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第92回 宇津紀行
 
大洲市菅田町宇津 
 よく晴れた冬の日に肱川中流域の美しい里、宇津を訪ねた。渓寿寺に参詣し、沈下橋を渡ると、桑畑の脇に懐かしい木造校舎が建っている。春を待つ田圃や大根が眠る畑を過ぎると、突き当たりの山裾に黄漆喰の宏壮な長屋門が見えてくる。

 成見橋から
 内子・五十崎から県道229号線を小田川沿いに走ってきても、城川や肱川町から鹿野川ダムを経て肱川沿いに走ってきても、大洲に向かう国道197号線に入ると、合流して川幅を増した肱川に谷が一気に押し広げられて、風景が急に明るく伸びやかになる。西に流れる肱川の右岸を走る国道をしばらく行くと、左手に成見橋という沈下橋が見えてくる。大洲市宇津は、肱川を挟んで、この橋の右岸と左岸に広がる地域である。右岸を国道が走り、左岸を県道が走っている。
 何度か、この橋から肱川を渡り、まっすぐ山裾の県道に突きあたった場所に建つ大野家長屋門の風格に目を奪われたことがあった。いつかゆっくりと訪ねてみたいと思っていたのである。
 正月にY先生がよく写りますからといって借してくれたライカのズマロンという35ミリの古い広角レンズをカメラにつけて、朝10時過ぎに家を出た。南国にはめずらしい大雪の後で、空気が澄み、空は気持ちよく晴れ渡っている。大洲から菅田を過ぎ、成見橋を渡る。この橋は四万十川流域でよく見かけられる沈下橋である。通学路になっているせいか、ワイヤーロープの手すりが、簡単に取り付けられている。橋は、味も素っ気もないかたちであるが、それが、かえって好ましい。橋を左岸に渡った少し先の桑畑の脇に車を止め、歩いて橋に戻った。ダムと生活排水で少し汚れてはいるがそれでも見た目は澄んでいる。橋の下に青い色のボートが舫ってあるのを入れて写真を撮った。遠い昔、肱川は舟運が盛んであった。この橋の近くには宇津という船着き場があり、穀物や野菜、繭などが積み込まれ、下流からは、肥料や塩が運ばれてきたという。この橋は水運が衰えた後、対岸とを結ぶ渡しか簡素な生活橋のかわりに建設されたものであろう。
 小学校
 桑畑のところにもどると、畑の隣に木造の校舎のような建物が建っているのに気がついた。屋根の上に大きな楠が枝を広げている。建物は廃屋のようで、使われている気配はないが、佇まいがいいようもなく美しい。畑の端を歩いていろいろな角度から写真を撮してみた。左手の小さな建物の脇に橙が成っている。隣の畑には井戸が掘られてポンプがつけられている。その先には火の見櫓が見え、田圃や畑の向こうに青い山波が続く。
 建物の表側に回ってみた。ブランコや遊具があるから、学校か保育園かであったのだろうと思う。ちょうど前の畑で春蒔きの種を撒いていたおばあさんが手をやすめていたので、訊ねてみると「これは昔は小学校でね、菅田の小学校に統合されてからは、倉庫になっとるんですよ。私の息子も今、52じゃが、通うとりました。」とのことだった。息子さんが通っていた当時、すでに校舎は建てられてから、相当に年を経ていたという。大きな楠は学校が建てられた当時、記念に植えられたもので、道路際に建つ新しい公民館の場所に、以前は講堂が建っていたのだそうだ。
 後で家に帰ってから、大洲市誌を見た。宇津村には明治初めに旧士族の加藤良顕という人が、7歳から16才までの生徒約20名に教えていた寺子屋があった。明治8年には学制発布を受けた小学校が民家を使って設立されている。その校名を「就正」といった。当時は私塾や寺子屋の延長としてつくられた学校が多く、校名は漢籍から啓蒙的な言葉を選んで付けられたケースが多かったという。建物も寺院や民家を代用したものが多かったそうだから就正小学校はまさしくそのようなものであったにちがいない。
 堂々と聳え立つ楠の様子から考えれば、樹齢が百年としても決しておかしくない。今建っているこの建物は、明治20年文部大臣森有礼の小学校令により宇津村字成見に設置された小学簡易科であろうか。そうでなければ、明治25年に小学簡易科が廃止され宇津尋常小学校が設置された当時のものであろうか。寺子屋から引き継がれた山裾の民家の小学校が役割を終えた後、肱川の船着き場のすぐ近くに新しい校舎が建てられたのであろう。宇津の小学校は後に分校になり、菅田小学校に統合された。その後、かつての学舎はかなり傷み、手も加えられてはいるが、地域の人々の思い出とともに、大切に使われ続けたのにちがいない。楠の巨木の下に安らぐ校舎の廃墟を眺めていると、元気のよい子供達が新しい木の香りが漂うモダンな校舎で学び、川船が行き交い、魚影の濃かったであろう肱川で遊んでいた頃の様子を想像してしまった。

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1996-2012


桑畑からの宇津尋常小学校跡。戦前、宇津は有数の養蚕地帯であったという。肱川本流の自然堤防が桑畑に利用されていたそうだ。
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このあたりに宇津の船着き場があった。肱川本支流の水運が主体であった、明治から昭和初期にかけて、肱川には約20の河港があり、川船は約200艘を超えたという。

豊かな田畑が広がる農村、宇津。

大野家長屋門
小学校の跡から大野家はすぐ先だ。約250年前、江戸時代中期に建てられた建物。大野家は宇津村成見の庄屋を務めた家で、戦国時代に背後の山中にあった宇津城の城主大野氏の裔であるという。

大野家の中庭と井戸

大野家の里山

菅田小学校に通う小学生が帰ってきた。

開学記念に植えられたという楠が聳える。