第65回 風早紀行
北条市
北条地方の古名、風早は美しい字と響きを持った地名である。その美しい名にふさわしい、よく晴れた秋の日に、北条市に出かけた。虚子の故地を訪ね、阿波の遍路の墓に参った。小さな鮮魚店を営む高校時代の友人Iを訪ね、銘酒雪雀の酒蔵や中江藤樹志学の碑を見た。
虚子揺籃(ようらん)の地
松山から国道196号線を走り、北条市西ノ下(にしのげ)で河野川を渡ると、すぐ道の左手に陽を受けて白く光る石の胸像が見える。脇に背の高い柱のような石が立っていて、奧には小さな大師堂がある。胸像は俳人高浜虚子の像。虚子は明治7年2月22日に松山市湊町4丁目の子規と背中合わせの家に生まれたが、廃藩後、松山藩士であった父がこの大師堂のすぐ近くへ移住し帰農したため、乳飲み子の時から8歳までの間をこの地、当時の風早郡河野郷(こうのごう)別府村西ノ下で送った。虚子の父は柳生流の剣客(けんかく)であったが、藩の祐筆も務めた文武の人であった。
胸像の脇に立つ背の高い石は虚子の句碑。「この松の下にたゝずめば露のわれ」。この句碑が、大虚子にして初めて建てられた句碑である。大正6年10月15日、発起人の仙波花叟(かそう)を連れてこの地を踏んだ虚子は、幼時の記憶に強く残る老松の根元を句碑建立の場所に指定した。その日は、秋雨の降る日で、虚子は松を透して傘の上に落ちる水滴の音を聴きながら、この懐旧の句を詠んだという。私は、奧の大師堂や路傍にある阿波の遍路の墓に参り、近くにある「虚子先生家池内邸址」という碑を見た。碑の建てられた辺りにはすでに当時の面影はない。古い写真で見た虚子の家があった頃の面影はどちらかというと大師堂と道路を隔てた農家のあたりに残っていた。
鹿島
午前10時過ぎに、北条市土手内(どてうち)のI鮮魚店に着いた。Iは丁度、朝の仕事を終えて一服しているところだった。40年近くも昔の初夏の頃、Iたち北条在の数人の同級生と鹿島に渡った。さんざん鹿のいる山を走りまわり、磯に降りて遊んだ。私は不運にもカラコギというちょっとオコゼに近い毒をもった魚を素足で踏みつけた。ひどく痛み、右足の踵のあたりがはれ上がった。側にいたIが「アンモニアじゃ。これがいちばん効くけん」と言って、いきなり小便をかけてくれた。生あたたかい感じがするだけで少しも効き目はない。結局、渡船で町に戻り、同級生の1人Jの父親の医院に行って注射を打ってもらった。痛みは嘘のように消えた。しばらく、昔話をした後に、Iの家に車を置いて、鹿島に渡ることにした。
国道に出て、少し歩くと、家並みの向こうに陸続きの山であるかのように、こんもりとした鹿島の姿が見え隠れした。それほどに近い。JR北条駅の交差点を左に入り港を過ぎて大きな鳥居をくぐると渡船の発着場である。新しい土産物売場が建ち、桟橋も立派になって、ずいぶん様変わりしている。渡船の屋根には張り子の鹿まで載っていた。15分おきに出る渡船で鹿島までは五分もかからない。乗客は釣道具を持った初老の男性と私だけであった。船を下りて、すぐに厳島神社の脇から、登山道を上った。子鹿や角のある若い鹿に何度も出会った。人の姿はない。時々、悲鳴のような鹿の鳴き声が聞こえてくる他は風の音がするだけである。中腹の城跡から数分で展望台のある頂上に着いた。青い空の下に高縄山と北条の町が手に取るように見える。しばらく四方の景色を眺め、上ってきた道と逆の方向の急斜面に架けられた新しい木製の階段を下った。
下に降りて、少し遊歩道を歩き松根東洋城の「鹿に聞け潮の秋するそのことは」などの句碑を見た。神社の拝殿の奉納句額を見ていたら、昼が近くなったので急いで渡船に乗った。帰りも同船した乗客は釣人が1人だった。
「勧商場(かんしょうば)」
港の近くの寿司屋で昼を食べた
(※ごちそうノート参照)後、早坂暁の生家「勧商場」に向かって歩いた。早坂脚本のNHKテレビ「花へんろ」の「富屋勧商場」のモデルになった場所である。国道に出て、伊予銀行の先で、道が鉤の手になっている。左に折れた正面に、古めいた遍路道の道標と、花へんろの町というマンガのかわいらしい看板が見える。「勧商場」はその手前左で、改築工事中だった。早坂が育った頃には、「女相撲」という短編に「私の家は田舎町の百貨店であったから、本も扱っている。校長センセイが本を買いに来た」とあるように、小規模な百貨店のようなものだったというが、今は飲食店だ。しかし、「勧商場」という、ほとんど耳にすることのない名詞が、しっかりと今も町の人々の記憶に生きて普通に通用しているのがおもしろい。
I鮮魚店に戻って、午後の休憩に入っていたIとしばらく話した。Iの父や祖父の時代の人たちは早坂の故郷を舞台にした作品の登場人物に多かれ少なかれ、重なる部分があるそうだ。同じ町に生まれともに育ったのだから当然であろう。
早坂に「春子の人形」という掌編がある。女遍路が捨てた女の赤ちゃんを主人公の母親が引き取って育てる。主人公は妹ができたと思って喜ぶ。兄妹となった2人は長じて、淡い恋愛感情を持つようになる。太平洋戦争下の昭和20年、主人公は海軍兵学校に入校。8月に面会に出かけた妹が広島で汽車を待っていて、原爆で亡くなるという哀切きわまりない話だ。Iによれば、小説はともかく、実際に学徒動員で広島に行っていた早坂の妹さんやこの土地出身の娘さん達が原爆にあって亡くなったのだという。早坂の作品に響く通奏低音として、市民に対する殺戮をこととする戦争の非を訴える声が確かに聴こえ続けていることを思わずにはいられなかった。
話せばわかる
帰りに、北条市柳原の雪雀酒蔵に寄った。「雪雀」の酒銘は初代蔵元と親交のあった犬養毅がつけた。創業時の酒銘は、「雀正宗」だったが、昭和6年になって、この酒をこよなく愛した犬養が『雪雀』にしてはどうかと蔵元にすすめた。さすが犬養、なんとシンプルで美しい名であろう。雪は昔から豊年の瑞兆。また雪の白で酒の白く輝く清冽を表現したともいう。雀の字は、元の『雀正宗』から。雀が竹の切り口に蓄えた米が、自然に発酵して酒になるという伝承に由来する。無論、雪雀は名前だけの酒ではない。私は酒蔵の隣の売店で「雪雀超辛 話せばわかる」を1本もとめた。昭和7年の5・15事件の時、海軍青年将校や陸軍士官学校生徒らに発した犬養の最後の言葉が酒の名になっている。犬養に若い軍人たちが返したのは「問答無用」の一言と銃弾だった。お酒の導きでもあるまいが、平成九年の6月から11年の約2年間、北条にある聖カタリナ女子大学で犬養の孫にあたる犬養道子さんが「世界への福祉・奉仕」と「聖書学」を講じられた。私はかつて犬養道子さんの「私のスイス」を愛読した。ガイドブックとしても長く実用に耐える本で愛用もした。店の人に犬養さんが北条に滞在されたときにここにみえましたかと聞いてみた。「お忙しい方ですからなあ。ご本人はおみえにならんかったです。たしか、おつかいの方がみえましたかな」ということだった。厳しく、熱のこもったに違いない指導の寸暇に、犬養さんは、きらきらとした風早の風光と瀬戸内の魚貝を肴に祖父が名を与えた名酒を味わったのであろうかと思ったのである。
創業以来の酒蔵を見せてもらった後に、道路の向かい側にある陽明学者中江藤樹が祖父と住んだ邸の跡に向かった。
〈参考〉
「高浜虚子─郷土俳人シリーズ3」(愛媛新聞社)
「高浜虚子・河東碧梧桐 明治文學全集56」(筑摩書房)
「愛媛文学散歩1秋田忠俊著(愛媛文化双書)」
「角川日本地名大辞典愛媛県」
「『河野村における中江藤樹』河野村史抜刷」
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