夏の終りに、南宇和郡一本松町を訪ねた。抜けるような青空の下、旧い遍路道を歩き、作家宮本輝の長編小説『地の星』の舞台を巡った。
「地の星」
宮本輝は、昭和52年に『泥の河』で太宰治賞を得、翌年にはつづけて、『蛍川』で芥川賞を受けた。地味な作風とはうらはらに、作家としての出発を華々しく飾った宮本はその後も、『道頓堀川』、『錦繍』、『優駿』『青が散る』などの傑作を続々と書き、50歳を少し超えたばかりの現在では日本を代表する作家の1人に数えられて、芥川賞の選考委員も務めている。
『地の星』は、宮本輝渾身のライフワーク『流転の海』5部作の第2部である。(現在第3部『血脈の火』迄刊行)この父と子の物語とも言うべき小説の舞台に宮本は幼い頃に疎開したこともある自らの父祖の地、南宇和を選んだ。宮本の父、宮本熊市は南宇和郡一本松町広見に生れた人であった。
ストーリーテリングの巧みさで知られる宮本の作品らしく、この小説も読み始めたら止まらない面白さである。強烈な個性を持った主人公松坂熊吾の生きざまには、虚構と知りつつ思わず引き込まれてしまう。そして、ただ、面白いだけではなく、人の暮らしの哀歓を、いのちの哀しみにまで純化して作品に刻みこむ宮本輝の他の多くの傑作群と同質の深い感動にとらわれる。
戦後間もない頃、主人公の松坂熊吾は、事業をたたんで、病弱な妻と幼い息子を連れて大阪から故郷南宇和に帰る。
――父の生れた田園に立ち
父の血の騒ぎを聴く
茫然と星を仰ぐ――
黙々と田を耕し、稲を植え、田圃の雑草を抜き、藁で草履を編み、行き倒れの遍路を助けて面倒を見、頼ってくる者たちに米や野菜を与えつづけ、56歳の夏日射病で死んだという父を思い、父が死んだ年齢にあと2つと迫った熊吾は「俺は人間として、とうとう父にかなわなかった。俺には父のような穏やかさや温厚さはない。生れた地に根をおろし、田圃で稲を育て、贅沢を求めず、娘の葬式の哀しみのさなかに、「きょうは、いばってはいけない日だ」などという言葉など使えない人間だ」と独語する。
小説の舞台
8月の終りの日曜日、一本松町に行き、この小説の舞台をまわった。一本松のバス停から広見の四辻に出、稲刈りの始まった田圃の中の道を通って宮本家のあったという名路の集落を訪ねた。
道を尋ねるうちに、宮本家の親戚にあたる大西義喜さんにお話を伺う幸運を得た。大西さんは、宮本の「地の星」執筆に際しての、3回にわたる現地取材の案内をされた方である。
平成元年11月に、宮本は城辺町の玉水旅館に滞在して、大西さんの案内で南宇和一帯を取材した。11月17日には広見の名路集落にあった父の生家の跡、日枝神社、法眼寺の周辺を丹念にまわった。
宮本輝は神戸で生れ、ほとんど関西で育った。3歳から5歳の頃までの約2年間を、父熊市が経営していたダンスホールのあった城辺町北裡で過ごしたが、遠い昔の幼い日々の記憶しかなかったであろうし、父の生地一本松に住んだことはなかったから、取材には、大西さんがほとんど同行された。
11月19日、城辺町深浦港を取材した日の夜、大西さんは宮本と秘書を一本松町広見のご自宅に招かれた。父親の昔話などについて話しが弾んだ後、旅館へ帰る時のことである。宮本は空を見上げて、星の美しさにたいへん感動している様子だったという。
「地の星」には、この日の大西家訪問に材をとったと思われる美しい場面がある。主人公の熊吾は、息子の伸仁を連れて広見の名路集落に頼りとする長老の長八じいさんを訪ねた日の夜、息子を肩車して星と風の大地に立つ。
「どうじゃ、このお星さまの数は」と熊吾は大声で伸仁に言った。風の音は、熊吾が<巨大な土俵>とひそかに呼ぶ一本松村広見の、低い山に周りを囲まれた広大な田園で渦を巻き、熊吾の声をたちどころに北へと吹き飛ばすからだった。
空には闇より星の光のほうが多いと思われた。熊吾はただ茫然となって、生まれ故郷の星を見上げた。「星をよう見るんじゃ」……
松尾峠
『地の星』の舞台を巡ったあと、一本松の商店街を抜けて、その昔、幕府から藩行政の視察に派遣された巡見使が通ったという御巡見街道を逆に辿って松尾峠に向かった。宇和島藩御荘組の街道は、土佐から松尾峠、小山の番所を通って広見、上大道、緑、僧都、小岩道を越えて宇和島へいたる道であった。小山の番所跡を過ぎて、少し登った右手の林道に車を置いて、四国のみちの道標にしたがって登った。この道は第39番延光寺と第40番観自在寺をつなぐ遍路道でもあり、道はよく整備されているし、幅も大人4人が楽に通れる広さがあった。林間の日陰を通る部分が多いので、よく晴れた残暑の厳しい日であったが、それほど苦しまずに峠の頂上にたどりつくことが出来た。
土佐側に少し下り、茶屋跡の石垣の前にあるベンチに腰を下ろした。眼下に宿毛湾の入り組んだ海岸線や小島の浮かぶ青い海が見える。土佐からこの峠を越える人にも逆に伊予から土佐に入る人にもこの海の景色はなによりのものであったろう。寛永15年(1638年)にこの峠を越えた大覚寺門跡、空性法親王が詠んだ和歌が伝わっている。
ひたのぼり登りてゆけば
目のうちに
開けて見ゆる宿毛松原
昭和4年、旧宿毛トンネルが開通し、同10年には宿毛から一本松に至る道路が開通した。それまでは、この峠を往来する人が、1日に200人近くもあったというが、今は、遍路の人たちでも、この峠をこえる人は少なくなった。
しばらくの間、土佐の海を眺めた後、約350メートル西、高知県側の尾根にあるという藤原純友の城跡に向かった。
〈参考〉
「一本松町史」・「螢川・泥の河」新潮文庫 版の桶谷秀昭の解説。 引用は「地の星」(新潮文庫)より