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- 波止浜の町並み -  和風に洋館がついている。
第81回 片上伸「不定の故郷」再訪
 
 今治市波方町樋の口~今治市波止浜
 2003年3月号に掲載した第81回「片上伸の故郷」について、私が片上の生家があった場所として書き、現地を訪ねて、撮影し掲載した写真の場所は片上の生家があった場所ではなかった。
1月20日過ぎに現地を再訪し、第81回の一部を削除し、訂正、加筆した。


 (それぞれの写真をクリックすると大きくなります)
2通の手紙

- 片上伸の生まれた波止浜の町には宏壮な屋敷が多い。かつての船主の邸か。 -

 二、三年前の事である。茨城に住む片上姓の方から一通の封書が届いた。開封すると、私が書いた「片上伸の故郷」を、インターネットで見たが、あの場所は片上伸の生家跡ではないということがはっきりと書かれていた。誤りの訂正をもとめる手紙ではなかったが、私は驚きを抑えることができず、封書に書かれた連絡先に電話をかけてみた。弁解めくが、秋田忠俊著『愛媛文学散歩』に書かれた文章と写真を見て現地を尋ねたことや、お会いした現住の方が間違いなくこの家が建っている場所が生家跡であると話され、家屋敷の変遷などについても説明を受けたことなどをお話した。相手の方は、片上の生家が波止浜村であって、あの場所ではないということは確かであるが、自分も、波止浜の片上の生家の場所をはっきりと指し示すことは出来ないということを話され、私の誤りを責めているのではないと穏やかに言われた。私は現地を再訪して生地の場所をはっきりさせ、訂正を出すまで、ホームページへの記事の掲載を差控えることでお許しを願った。その後すぐに、片上の生家の場所を秋田忠俊氏に教示された片上の研究者である愛媛大学の大西貢教授に電話をかけてみた。片上の生家の場所をどうやって特定されたのか確認をしたかったからである。ところが、奥様が電話に出てこられ、先生はご病気で入院中であるとのことであった。私は、いきなり電話をお掛けした非礼を詫び、一月か二月後に此方からお電話をいたしますと言って電話を切った。その後、片上の生家のことを、時々思い出すことはあり、気にはなっていたが、そのままにしているうちに、新聞に大西貢教授の訃報が掲載された。いずれにせよ、いつか自分で波止浜をもう一度訪ねてみようと思うままに再び時を過ごした。

- 波止浜 飛田医院 -

 昨年(2007年)春、突然、社報の印刷を取りやめる話しが持ち上がった。替わりに、ウェッブ版での継続が決まり、過去の連載記事を全てウェッブ版に取り込み、見出しを付ける作業を慌ただしく進めた。その作業の中で、削除した片上伸の記事を誤って再び掲載してしまった。そしてそれを、私は気づかずに放置していたのである。
 年が改まった今年(2008年)の一月の半ば過ぎ、会社に今治市の青木倫子(みちこ)さんという未知の方から一通の封書が届いた。開封すると、片上伸の生家跡の誤りについての親切なご教示であった。一度掲載された片上の記事が削除された理由が気になっていたともあった。文芸同人誌「アンプレヤブル宣言」第8号が同封されており、青木さんが丹念に調べられた片上伸の出自と生涯、作品論まで織り込んだ短編小説「魂のかえるところー片上伸の帰郷ー」とご夫君で同人の青木哲夫さんの「編集後記にかえて 伸(のぶる)仁(まさし)周辺の人々」の2編が収められていた。
 読了して、私の生家についての疑問はほとんど氷解した。生家の跡は、まさしく樋の口ではなかった。片上の生まれたのは隣の波止浜村だった。生家についてだけでなく、片上について、多くのことを知ることができたことはほんとうに有り難いことであった。
今度こそ、もう一度尋ねてみなければなるまいと思った。

「魂のかえるところ 片上伸の帰郷」

- 波方町樋の口にある旧庄屋片上家墓所の上段左側に分家の片上伸の先祖の墓がある。 -


 青木さんの短編を読んでまず驚いたのは、大西貢教授が生家跡とされていた樋の口の家が、青木さんの母上の実家の跡であることであった。昭和恐慌の最中に信用組合の組合長をされていた母上の父上が多額の融資の焦げ付きの責めを一身に負い、無限責任を取って、庄屋の家系に許されていた屋敷内の墓所以外、全ての財産を失ったというのであった。片上伸は青木さんの母上の実家と同じ片上の一族の出である。ともに樋の口の庄屋を務めていた先祖から三代目で分かれたという。母上の実家の祖は次男であったが、庄屋を嗣いだ長男が新宅を建てて外に出た後、父祖の地である樋の口に隠居の先代と一緒に住んだため、樋の口の家は以後、「庄屋の隠居」と呼ばれていたという。その家は、現存しないが、「代官を迎えるため、座敷が一段高くなった本妻筥棟」の宏壮なもので、母上たちが家を出られる少し前に重文指定の話しもあったそうである。

- 片上の祖父忠太郎の墓の裏面 -
  明治二十九年四月二十日に片上の父良が建てている。
 片上の先祖は藩政時代の江戸後期にこの庄屋の家から分家して、代官の出先機関であった波止浜の月番所に代々常住する役人になったという。片上は波止浜で生まれた。
青木さんの「魂のかえるところ 片上伸の帰郷」から引用させていただく。
「夫の指差す北東の方角には、越智郡波方町の集落とそれに続いて今治市波止浜の町並みが広がり、それら建物群の背後に瀬戸内海の島影が連なって見えた。
「あのクレーンが沢山立っている手前あたりだよ。伸の生まれた所は」
「ほんとう。ここからは目と鼻の先ね」
私は気を取り直して、同じく坂を振り返った。
「明治の頃はいくらも民家はなかったでしょうから、この辺りだと隣同志の感覚だったのでしょうね。直線距離で二キロぐらいかしら」
私たちは母の里の墓参に来たのではなく、同じ片上家の墓地の中にある、明治・大正期を通してのロシア文学研究者で評論家だった片上伸の先祖の墓を調べに来たのであった。波方町樋の口にある母の実家跡の上の、墓地に到る坂道から、ちょうど周囲の小山を避けるようにして、ほとんど真正面に、片上伸の生まれた波止浜の町が見える。」(青木倫子「魂のかえるところ 片上伸の帰郷」文芸同人誌「アンプレヤブル宣言」8号所収より)
 片上伸の生家は波止浜にあったが、墓所は青木さんの母上の実家のあった片上家の庄屋屋敷内の墓所の中にあった。上下二段になっているその墓所の上段左側に、片上伸の先祖の墓がまとまっている。伸の先祖の墓は、青木さんの叔父上が一族の墓と一緒に、四季の香華を手向けてこられた。今、片上伸の現存する末裔の中で、伊予のこの地に先祖の墓が有ることを知るものは誰もいないだろうというご夫君の言葉を青木さんは、小説に書き留めておられる。
 片上伸の年譜のほとんどが出自を庄屋の家柄としていることの錯誤も、生家跡の誤りも、すべては、青木さんの実家である「庄屋の隠居」の家産が他家の手に渡ったこと、片上伸の先祖の墓所が樋の口の庄屋の墓所の中にあること、庄屋の片上家と伸の波止浜の生家の直線距離が二キロという近さなども相まってもたらされたものであろう。片上伸の父良(つかさ)は、波止浜から松山、讃岐、阿波、土佐、北海道へと流転する。前回触れた伸のゴシップと、さらに養子に行って竹内(たけのうち)姓になった弟の仁(まさし)が起した悲劇的な事件なども故郷の家の場所をますますわかりにくくしたであろう。伸の一族にとって、故郷はますます遠いものになったことと思われる。それが、青木さんの指摘される没後十年に出た片上伸全集の年譜の杜撰にも影響を及ぼしたことであろう。
 青木さんの小説には、大正15年夏、父良の死の直後に最後の墓参に樋の口の先祖の墓を訪れた片上伸を、実家の長屋門の前で両親とともに出迎えた女学生の母上の記憶が綴られている。
「伸は青稲のさやぐ坂道で人力車から降りてきた。白い帽子に白い背広を着て夏の陽射しを浴びた伸は、女学生だった母には今だ教授と信じているそのままに、当時を代表する評論家という肩書きのままに、まばゆく光輝いて見えたという………」。(前出「魂のかえるところ 片上伸の帰郷」より)


- 波止浜の醤油店の瀟洒な和風建築。 -


波止浜へ
 1月の20日過ぎ、小雨の降る陰鬱な日に、波方の樋の口の片上家の墓所と、波止浜の片上伸の生地があったであろう辺りを訪ねた。  今治市役所波方出張所の前から右手に踏み切りを渡り、鉄工場の先に車を停めた。以前にお話しを伺った森利義さんのお宅の脇から、墓所への山道に入る。女学生だった青木さんの母上が最後の墓参に帰った片上を出迎えた長屋門があったのはこのあたりであろうか。一度折り返して墓所に上がる。青木さんの小説の正確な描写にしたがって、墓所の上段左側に行くと、片上伸の先祖の墓石の中に明治29年4月20日に片上の父、良が建てた祖父忠太郎と兄保憲の墓石があった。保憲は、藩の役人から廃藩後村吏になり、松平侯の米蔵で小さな私塾を開き、波止浜小学校が明治6年に七番小学校として発足した時の、最初の訓導として名が残っているそうだ。
 墓所の奥にある片上一族発祥の地の碑を見て、道を下った。帰りに森さんのお宅に声を掛けたがお留守のようであった。
 墓所から見た、クレーンの林立する辺りを目指して、波止浜方向に走る。波止浜出張所に車を停めて、周辺を歩いた。生家はこの辺りにあったのであろうが今はまったく面影をとどめていない。明治の小学生の頃の、片上が暮したころに建っていた町並みはもう残っていないが、最後の墓参に帰ったころの町の雰囲気を伝える建物を探した。宏壮な屋敷が廃屋になっていたり、空地も目立つ。一時間ほど歩いて写真を撮り、車に戻った。青木さんに電話をかけて、お伺いしてもみたが、往時茫々、「月番所のあった辺りには違いないでしょうが、正確な場所は私も尋ね当ててはおりません」とのことであった。青木さんの小説から引用する。「港町らしく波止浜は古くから外国人の出入りがあり、キリスト教などもほかの町村にくらべて多かったそうで、明治21年にはキリスト教教会が建てられている。この時の設計図と鐘はロシア人の寄付ということで、伸の胸にロシアへの憧れと興味が芽生えたのはもしかしたらすでにこの遠い日にあったかもしれない。」

忘れられた文学者

- 明治39年に復刊された雑誌「早稲田文学」 -
片上は島村抱月の推薦で編集記者として活躍。片上は坪内逍遙、与謝野晶子、田山花袋らとほとんど毎号の目次に名を連ねた。
 現在、明治末から昭和初期にかけて活躍した文学者片上伸(天弦)を知る人は少ない。明治17年2月20日に波止浜に生まれ、松山に移った後、松山中学を卒業、早稲田大学文科に進み、卒業後は母校の教師となって文学を講じた。坪内逍遙や島村抱月にみとめられた片上は天弦という筆名で、文芸評論や詩を書き、翻訳もした。雑誌『早稲田文学』復刊とともに編集記者となって活躍し、革命前後の時期に文学研究のためにロシアへ留学した。ロシアから帰国して後、早稲田にロシア文学科ができたときには、すぐにその主任教授となった。二葉亭四迷らに続くロシア文学紹介者としても無視できぬ仕事をした人とされる。
 片上は、晩節をゴシップに汚された45歳という短い生涯であったこと、著作が戦後は広く読まれることがなかったこと、幼少期に松山、四国の各地、大学を卒業する頃には、北海道と父親が居を移したことなどもあって、片上の名は、生地の波止浜でさえ、ほとんどの人々の記憶から消えて行った。

 私が初めて片上の名を知ったのは、学生時代に井伏鱒二の『喪章のついてゐる心懐』という短編小説を読んだときのことであった。井伏は早稲田の文科で片上に教えを受け、結局片上との軋轢がもとで大学を中退したが、この短い小説は親友青木南八や学生時代に出逢った島村抱月、岩野泡鳴らの思い出とともに片上の風貌を独特のアイロニイとユーモアの溢れる文章で描いている。
少し引用する。 

- 父と祖父母と伸(明治21年頃) -


- 二十歳の片上伸と兄弟(明治35年) -


- 片上と家族(大正7年) -
 その翌日、学校に行くと私は片上教授に呼びつけられた。片上教授がロシアの留学から帰朝して間もないときのことで、早稲田の文学部を盛大に仕立てようと意気込んでいたせいか、私たち学生が煮え切らない態度で返事をしたり筆記を怠けたりしていると、容赦なく叱りつけていた。それはどこまでも押しつめてみると、愛校心の涵養ということが片上教授の念願であったと思われる。
「君は岩野泡鳴のところに幾度も行ったそうだが、実際かね?」と詰問した。見ると片上教授は目に涙をため、「君は早稲田の文科の学生ではないか!」強い語調でそういって先生は眼鏡をはづし、涙を拭いたかと思うと涙はきれいに乾いていた。……
「なぜ文科の学生としてそういう浮き足だったことをした?伝統ある早稲田文科の学生として恥じたまへ」
私は恥じる理由をみとめなかったので、ありのままに言った。
「文学談を聞くつもりで行きました」
「呪われてあれ!」
と片上教授は指さきで机の上を1つ打ち、
「文学のことなら僕にききたまえ…」……
 私はそれから後もずいぶん片上先生に叱られた。学校を怠けては駄目だといって、先生は私の背中をどんとたたきつけたこともある… (井伏鱒二『喪章のついてゐる心懐』)

 井伏が「実名小説」として、描いた片上のエキセントリックな性向は後に片上が急に早稲田大学の主任教授を退く理由の1つになったものであった。
 少し前に、猪瀬直樹の『ピカレスク太宰治伝』(小学館)という本が評判になった。その第3章に井伏と絡めて片上についてのゴシップが紹介されているのをお読みになった方があると思う。猪瀬は井伏の自叙伝的小説『鶏肋集』や前掲の『喪章のついてゐる心懐』を換骨奪胎して、片上と井伏の交渉を見てきたようにあざとく描いている。猪瀬のやり方はわかりやすいようで、わかりにくい。片上の痛みも猪瀬の言う井伏の「トラウマ」も伝わってこない。それはゴシップに過ぎない。
 井伏を含め、当時の学生達は片上の欠点に満ちた難しい性格に難渋し、辟易したが、決して冷淡にあげつらうばかりではなかった。片上の全集は死後10年たった軍国の時代に、弟子の谷崎精二の手で編纂された。片上の最後の生徒であった国文学者稲垣達郎は後年、片上の作品を丹念に辿り、学生時代を回想しながら次のように書いている。
 初夏の頃だったか、片上さんが急に大学を退くことになった、と水稲荷の境内で友人から聞かされた。わけを知ってわたくしはひどくあっけにとられたかたちだった。何よりも先に、もう片上さんに叱られることもなくなると、ほっとしたことも事実である。が一方、惜しいなと感じたのも事実である。いろいろなことは言えるにしてもこれだけの文学者らしい文学者は、ほかの学校には見あたらない。…その日はほがらかな奥にわびしいしこりがある心持ちだった。…片上さんは欠点の多い人間であったことはまちがいないと思う。むしろ欠点だらけだったのではないかとも思う。しかし、例えばドストイエフスキーの欠点のごときは片上さんなどの遠く足許にも及ばないものだったようにおもわれる。…多少ともいやな奴と映らないほどの人間に、いい文学者たるの資格のあろうはずはない…… 片上さんの人生や文学に対する熱意には、まことに容易ならぬものがあり、そこが本ものの文学者らしく、何としても尊敬すべきものであった(稲垣達郎『片上伸ノート』)稲垣の文章は正直で、やさしく、深い。片上の文学によせる情熱に対する共感が快い。
 「芥川龍之介の自死に際し、「敗北の文学」を書いた若き日の日本共産党元中央委員会議長宮本顕治は、旧制松山高校時代に松山で片上の講演を聴き、片上と深い交流があった。真情のこもった書簡の往復もあり、宮本は、新しい文学の地平を切り拓く道標として、片上に限りない敬意と親近の情を寄せていた。青木さんが小説に引用された宮本顕治の「過渡時代の道標ー片上伸論」の一節をそのまま孫引きさせていただく。
《今日、我々にとって常識化した研究方法も、それが人々の常識となるためには、激しい闘いを経てきたものである。今日、何人も文学が社会現象であるということに疑いをはさむものはあるまい。そして、文学を社会的な観点から研究しなければならぬという言葉はむしろ我々に、苛立たしいほど自明なものとして響くかも知れない。しかし、そうした基本的な方向が人々によって充分に認識されるまでには、嶮しく、ジグザグな「戦ひの批評」が敢行されて来なければならなかったのである。すべての新興するものの歴史的過程として、それは後世から見るならば、非常に待ち遠しいほどの模索時代の後、ようやく新しい原理、方向を樹立するのである。》
 早稲田大学出版会がそのままに復刻した、明治39年に復刊された雑誌「早稲田文学」が手元に有る。片上の名は坪内逍遙、与謝野晶子、田山花袋ら当時、世に名を馳せたであろう文学者たちと、ほとんど毎号の目次に名を連ねている。その片上の栄光が遠い過去となったように、片上が過ぎ去った過ちとゴシップから解放され、文学の俎上に復帰する日が来ることを願いたい。

 
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