4月末、戸島を再訪した。龍集寺でご住職の千葉城圓和尚にお会いし、島の海辺を案内していただいた。
再訪
前日からの晴天が続いた4月30日の朝、土佐一條家の4代、キリシタン大名ドン・パウロとなった一條兼定の墓がある戸島を再訪することにした。前回、お会いすることの出来なかった龍集寺のご住職に電話をかけると、幸運にも今日は、お話が伺えるとのことであった。
吉田を午前10時過ぎに出て、途中、コンビニでおにぎりと水を買い、宇和島港11時35分発戸島行きの高速船「あけぼの」に乗り込んだ。前回は左舷の席に座ったので、今日は右舷に席を取った。連休で帰省する家族連れの乗客が多く禁煙席はほぼ満席だ。
定刻に出港した船は、魚市場を過ぎてスピードを上げると、すぐに九島の横にさしかかる。港に定期船が停泊しているのが見えた。前回の左側の風景もよかったが、右側の窓から見える景色もまた新鮮であった。湾が入り組み海岸線が複雑なので、見えているのが半島なのか島なのか、角度や距離によって判別がつきにくい。白い波を立てて行き違う漁船、岩礁や養殖の筏などを眺めていたら、水ヶ浦に着いた。乗降の人もなくすぐに出港。細木運河の橋の下をくぐり、蒋淵を過ぎ、時間通りに戸島の本浦に着いた。
船を降りると、鯉のぼりが海からの風を受けて泳いでいた。龍集寺に向かう防波堤沿いの道には、一面にテングサが干されている。城山(じょうやま)トンネルの手前の戸島庄屋田中家の碑のところまで行き、建碑された田中健一司教の名前を見る。3月の前稿について、ご母堂が戸島田中家のご出身である高月一氏から多くのご教示をいただいた。戸島庄屋14代、田中哲太郎氏のご長男である田中健一司教の『主とともに74年』という「回顧録」を古書肆でもとめ、「祖先」という章に書かれた戸島庄屋田中家の歴史を読んだ。戸島庄屋田中家は、龍集寺の過去帳によると正保(しょうほう)元年(1644年)に戸島の庄屋職を宇和島伊達藩主より命じられ、八幡浜の向灘から移住したという。「戸島は、一粒の米もとれず、麦と芋と鰯だけの貧しい島であった。城下宇和島までは四丁櫓の船で通ったようである」と田中健一司教は書かれている。
ひじきが碑を取り囲むように干されている空地から少し戻り、龍集寺につきあたる細い路地に入った。ゆるやかに登る路地の奥の石段を上がり、右手の玄関で声をかけると、すぐにご住職が出て来られた。
龍集寺
ご住職の千葉城圓氏は、双海町上灘のご出身で、愛媛県内で教職に就いておられた。伊予市の小学校の校長先生を定年退職された後、僧侶になられ、空き寺になっていた龍集寺に来られて10年が経つという。島の人々が今もキリスト教に帰依した兼定を「宮様」「一條様」と親しみを込めて呼び、毎朝、墓にお参りをして、花を欠かさないことに感動されたそうだ。寺を訪ねる郷土史家や、土佐の中村の人々、一條家ゆかりの人々などと接するうちにご自身も兼定への関心を深められた。ご住職は島で俳句を始められ、「敗残の将祀る島深みどり」という句を詠まれている。
2週間ほど前に、ご住職からの葉書にふれた先月の私の記事を読まれた城川町の西岡圭造先生からお葉書をいただいた。西岡先生は、ご友人と戸島を探訪されたことがあり、さらにご住職の千葉城圓師とは同郷で、同僚でもあったこと、ご住職の奥様の妹さんが、城川の西岡先生のお家の近くに住んでおられることを書かれ、土佐一條家についてよく知るためには、中村の小森山にある一條神社や一條家の史料を多く展示している四万十市立郷土資料館を尋ねるのがよいとのご教示をいただいた。西岡先生には何年か前に、高知県梼原町と愛媛県西予市城川町との県境にある九十九曲峠を毎日新聞佐竹通男編集委員の「古道散歩」のグループの人たちと一緒にご案内していただいてからのご縁である。
地名
ご住職に、先月踏破が果たせなかった兼定ゆかりの地名について伺った。「都」であるとか「鳥の声」だとかである。ご住職は、戸島出身の瀬川功氏編誌による『戸島と一条兼定』を示された。一條兼定と戸島について、高知の関係地についての言及まである労作である。瀬川氏が概意を抜粋された「戸島村誌」(大正2年6月20日)の兼定に関わる地名についての伝承を、摘録させていただく。
まず、都(みやこ)について。長宗我部元親に追われた兼定が、初めて戸島の浜辺にたどりつき「ああ、ここがわが都である」と安堵の言葉をもらした。今でもこの場所を都と呼んでいる。
次が「黄金畑(こがねばたけ)」。兼定一行は浜辺から山道伝いに移動した。山頂で酒宴を開き、黄金の盃で酒を酌み交わした。ここを黄金畑という。
次が「鳥の声」。その夜も更けて本浦集落に進むうちに東の空が白んできた。夜明けを告げる鶏鳴を聞き、兼定が「あれは鶏の声か」と尋ねたという。この場所を「鳥の声」と名付け、今は「鳥(とり)の越(こえ)」と書く。
やがて、すっかり夜が明けて、山すそに開けた海辺におりて兼定一行が休息したところが大内浦。島ではおじうら、又はおじゅううらと読む。これは京都の都大路の裏、すなわち大路裏から取った名と言う。また小内浦をこじゅうら、またはこじゅううらと読むのも小路裏からという。
大内浦に「杓井戸(しゃくいど)」という井戸がある。これは兼定みずから杓を持って水を飲んだと言われる井戸である。
本浦漁港右手の城ノ山(じょうのやま)は当時の城跡、あるいは規模の小さい砦か、烽火台があった場所と言われる。この場所は以前は女人禁制だった。昭和25年に中国渡来の古銭数万枚が出土したという。
龍集寺の西に、もともと寺院があった場所と思われ、今は港を見下ろす畑になっている「地蔵堂(じろど)」という所がある。昭和30年頃までは数戸の住家があったという。ここに、兼定が寵愛した鍛冶屋の娘がいて、「入らずの間」や「開かずの箱」が伝承されていたというがともに現存しない。
龍集寺は、兼定が滞陣した「勧香堂(かんこうどう)」があった場所というが明確ではない。おそらく兼定が暮らした館は今の境内の場所にあったのではないかというのがご住職の推測である。
本浦集落の海岸から山の手に通じる路地は東小路、中小路、西村小路、宮下小路と今も京風の地名が生きている。
都(みやこ)へ
本堂で「土佐中村一條家五代像」の掛軸を見せていただいた後、兼定の墓と田中家の墓所に参り、「地蔵堂」に案内していただいた。
境内に戻り、兼定が最初に上陸した浜辺である「都」への道をご住職に伺った。今の季節はもう、草が茂った尾根を通る道はわかりにくいから船で行った方がよいそうだ。すぐに、船を出してくれる人を探していただいた。しかし、ひじき漁の最盛期で誰もつかまらない。あきらめかけていたら、ご住職が「せっかくだから、ぶぶしの瀬戸に行ってみるか」と言われた。
ひじきやテングサが広げられた海辺の道路を大内浦、小内浦と2つの集落を過ぎて、島の南側の道路が尽きる間脇権現の下まで連れていって下さった。ご住職と一緒に堤防の先から磯に降りた。三浦半島の矢ヶ浜や大小島が見え、潮が引いた磯のすぐ前に小小島というほんとうに小さな島が見える。目の前に見える潮の流れの速い海が「ぶぶしの瀬戸」である。
(表紙ギャルリーを参照)ご住職が、不意に「潮がひいとるから磯伝いに行けば都が見えるかもしれん。行ってみるか」と言われる。磯伝いに、岩の上を歩いて、小さな岬を2つばかり越えると小さな浜が見えた。やっと「都」に着いたかと思ったら、ご住職が「ここは違う。まだ潮が満ちるまでには時間があるから行ってみるか」というお言葉に甘えて、その浜を過ぎ、さらに小さな岬の岩場を1つ越えた。そこが「都」の浜であった。人影のない、静かでひっそりとした入り江である。段々畑があったときにつくられた堤防があるが畑の方はもう姿がない。平家の落人が隠れたと言う小さな海蝕洞が浜の中央に見えた。兼定は、この浜から山に入り尾根伝いに戸島小学校のある大内浦の辺りに出たのであろうか。
春先には、龍集寺の裏山に続く、島の西国札所巡りの道の雑草が刈り払われると言う。高月さんに教わったチョウジガマズミの開花期も逃したことであるし、次は、尾根からの展望を楽しみながら兼定ゆかりの地名踏破を果たしたい。