第75回 上須戒紀行
二宮敬作住居跡をたずねる
金山出石寺の東麓にある山間の集落、大洲市上須戒をたずねた。上須戒にはシーボルトの弟子でその娘イネを養育した幕末の理学者・蘭方医の二宮敬作がシーボルト事件の後に帰郷して初めて医師を開業した家の跡がある。
シーボルト事件
文政11年(1828)8月、日本での5年の任期を終えた長崎オランダ商館のドイツ人医師シーボルトに帰国の日が迫っていた。ところが、彼を乗せて遅くとも9月20日には長崎を出帆する予定であったオランダ船コルネリス・ホウトマン号が長崎を直撃した台風のために、港内の稲佐海岸に打ち揚げられるという不慮の事態が起きる。ホウトマン号の修理のために、シーボルトの帰国が延びる内に、積荷の中に日本地図などいくつかの禁制品があることが露顕した。国禁の日本地図の提供者であった幕府の天文方高橋景保ら多くの関係者が厳しい取り調べを受けて処罰され、シーボルトは翌、文政12年の暮れに国外追放になった。このシーボルト事件の発端については謎が多く、諸説があるが、いずれにせよ、二宮敬作は約5ヶ月の間投獄された後、文政13年3月に「江戸構、長崎払」という処分を受けた。江戸への立ち入りを禁止し、長崎を追放するというシーボルトの門弟の中では、いちばん重い罰であった。敬作がシーボルトの依頼を受けて富士山の高さを実測したためであったと言われている。
事件の後、失意の敬作は文政13年6月に西宇和郡保内町磯崎に帰郷した。そして、その年の12月、文政から天保に改元された後に、親戚関係にある上須戒の西家の娘イワと結婚する。西家は豊かな農家で、イワは、文政元年に他界したイワの父茂右衛門が、生前に敬作の父と取り決めた許嫁であった。西家では、イワの兄弟がみな早世し、子供はイワ1人になっていたので、敬作がイワと結ばれた頃には、敬作の父である六弥が西家の家産を後見していたという。敬作は妻の実家とはいえ、何の気兼ねもない上須戒の西家で医院を開き、新婚生活を始めたのであった。
上須戒へ
敬作が新婚時代に住んだ家の1部がまだ現存していると聞いて上須戒に出かけてきたのである。8月の終わりの暑さがぶり返した日であった。大洲城の三の丸を過ぎ、町中を抜けて最初の信号を右に曲がった。まっすぐ正面に見えるどっしりした山に向かって車を走らせる。上須戒という案内板を見て、予讃線の踏切を越えると、S字のカーブが繰り返す登り坂が続き、道はどんどん山に入っていく。ポンコツの域に達した車が苦しそうに喘ぎ始めた頃、道がつづら折りになって、止めを刺すような急坂になった。多少遠慮気味にアクセルを踏みながらしばらく登っていたら、ようやく下から小さく見えた鉄塔が間近に見えてきた。少し先で道が平坦になり、切り通しを抜けたので、やっと下りだなと思ったら、またゆるい登りが始まった。かなり登ったはずなのにと、道に不安を感じ始めた時、右に大きく道がカーブして数軒の農家が集まった集落に出た。左手に金山出石寺の山が見え、そこから、道が下りになった。5分ほど下ると上須戒川にかかる小さな橋を渡り、旧出石街道につきあたった。左に曲がれば金山出石寺。右に行けば上須戒の中心部を経て八多喜に通じる旧街道である。
敬作の住んだ家
二宮敬作新婚の家は出石街道を右に曲がってすぐのところにあった。白石商店という雑貨屋と護国寺の広い庭を囲む塀の間の路地を、左の山手に20メートルほど上がったところだ。護国寺の壁と家の跡の前の畑の中に「二宮敬作住居跡」の案内板が立っているから迷うことはない。ちょうど店先に立っておられた白石さんに敬作の住んだ家に案内していただいた。当初は1部に物置のような2階があったそうだが、ずいぶん昔に改築して2階部分を取り除いてあるので、今は平屋である。建具や屋根廻り、外壁には新しい造作がほどこしてあるが、天井板や柱は昔のままだという。家の前に立って外を眺めた。すぐ下に出石街道が通り、上須戒川のまわりに稲が実った田圃が広がっているのが見える。敬作は、宇和島藩主に卯之町での開業を命じられるまでの約2年半、この家で医院を開業し薬草を育て、上須戒の村の人たちや、出石寺への参詣に往来する人たちを診療したのであった。
敬作が後に、30歳から52歳までの22年間を町医者として暮らした卯之町の家も四国遍路の道筋にあった。卯之町の家は他家の新しい家になっていて、高野長英を匿ったという離れの小さな2階屋の2階のみが切り取られ、坪庭のような場所にポツンと平屋の形で保存されている。
上須戒の家も卯之町の離れも、当時の建物の様子を伝える断片がいずれもつつましい佇まいであることに、なんとなく敬作の人柄を見てしまう。自らを語ることのほとんどなかった二宮敬作について、上須戒でも卯之町でも、弱者に対する温かい治療ぶりが口碑として残り、今も土地の人たちがそれを語り伝えていることが自然なことに思えてくるのである。
敬作は1人の医師として、いずれの土地でも誰に対しても、わけへだてのない誠実な姿勢でつくしたということであろう。敬作の風貌について、敬作の甥三瀬周三の妻であったシーボルトの孫娘タカは「敬作の顔は丸顔で、眼は賢い優しい目でした。鼻は高い方ではなかった。口は普通で少し位は大きかった。…世話好きの方で、紙屑でも何の屑でもためるようなひとでした」と語った。長崎では、敬作が亡くなったときの弔問客の列の長さが土地の古老たちの語りぐさになっていたと言う。
敬作住居跡の隣の立派な塀で囲まれた庭は護国寺である。護国寺は明治の初めに当地の庄屋向居家の邸を寺院に改築したもので、今も金山出石寺の隠居所になっている。戦前は、山頂の金山出石寺の僧坊で使う、米、味噌、醤油などの食料や生活物資はこの護国寺から牛の背に乗せて上げていた。荷物を積んで牛のお尻をポンと叩くと、牛は勝手に山道を歩いて、山頂の決められた場所まで上がって行ったという話を聞いたことがある。私はその牧歌的な話を思い出して、金山出石寺に向かうことにした。空模様が怪しくなってきたが、1本道で迷うこともなさそうだ。
〈参考〉
『丸山遊女と唐紅毛人 後編』古賀十二郎著(長崎文献社)
『長崎のオランダ医たち』中西啓著(岩波新書)
『二宮敬作と関係人物』門多正志著(宇和町教育委員会・宇和郷土文化保存会)
大洲市誌 上巻
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