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第83回 富澤赤黄男の故郷
 
西宇和郡保内町川之石 
 俳人富澤赤黄男の生地、保内町川之石を訪ねた。美しい近代建築や煉瓦塀が残る路地を歩き、山腹にある公園や小学校の校庭にある句碑を見た。

 魚の骨
 私は富沢赤黄男の俳句について、良く知られた「蝶墜ちて大音響の結氷期」であるとか「爛々と虎の眼に降る落葉」などの代表句を見るばかりで、ほとんど知ることがなかった。
 坪内稔典氏のエッセイなどで赤黄男に故郷の風景を詠んだ句があることを読んだ記憶がうっすらとある程度であった。詰まる所、赤黄男の句は、思弁的で、一筋縄ではいかない、取っ付きの悪いものという先入主があり、正直なところ、やや敬遠気味でもあった。
 先日、たまたま松山の書店で新装復刻された『富沢赤黄男全句集』(沖積社刊)を見かけた。頁を開き、最初の『魚の骨抄』の句を逐うと山頭火を思わせるような句があるのが目についた。たとえば「夕焼」と題した句。
「さぶい夕焼である金銭借りにゆく」
「金銭貸してくれない三日月をみてもどる」

赤黄男の予期せぬ一面を見た思いがして、なんとなく赤黄男が身近に感じられ、思い切って、その句集をもとめた。
 家に帰って、ゆっくりと読み進むと、初期の赤黄男には、不如意な生活を率直に表出した句や故郷の風景を読み込んだ抒情的な句が意外に多いのであった。
「妻よ歔いて熱き味噌汁をこぼすなよ」
「陽だまりにをれば内閣倒れけり」
「このをとこ夏雲たてば憤怒る」
「貧乏にまけさうになる水を飲む」

などという一連の「魚の骨抄」所収の初期の句は、後年赤黄男自らが真の処女句集として『天の狼』を編んだときには、惜しげもなく削り取られたというが、それでも、これらの句にもまた赤黄男の詩と真実がこめられていることに疑いはないであろうと思われた。
 帰郷
 富沢赤黄男は明治35年(1902年)7月14日に西宇和郡保内町川之石琴平で生まれた。父は医師で家は代々宇和島藩の藩医を務めた家柄だった。しかし、赤黄男は医業を継がず、宇和島中学から早稲田大学に進み卒業後はサラリーマンになった。一時軍隊に入り工兵隊の少尉で除隊。昭和4年に会社を辞め、運転免許を取得して運転手を目指したこともあったというが、両親の反対にあって実現せず、昭和5年5月に川之石に帰郷した。その年は、前年の世界大恐慌にあわせたかのように、ライオン宰相と渾名のついた浜口雄幸を首班とする内閣が実施した金解禁によって、国内の経済不況が一気に深刻化した年であったが、幸いにも赤黄男は川之石の第29銀行に勤めることができた。その頃、赤黄男は地元の人々がつくった美名瀬吟社という俳句会に入り、本格的に俳句を始めたのであった。赤黄男は学生時代に郷土の先輩松根東洋城を訪ね、東洋城が俳句の師であると語ったこともあったというが、その学生時代にはそれほど俳句に熱中したわけではなかった。30歳に近づきつつあった赤黄男は、本名の正三をもじった蕉左右を俳号とし、結社の人々と「ホトトギス」に投句しながら俳句への関心を深めていったという。
 昭和7年(1932年)の赤黄男の句に「波の上に佐田の岬の霞みけり」というのがある。坪内稔典氏が「いかにも手習いの句という感じ。赤黄男でもこんな平凡な句から作り始めていることがなんだか嬉しい。自分とあまり変わらないという気がするから」と書いている。故郷に帰り生活にようやく落ち着きを得た赤黄男の気分を反映してもいたであろう。
 ところが、その後、父が事業に失敗して家産を失い、赤黄男も銀行を退職に追い込まれるという事態が発生する。以後、赤黄男は職を転々とすることとなり、散々の苦心の後、万策尽きて、昭和11年に妻の実家のあった内子町を経て、再び故郷を離れ、大阪に移ることを余儀なくされるのである。
 赤黄男が続けて、故郷の川之石で暮らすことができたのは、生まれてから宇和島中学に通うために宇和島の親戚に下宿するまでの13年間。そして、会社を辞めて帰郷し、再び大阪に出るまでの約5年間ほどになる。
 「純粋孤独」の俳句へ
 帰郷して赤黄男が俳句を始めた昭和5年は、新興俳句運動の胎動期でもあった。赤黄男は、地元の俳句会に参加しながら、山本梅史の『泉』にも投句を始めていた。『泉』は、新興俳句の若い才能を積極的に紹介しようとしていた句誌であった。赤黄男は、父の事業失敗によって、生活が暗転する中で、この『泉』への投句を通じて、俳句的趣向への安住や素朴な写実主義に陥ることなく、強い美意識に支えられた絵画的要素を持った赤黄男らしい句を少しずつ詠み始めたという。
 赤黄男に親炙した俳人高柳重信は赤黄男の生涯の友水谷砕壺が昭和10年に創刊した『旗艦』の7月号に掲載された
「恋人は土竜のやうに濡れている」
「南国のこの早熟の青貝よ」

の2句に寄せてこう書いている。
「この頃の赤黄男は、事業に失敗し倒産同様のまま中風で倒れた父や、頼りなげに纏わりつく妻子のために、何とか生計を立てようと悪戦苦闘を続けていたが、その窒息しそうな日々が、いっそう俳句形式に対する執念を燃えあがらせたのであろう。家という重い鎖に心ならずも縛られた富澤赤黄男は、碧く澄み透った豊後水道と、そこに細長く突き出した岬の一角を、みずからの暗鬱な精神の領土になぞらえながら、高浜虚子の主張する客観写生の俳句の大半が、実は貧弱なる主観の所産に過ぎないことを繰り返し肝に銘じていたのである」
(高柳重信『赤黄男ノート』)
 赤黄男は、逆境に励まされるかのごとく、みずみずしい抒情を湛えた新しい句を詠み続けたのであった。例えば「蟹の歌」。
「雲聳ちて蟹は甲羅の干きゆく」
「ゆく船へ蟹はかひなき手をあぐる」

 赤黄男は新興俳句運動が、いわば隆盛の極にあったこの時期にも、決して声高に、人間性の回復や生活感情の尊重、批判精神の高揚などというメッセージを語ることはなかった。又、数年の後に軍国主義が世を覆い、新興俳句が厳しい弾圧にさらされ、多くの俳人たちが沈黙を強いられたときにも、すべての句作品は作品自体の持つリアリティのみによって完結しなければならないという禁欲的で、孤絶した姿勢を守り、句作を止めることはなかったという。
 故郷を離れて大阪に出た後も赤黄男の生活は決して平坦なものではなかったようだ。しかし、運命に抗するかのごとく、ひたすら俳句形式の可能性を求めて、「新興俳句」からさらに「近代の短詩」への道を突き進んだ赤黄男の、誇り高い生き方こそは、真に畏怖すべきものと思う。
 赤黄男の故郷を歩く
 昭和11年、故郷を離れる決意を記した赤黄男の句日記に、
 「明日を如何にせんや」既に先ずこの一事を考慮せざるべからざる吾等の生活を持てり。無一文の家族を率いて、無謀この上もなき挙に出でんとする。世の人々よ嘲へかし、常識を離れしこの無謀さを。……
悲しきは、ただ南国を離れゆくこころ。真白き藤の花をつれなくも忘じ果てるにはあらず。桃色の貝の一片を忘じ果てしにあらず。ああこの外に途なき吾が身のあはれさを、亦よく知られかし。ああ、この身を切らるる想ひ。」
とある。
 赤黄男が心から愛惜した南国の故郷保内町川之石は今も当時の記憶の断片をその町並みに数多く伝えている。私は、川之石橋から、赤黄男が勤めたという銀行の跡を通り、愛媛蚕種の周囲の路地をめぐり、美名瀬橋に出た。河口の方を見ると、潮干狩りをする人々が群がっている。しばらく橋の上から、煉瓦造りの紡績工場の跡などを眺め、人通りのほとんど絶えた昼下がりの商店街に戻った。赤黄男の生家跡のあるカワイシ醤油の方に向かって歩くと、すぐに、空き地の脇に新しい御影石の碑が見つかった。
 丁度、のんびりとした顔つきのシベリアン・ハスキーを散歩させているおばあさんが歩いて来られたので、昔の赤黄男の家についてご存知かと伺ってみた。「もう昔のことですから、はっきりしたことはわかりませんのよ」と言いながら、親切に琴平公園の句碑とレリーフの場所を教えてくださった。とても良い見晴らしだという。私は赤黄男の故郷を一望するためにまた歩き始めた。
「蜜柑酸ゆければふるさとの酸ゆさかな」赤黄男

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1996-2012


富澤赤黄男の句碑とレリーフがある琴平公園からの保内町川之石の町並み
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富澤赤黄男。東京吉祥寺時代。
赤黄男の墓は東京の小平霊園にある。

川之石の路地に残る煉瓦塀

西宇和郡保内町川之石湾 潮干狩りをする人々

愛媛蚕種近くの路地、青石の石垣が美しい。

琴平公園の富澤赤黄男句碑とレリーフ。

川之石小学校の赤黄男句碑。故郷で最初に建てられた句碑。「爛々虎の眼に降る落葉」

旧白石和太郎邸洋館

富澤赤黄男生誕地の碑