはいかない。奥さんの顔色も少しよくなっているようで一安心。車を先に行かせた後、旧道に入って宇和の古い町並みの中にある松屋旅館をめざす。
宿への到着は、アクシデントがあったけれど、ほぼ予定通り午後七時前。日没ぎりぎりの時間だった。チェックインして、自転車を安心な場所に置かせてもらい、すぐに、風呂に入ってもらう。食事は、JR駅前のレストラン「ステーション」にアバウト八時からで予約してあった。メニューは宇和海の海の幸をふんだんに使ったイタリアンのおまかせ料理。大好評。食事を終え宿に戻ったのが午後9時半。1日目はこうしてほぼ無事に過ぎた。
(つづく)