愛媛の地域を探訪するささやかなWEBマガジンです。今後の更新は不定期にいたします。お暇な時にでもご覧いただき、ご意見やご教示をれたまわれば幸いです。
平成21年 7月1日 編集人
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題字・画:藪野 健
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・20.06.23
 伊予再見
 伊予再見とタイトルを改め、更新を再開いたしました。
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・14.05.15
 三橋玉見と武内潔真
 編集人がまとめた小冊子『三橋玉見と武内潔真』が宇和島市教育委員会から刊行されました。

 南予出身の三橋玉見と武内潔真は、明治の半ば過ぎ、現在の宇和島市津島町御内で、少年時代を共に過ごしました。代々医を業とする家に生まれた三橋は岡山の第六高等学校の時代から、倉敷の実業家大原孫三郎の知遇を得、大原家の奨学金を受けて東京帝国大学医科大学に進みます。三橋を追うように、宇和島中学から第一高等学校に進み東京帝国大学で電気工学を学んだ武内も、三橋の紹介で大原家の奨学金を受け、学業を終えた後はともに後半生を倉敷で過ごします。二人は倉敷で、大原孫三郎や児島虎次郎らとともに倉敷文化協会の中心メンバーとなり、本業の医師と電気技師という仕事をしながら、倉敷の社会改良や文化運動に大きな貢献をしました。この二人の南予人は、大原孫三郎や児島虎次郎をささえた無名の存在ですが、自らの名をあげるより、文化や芸術が普通の暮らしの中に根付かねばならないと信じて精一杯誠実な人生をつらぬきました。三橋は社会衛生の発展に貢献しながら、倉敷緞通や酒津焼など倉敷の手仕事を振興するために尽くし、柳宗悦の民藝運動の精神を倉敷に結びつける大きな役割を果たしました。武内は柳宗悦の民藝の思想に共鳴し、生涯、民藝の理想を体現して暮らすことをめざしました。今回は筆者の非力と紙幅の制限が有り、二人の故郷での足跡と倉敷との縁についておおまかに触れることしかできず、不十分な内容のものとなってしまいました。
 三橋については、民藝とのかかわり、南画や絵や書についての姿勢、中村憲吉を師と仰いだ短歌について、暁烏敏の歎異抄講座に感銘を受けて倉敷暁烏会をつくった信仰の問題について、児島虎次郎や大原孫三郎との交遊について、岡山六高、東大医学部時代の友人関係、医師としての活動についても書かねばならないことが多く残ってしまいました。
 武内については生涯の出合いとなった柳宗悦の思想と民藝運動への関わりについて、大原美術館館長としての仕事、陶器館の建設などについて、ほとんど触れられませんでした。若き日の欧旅については、先頃失われたと思われていた年代の日記が存在することがわかり、児島虎次郎の示唆を受けて熱心に見てまわった美術館や博物館、建築などについての武内の思いが明らかになる可能性があります。又、労研饅頭を松山に伝えた田崎建作牧師と三橋の親交について、労研饅頭の創始者暉峻義等と武内潔真の深い関係についても触れることができませんでした。
 今回は、その欠落を埋めるため、資料編として武内潔真が編集した『三橋玉見追想録』から三橋の短歌や文章を、友人諸家の追想を、雑誌『工藝』と『民藝』から二人の文章を摘録したものをまとめ、コピーして宇和島市教育委員会で希望者に配布しましたが、今後、稿を改めて増補するつもりです。
 今回の、小冊子には、画家藪野健先生の倉敷の町並みの画と写真家畑亮氏の倉敷酒津の無為村荘の写真を掲載させていただきました。

 小冊子と資料集御希望の方は宇和島市教育委員会文化課森田氏に御連絡下さい。
電話 0895-49-7033 bunka@city.uwajima.lg.jp


・09.11.18
 東京の子規 歩く人・子規
11月15 日、井上明久さんの本誌連載『東京の子規』が本になりました。書名は『東京の子規 歩く人・子規』です。  連載に加筆訂正をほどこし、新に漱石と二人で歩いた京都について、また、芭蕉の跡をたどった「はてしらずの記」の旅についてなどの章を書き下ろして上梓されたものです。
 井上さんは子規の「その人の足あと踏めば風薫る」の句を巻頭に掲げ、「僕は子規を“解釈”なんかしたくなかった。ただ、子規を“感じ”たかった。その人の足あとを踏んでいった時に薫ってくる風を、この身いっぱい受けたかった。……歩く人としての子規。僕はもっぱらこの点に深い関心と熱い共感を抱きつつ、本稿を書き進めた。……晩年の子規が持った文学的、人間的な深さや凄みには欠けているだろうが、その代わりこの時期の子規には何にも増して軽やかで勁い脚があった。青々しくて、未熟で、青春の真只中にいた子規。僕はそんな子規に一番強く心惹かれている」とあとがきに書いています。子規が井上さんの平たく、深く、生彩のある筆致で、ぐっと近い存在に思えてくる本です。表紙の装画は藪野健先生の草鞋の紐を結ぶ子規の絵です。
ぜひご購読をお願いします。
版元は松山の創風社出版。定価:本体1600円+税。
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見たもの聴いたもの
  2014年08月 

福山で
岡山県福山市
 7月20日の日曜日にしまなみ海道を通って、福山に出かけた。駅前、天満屋六階のアートギャラリーに倉敷堤窯武内真木さんのくらしの器展を見に行ったのである。
 会場には、倉敷堤窯の皿や鉢、急須、湯呑み、水差しなど、定番の品々や、新しいかたちのマグカップがならべられ、スリップウェアの皿も壁にかけてあった。私は、小皿を一組と鉢、小さい水差しを一つもとめた。

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小さな自転車の旅
 第18回 

内子から石畳に登り、下灘へ下る
 
 大阪に住む自転車大好きの友人が半年ぶりに南予にやってきた。今回は以前出かけて雪になって引き返した内子町周辺を走ることにした。 友人はコペンという軽自動車の初代の設計者だ。自分が設計した小さなスポーツカーのトランクに自転車をびったり詰め込んで約束の場所の卯之町駅前にあらわれた。見事なパッキングである。自転車をとりだす様子に見とれてしまった。

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コラム・寄稿 2014年07月 

愛媛県・日振島の青い海とやさしい人々
 
 岩田三代(日本経済新聞編集委員)

 「島で会った人は皆やさしかった」。訪問から1カ月たち、こんな思いが募っている。愛媛県宇和島市の沖合にある日振島を訪ねたのは5月下旬。日本経済新聞夕刊の旅ナビ面の取材のためだった。

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伊予細見
 第144回 

カラ岩谷遺跡訪問記
大洲市肱川町

 昭和30年代はじめの頃、わが家でも七輪に炭火を起こし、魚を焼いたり、もろぶたをひっくり返した上に七輪を置いて、家族ですき焼きの鍋を囲んだりしていた。冬は茶の間にも客間にも火鉢があり、正月には餅を焼いて食べた記憶がある。プロパンガスが台所の主流になったのは小学校に入った頃だったろうか。炭はだんだん、日常の生活から離れていった。

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ごちそうノート  第 126 回 

西予市卯之町で
2014年06月
 
店は、古い町並みと国道の間の通りにある。暖簾が出ていないことが多いので、電話をかけて出かけたほうがいい。握り鮨が美味しい店でたまに出かける。ある時、メニューにかば焼き、うな重とあるのに気がつき、注文してみた。

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ごちそうノート  第 125 回 

倉敷で
2014年06月
 
5月末、倉敷に二晩泊まった。酒津の倉敷堤窯に武内真木さんを訪ね、用水のそばの自邸で地元の主婦が週末に開いている家庭料理のランチを食べた。心のこもった料理、お菓子もあいかわらずのすばらしさ。疎水の流れを見下ろしながら野鳥の囀りが聞こえてくる。

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ごちそうノート  第 124 回 

深浦漁港のカツオと長英の砲台址
2014年05月
 
友人が自転車に乗りに来たり、宿毛の友人に会いに行く時に深浦漁港に立ち寄ることがある。 運が良ければ、水揚げされたばかりのカツオやヨコ(本マグロ)を仲買の人にわけてもらえることもあった。深浦は宮本輝の小説の舞台にもなっていて、漁港が現在地に移転する前からよく訪れてはいた。

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見たもの聴いたもの
  2012年09月 

愛媛県立歴史文化博物館 テーマ展「伊予の文人 藩校と教育者」 2
愛媛県西予市宇和町卯之町
 前回の愛媛県歴史文化博物館についての雑文「怒りの日」の出来事について、その後、いろいろなことがあった。最終的に教育委員会から私への長い「お詫び」の文書が届いた。
 友人たちからは「さもありなん、しかし、無駄だから相手にすべきではない」という忠告を多く受けた。夏の休みで帰省し、南予をたずね、一緒に歴博に足を運んだ友人たちも同様のことを言い、建物の立派なことに驚いて去った。
 そのまま、ホコをおさめればよかったのだが、思い直して、紀要論文の誤りも含め、展示の趣旨やあやしさを学芸課長に質してみた。

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読みたい本 2012年09月 

我ら聖なる天使の群れ

 井上 明久 著

 8月1日、井上明久さんの『我ら聖なる天使の群れ』が上梓された。帯に書かれている「ビートルズの歌」が巷に流れていた時代の青春の物語である。『東京の子規』に続き、松山の創風社出版が版元だ。
 人間らしさを隠さない、あまり器用な生き方ができない愛すべき教師たちと、大学受験を目前にした男子進学校の知的で稚的で、純粋な高校生たちが主な登場人物である。舞台は、毎年、松山で繰り広げられる「俳句甲子園」の常連校、東京の有名な進学校とその周辺の風景である。田端文士村や、日暮里駅周辺、子規が虚子とつらい会話をした道灌山近くを思わせる場所が次々と登場する。

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ギャルリー美しい街  第 91 回 

倉敷市美観地区
旧大原家東邸「有隣荘」
 1928年(昭和3年)築。家族のための住居として大原孫三郎が建てた。設計は薬師寺主計、伊東忠太。家具などは児島虎次郎。庭は無鄰菴を手がけた七代目小川治兵衞。 緑色の瓦屋根に因み「緑御殿」とも呼ばれる。新築後、孫三郎夫人が病に臥すなど、家族のための落ち着いた家としての期待は満たされなかった。1997年(平成9年)からは、大原美術館の特別展示室として使われている。 有隣荘が新築される前、この地には、大原孝四郎、孫三郎ら大原家のホームドクターの役割も果たした愛媛県北宇和郡松野町(旧明治村)豊岡出身の三橋玉見の医院が建っていた。三橋は孫三郎の信頼篤く、児島虎次郎とも学生時代から深い交わりがあり、第二の故郷、倉敷の芸術文化運動に生涯尽した。倉敷文化協会の創設メンバーであった。医業の傍ら、倉敷緞通や酒津焼の復興など、倉敷の民芸運動振興にも務め、柳宗悦や河井寛次郎ら民芸諸家とも親交があった他、アララギ派の中村憲吉に師事した歌人でもあり、陸羯南や子規の叔父加藤拓川と親交のあった漢詩人国分青崖とも交際があった。有燐荘建築に際し、医院は浜田町に新築移転した。

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漱石を読みながら 第10回 

可哀そうな二人
 
 漱石を読む、と言っても、真っ向から漱石に立ち向かうほどの技量は僕には毛頭ない。ただ、漱石のまわりを少し遠巻きにしながら、ウロウロと歩き廻ってみたいと思うばかりだ。従って、いたって気楽な、ひどくのんびりした読みものになるだろう。いや、そうなってほしい。
 誰でも漱石に近づくと、とかく肩肘張った、かしこまった文章になりがちだ。何と言ったって相手が豪いので、豪すぎるので、ついついこっちも身構えてしまうことになる。なるべくそうはならないようにしたい。が、気がつけばそうなっているかもしれない。その節は平にご容赦を。
 流れの真ん中に漱石を据えながら、その連想から他の作家や別の出来事に自由に筆を延ばし、また適当に漱石に還ってくる。そんな構成で進めていきたい。だから、タイトルは「漱石を読む」ではなくて、「漱石を読みながら」とする。(井上明久)

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靴風日和 第06回 

やっぱり、田端
 
 荷風に都市散策の聖典とも言ふべき『日和下駄』と題する一代の名著あり。その真似の真似の真似にも遠く及ばねど、なほなにがしかの真似事をしたき思ひ抑へ難く、下駄の代りに靴をはき、フラリと町の風に吹かれ歩く。よつて、戯れに「靴風日和」と名付けたり。

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