伊予市上唐川本谷にびわの産地を訪ねた。ひっそりした里山の集落をめぐり、歴史に名高い天然トイシ、「伊予砥(いよど)」発掘の跡を見た。
びわの葉茶
6月下旬、梅雨の晴れ間の日差しが強い。気温は30度を超えている。国道56号線の伊予市大平から砥部町に抜ける県道に入った。
田圃の向うの山すそを眺めると、すぐにオレンジ色の袋がかけられたびわの木が目に入る。伊予市の大平や唐川ではほとんどの農家がびわを栽培している。出荷の最盛期が6月25日前後ということを農協の人に聞いて出かけてきたのだが、場所も時期も確認はしていない。
少し走ると、バス停があり、煙草屋の軒先に唐川特産びわ葉茶という看板があった。店の入口のガラス戸に「裏に居ます」という貼り紙がある。裏にまわって声をかけた。上の畑の方から「はあい」という返事が聞え、店のおばさんが下りてきてくれた。1パック70グラム、500円。100%無農薬葉使用というびわ茶を買う。おばさんは「はじめてかね」と確かめてから、親切に飲み方を教えてくれた。沸騰した薬缶のお湯に放り込んで4、5分煎じ、普通のお茶のように飲む。温かい時も、さめてもよい。びわの葉には香りや風味はほとんどないが自然で品のよい甘味があるという。少しも知らなかったが、昔から、「枇杷葉湯」は夏の健康飲料として愛飲されてきたのだそうだ。たとえば、京都の烏丸通(からすまどおり)の町角では、夏ともなると「烏丸本家枇杷葉湯、…ご婦人方には産前産後、血の道、血の狂い一切によし、……一切の病たちまちに消え……」などという口上の売り声が聞えてきたそうだし、南方熊楠(みなみかたくまぐす)の故郷和歌山でも枇杷葉湯が暑気払いによいと称揚され、慈善家がこぞって戸口の前に、枇杷葉湯を沸かした古風な茶釜を置き、道行く人に振る舞ったものだという。
上唐川本谷
上唐川本谷で、そろそろびわの出荷が始まっているという。びわ茶のおばさんに教わった通り、廃校になった小学校の先を右に入り、川にそって細い道を進む。山裾に建つ屋敷の周囲や田畑の畦、川端にもびわの木が植えられている。道に面した倉庫で3人の女性が「唐川びわ」の出荷をしているのが目に入った。 車を止め、びわ畑の場所をたずねてみた。ずっと、この道を山に上がって行けば、一面びわ畑になったところが何ヶ所もあるらしい。
最近は若い人が少なくなって人手がないこと、びわは、生産者の手のかけ方や畑の日当たり、土壌の違いが率直に味に出る果物だということなど、しばらく話をうかがった。
「ひとつ食べてご覧なさいや」と親切に言ってもらったので遠慮なくいただく。
「どう、うちのは果肉がなめらかでしょう」 と言われるがほんとうにおいしい。口当たりがなめらかで柔らかい。しかし、熟しすぎているわけではない。さわやかな甘さがあり、果汁も多い。
昨夜、少しびわのことを調べた。といっても高橋治の『旬の菜滋記』(朝日文庫)のびわのところを開いたくらいだ。「枇杷買ひて夜の深さに枇杷匂う」という中村汀女の句、さらに橋本多佳子の「燦燦とをとめ樹上に枇杷すゝる」、星野立子の「枇杷を食むぼろりぼろりと種子2つ」などの句が見えた。高橋は「びわは氏素性が明らかなものである。長崎県茂木では改良に功のあった人がだれで、その種を持ち帰り房州びわに育てた人がだれと書物に明記される珍しい果物だ。」と書いていた。
唐川びわについても事情は同じようだ。唐川のびわが商品として売られるようになったのは、今から約170年くらい前のこと。ここ上唐川本谷の中村清蔵という人が、町に売り出して評判になったのが最初であったとされる。さらに1895年(明治28年)ころ、唐川本谷の影浦定次郎という人が和歌山県に行った際、びわは接ぎ木によって改良されることを知り、味のよいもの大果のものをつぎかえることを始めた。1903年(明治36年)には吉沢兼太郎という人が田中びわ、茂木びわの苗木を導入した結果、一段と品質が高まり、「唐川びわ」の名声が県内外の市場で高まった、云々。(伊予市誌による)
本谷の集落のはずれの橋を渡り急坂を上った。オレンジ色の袋をかけたびわの木におおわれた畑が目の前に広がる。びわ畑の下には本谷の家々の屋根が小さく見える。ふと、上がってきた道を目で追っていたら、数メートル先の道の上になにやら長い紐のようなものがある。その紐がゆっくりと動き始めた。大きなアオダイショウだった。
数日来の雨が上がって日向ぼっこに出てきたのだろうか。
伊予砥(いよど)
私は山を下り、砥石の山に向かうことにした。分岐から砥部の方へ少し上がり、工事中の道路の方へ左に折れる。その道路を横切って少し上がると、右側の崖の下に「豊川堤翁頌徳碑」という古びた碑がある。砥石の山はその少し先にあるはずだ。
私は、3年前に、伊予砥の山のことを故村松貞次郎東大教授の『道具と手仕事』(岩波書店刊1997年)によって初めて知った。教授は、平安時代初期に施行された『延喜式』(律令国家の律(刑法)と令(行政法)の施行細目)に名前が見え、地名を冠したトイシとしては最古の「歴史的な名トイシ」の山を見学するために、1974年3月、わざわざ愛媛までやってきた。村松教授は書いている。
「かつて封建の領国制の時代、人もモノもその往来はきびしく規制されていた。先人たちは身の回りの物産をていねいに吟味して適材適所に使っていた。その観察は驚くほど詳細で鋭い。こうした人とモノの濃密な関わり合いこそが文化というものだ、と私は固く信じている。それが急速に埋没している。縄文や弥生の発掘も結構だが、つい最近に埋没した文化の発掘もまた緊要だろう。廃絶寸前の天然トイシの文化もその1つである」。
村松教授の本に触発され、すぐに現地に出かけた。そのとき、たまたま、道を訊いたのが砥石の採掘作業をしたことのある人で、砥石の層理が見える場所や小さなトロッコの通る坑道の入口にある作業小屋に案内してくれた。その時にはすでに山は廃坑になっていて、牛が放牧されていた。教授が訪れてから10数年の年月が流れていたのだから無理はないというべきかもしれない。天然の砥石は、人造砥や使い捨ての刃物に取ってかわられ、作業をする人が珪肺病になり、働き手がなくなった結果、伊予の天然トイシ文化はすでに遺蹟になっていたのであった。牛糞の匂いが漂い、牧草が腐食して堆肥になったかたまりが繁った雑草の間に隠れていて足をとられた。私は少し離れたところから砥石山の写真を何枚か撮って山を下った。
3年前と同じに、豊川翁の碑の先に車を止めて、作業小屋に上がった。小屋は当時からさらに潰えた状態で、内部をのぞくともう坑道の姿を見つけるのも難しい。空の農薬袋やわら屑が雑然と積まれ、土間からは雑草が生え出している。砥石を切るのに使われた大きな製材用の丸鋸の錆びた刃だけがかろうじて残っていた。小屋から出て正面の山を見上げるとすぐ正面の木が繁った崖に伊予砥石の層理が見えた。牛の姿は見えず、何本かの桜の木が植えられていた。
参考●『伊予市誌』、『旬の菜滋記』高橋治(朝日新聞社)、『道具と手仕事』・『大工道具の歴史』村松貞次郎(岩波書店)『びわの葉療法のすべて』神谷富雄著(池田書店)