本誌「あけぼの」に「東京の子規」を連載中の井上明久さんの著作、表紙に「ギャルリー美しい街」を連載中の画家藪野健氏の絵と絵地図による『漱石2時間ウォーキング』(中央公論新社刊)が上梓された。同書を片手に松山市の漱石ゆかりの地をほんの少しだけ歩いてみた。
子規堂
残暑が去り、気持ちよく晴れた秋の日である。松山市駅前から歩き始めた。『漱石2時間ウォーキング』というが、私は適当に省略と寄り道をすることにしたい。初めから、高島屋屋上の観覧車を割愛。もっとも、出来たばかりの頃に1度のったことがある。感想を言うと、下から見上げたときほどの高度感が思いの他ない。だから逆に高所に弱い人でも安心して楽しめると思う。
踏切を渡って正宗寺へ。旅立つ少年子規像がある子規堂に入って、上京前の子規の勉強部屋を見る。ちょうど、黄色い帽子を被った小学生たちや観光バスの人たちが狭い子規堂の中にひしめいていた。外に出ると、本堂の右上の空にデパートの観覧車が高く聳えている。内藤鳴雪翁の髭塚なども見た後に、中の川通りに戻って子規の父の墓があった法龍寺入口を通る。「栗の穂のここを叩くなこの墓を」の句碑と正岡家墓址という碑が門の脇にある。子規は明治28年3月にこの墓に参って日清戦争に従軍した。帰国の船中で喀血し、須磨で療養した後秋に松山に帰って畑中の墓地に変じた法龍寺に墓参してこの哀切な句を詠んだ。法龍寺は保育園になっていて隣はパン屋さんである。
法龍寺を過ぎ、中の川通りにそって300メートルほど東に行くと、子規が16歳で上京した後に母と妹律が移り住んだ家の跡がある。といっても、本当に跡であって何も残ってはいない。ただ、墓標のような案内柱があるだけである。ここにあった家を明治25年、学生時代の漱石が訪れ、子規の母が作った松山鮓(五目寿司)を子規と少年であった虚子と一緒に食べたのである。虚子が書き残した文章にその時の様子が生き生きと描かれている。(『回想 子規・漱石』高浜虚子著 岩波文庫)そこから、ほんの100メートルほど中の川通りをさらに東に行くと、少年時代の子規が上京するまでを暮らした家の跡がある。こちらにも当時の面影は一切ないが、案内柱の他に立派な歌碑が立っている。子規の時代には、今道路の真ん中を流れる小さな水路には小さな石橋がかかり、下級武士の住んだ小さな住宅が櫛比していたという。子規が上京した後、すぐ近くの少し小振りな家に母と妹は引っ越したのだった。
中の川通りから銀天街に向かって、丸三書店のある路地に入る。右手にあるコーヒーシルヴァンで小休止。銀天街を横切って、千舟町の通りを越え、河東碧梧桐の生家跡へ行く。少年子規は碧梧桐の父河東靜渓に漢学を習いにここに通った。やはり墓標のような案内柱があるばかりである。『子規を語る』(河東碧梧桐著岩波文庫)の碧梧桐の回想にある300坪の広さがあったという侍屋敷の様子を伝えるものは何一つ残っていない。宏壮な屋敷も周囲が3、40間の水の湧く池があったという風情ある庭の面影も想像するのさえ難しい。
愛松亭
『坊っちゃん』の山城屋のモデルとおぼしき城戸屋を経て、天ぷら屋になっている上野家跡の愚陀仏庵跡へ。ここも墓標のみ。松山中学跡へは行かず、そのまま萬翠荘へ向かう。萬翠荘の敷地は元家老屋敷のあったところで、漱石の松山での最初の下宿「愛松亭」があったところだ。漱石がいた当時は、木子七郎設計の洋館はもちろん建ってなかった。虚子が明治28年に漱石をここに訪ねた思い出を前掲書に記している。こんどは少し引用してみる。
「氏の寓居というのは一番町の裁判所の裏手になって居る。城山の麓の少し高みの所であった。その頃そこは或る古道具屋が住まっていて、その座敷を間借りしてまだ妻帯もしない書生上がりの下宿生活をして居ったのであった。そこはもと菅という家老の屋敷であって、その家老時代の建物は取り除けられてしまって小さい1棟の2階建ての広い敷地の中にぽつんと立っているばかりであったが、その広い敷地の中には蓮の生えている池もあれば、城山の緑につづいている松の林もあった」。虚子は木の門をくぐり不規則な石段を上りつめて、その古道具屋の下宿「愛松亭」を訪ねた。漱石は蓮池の手前の空き地にある「あずち」で弓を射ていた。漱石は白地の単衣の衣物を片肌脱いでその下には薄いシャツを着ていたという。虚子は後に自分の兄や藤野古白の老父などがこの屋敷に住むことになったことなどについても筆を費やしている。
洋館の門番小屋を通って松の林の間を平たいS字に曲がった坂道をあがると、突き当たりにその愛松亭の跡がある。漱石の書簡を刻んだ碑などもある。松山の人気を悪し様にののしった文言はうまく除けてあるのが微笑ましい。そこから、すぐ右に上がるとフランス式の洋館萬翠荘が建っている。その洋館の裏手に廻って手すりのある石段を上ると林の中に、先ほどその跡を通って来た漱石の松山での2度目の下宿「愚陀仏庵」が復元されている。電車通りの音が遠く聞こえる愚陀仏庵の濡れ縁に腰を下ろしてしばらく休むことにする。
松山人
墓標を訪ね歩いて、いったい何が面白いのかと聞かれそうである。それが無類に面白いのだ。松山の風景は全くといって良いほど変わった。戦後に生まれ松山で暮らした私でさえ、街の外観の変化には驚くことがある。しかし、勝手なことを言わせてもらうと、松山ほど変化を感じさせない街も珍しい。松山言葉にしても、人々の雰囲気にしても、松山を感じさせるものが強く生き続けている。のんびりとして、ときにしたたか、かと思うと無類に温かい。見知らぬ人から思いもかけぬ親切なもてなしを受けることがある。親藩で、明治維新に乗り遅れたせいか、権威に対しては懐疑的で、引いたところもある、かと思うと松山中華思想に出逢うこともある。漱石も時に息苦しく思ったように、一筋縄ではいかないが、全体として、きわめて人間的で、平たく、なつかしく、温かい雰囲気が満ちている。全国を漂泊した山頭火も伊予ほど人気の温かいところはなかったと言ったそうだ。松根東洋城は宇和島の生まれ、松山中学で漱石に学び、熊本の五高まで漱石を追っかけた。漱石俳句の弟子を自任した東洋城も終生、松山人を自称した。そういう人たちの松山へのこだわりに、松山で育ち愛憎半ばする私でさえ、さもありなんと思う時がある。
さらに、子規の故郷であるにしても、俳句に対する傾倒はあまりに広くかつ深い。
中村草田男が「松山郵便局」(『魚食ふ、飯食ふ』みすず書房所収)というエッセイに書いている。子規の何十年祭かで帰省した草田男は空襲で根こそぎにされ、「土塀や荒壁で区切られた奥深い士族屋敷も、処々にコンモリと聳えていた目じるしの古樹類も一切姿を消してしまった」松山の町を喪失感にとらわれながら歩いていた。夜になって、わずかに残る旧松山の面影を止める横町をあてもなく歩いていると、1軒の松山風の家のれんじ窓の中から虚子の訃報を伝えるラジオニュースが聞こえてきた。草田男は3番町の松山郵便局の本局に行って弔電を打つ。すると、電文に眼をやった若い局員が「ああ、お亡なりたようですな。戻っといでたんですか」と草田男に2つの主語を省いて言う。そして、その後に「私もちいと俳句やるんですのよ」と付け加えたそうだ。松山は、虚子も草田男も敢えて名を挙げなくとも、通る世界なのだ。戦災でアイデンテイテイを根こそぎにされたと感じた草田男はここで「子規以来、松山人を中心として、明治期の新俳句は発祥したし、松山人を中心として受け継がれてきた。『私はその松山へ現在帰ってきているのだった』という自覚を確かなものにしたのである。
松山の人は平然と変わらぬ気風を保ちながら、毎朝温泉につかって、瀬戸内の美味しい地魚を食べ、俳句をつくって日を送る。仕事をするのは当然だからお首にも出さない。
時代の移ろいと生活で変わった街角に屈せず、墓標のような案内柱を次々と建てる。松山を歩くと、時世時節の移ろいに一顧も与えない、自分たちの世界は不変なのだという松山人のメッセージが、小さな声で、どこからともなく聞こえてくる。だから楽しいのである。
小1時間も腰掛けていたら、だんだん当時の失われた風景が甦ってくるような気分になった。「漱石2時間ウォーキング」に復帰し、萬翠荘の坂を下り、再び電車通りに出る。、市内電車に乗って、次は道後温泉だ。