宇和町伊延に彫刻家で造園家のケース・オーウェンスを訪ねた。ケースがつくった、周囲の景観と見事に調和した建築と庭園、そして石の彫刻作品の世界に心を揺さぶられた。そこには、自由で、真に個性的な芸術家の精神がたしかに脈打っていた。
大きい人
宇和町東多田の県道から山裾の細い道に入り、坂道をゆっくりと上がった。緩いカーブを、曲がりながら、視線を上に向けた一瞬、私は息をのんだ。前方の青く澄んだ空、近くや遠くの山々、そして道ばたの茶畑や田圃がつくる風景の中心に、鉄錆色の高く大きいドアと、細長いすっきりした窓をもち、外壁にオレンジ色の石垣が斜めに積まれた、白く四角い建物がくっきりと、静かに建っていた。
簡素で、余計な装飾は何1つない。お金のかかった、贅沢な建築でもない。しかし、私は、新しく建てられたもので、これほど周囲の景観にとけ込み、美しく、清潔な建築を見たことがあっただろうかと思った。その白い家が、ケース・オーウェンスが約3年間かけこの地方をまわり、気候や地形を自分で確かめて、建てる場所を選び、その土地の自然と語り合いながら、約1年を費やして自分の手で建てた「芸術家の家」であった。
オレンジ色やグレーの石を混ぜ合わせた石垣の塀の手前で、金髪で色白の、がっしりした背の高い男が防塵マスクをつけ、音と埃を盛んに立てながら石を刻んでいた。彼がケース・オーウェンスだった。
アーメルスフォールト
ケース・オーウェンスは、1958年に、オランダのほぼ中心に位置する、ユトレヒト州のアーメルスフォールトに近い小さな町で生れた。1歳の時にアーメルスフォールトの市内に移り、以後、この地で育った。
アーメルスフォールトは、ライン川の支流アーム川にそった都市で、人口は約10万、この地方の鉄道交通の要衝で、13世紀半ばに成立した歴史の古い町である。城壁でかこまれた町の中心部には、今も昔のままの町並みが保たれ、コッペルポールト水門や美しい教会堂、95メートルもの高さをほこるゴシック様式の鐘楼など、中世の建造物が現存している。また、抽象と単純化の理論で絵画の流れを変え、建築、工業デザイン、そしてグラフィック・アートにも深い影響をあたえた、20世紀のもっとも偉大な芸術家の1人、モンドリアンの生地でもあり、運河のそばには、モンドリアンが生まれ育った煉瓦造りの家がある。
ケースは、アーメルスフォールトから鉄道で約20分の州都ユトレヒトにある王立園芸大学(Royal Horticultural Colledge)で造園や景観工学を学んだ。世界の庭園を紹介した本で日本の「枯山水」の写真を見て石と砂でつくる簡潔な日本庭園の美に強くひかれ、実際に日本で庭石に置き方を研究しようと決意する。
日本庭園と石彫
大学を卒業して1年半の兵役義務についた後、スイスのグラウビュンデン州の山の町、パーパン(Parpan)でアルバイトをして旅費をつくり、1928年に初めて来日した。憧れの地であった京都のひどく観光化した姿は、日本に対するケースの幻想を打ち砕いたが、京都を手始めに、丹念に日本の庭を見て歩いた。山口の雪舟の庭や、鹿児島の知覧の武家屋敷の庭が記憶に残ったという。九州の別府から「天赦園」の庭を見るために宇和島に来たケースは、偶然、造園会社の社長と知己となった。「石の庭の作り方を学びたい」と言ったケースにその社長が半ば冗談で発した「うちの会社で働かんかな」という誘いに応じ、1度オランダに帰国した後、宇和島に戻る。愛媛県津島町の南楽園の大きな日本庭園の仕事をしていたその造園会社で約2年半、職人たちと一緒に仕事をしながら、日本庭園の石の置き方、組方を体で覚えた。日本の造園を身につけた後に、紹介された芸術家田中坦三のアトリエに約1年間通って、自然石をいかした彫刻の手ほどきを受けた。
ケースは、自らの石の彫刻を組み合わせた独自の庭園をつくる仕事を始めるために、一旦、オランダに帰って、会社を設立する。自分で納得できる仕事だけしか手をつけなかったため、始めは、厳しい状態が続いたが、1992年には、インドネシアにアトリエを建て、日本から助手を呼ぶほどに忙しくなった。そして、今年、ケースは、軌道にのったオランダの会社を手放し、日本での芸術活動に専念するため、宇和町に建てたアトリエに本拠地を移したのである。
Public‐Space Project `98 in Matsuyama‐city
10月11日からの1週間、ケースは、松山市で自作の石の彫刻による「公共空間プロジェクト」を行った。テレビ愛媛のホールを主会場にして彼の彫刻と絵画作品を展示し、同時に、市内の駐車場や、ビルの入口、駅のホーム、繁華街の雑踏など、都市機能がむき出しの公共空間に彼の石の彫刻を置いて、それらの場所を、生き生きした人間的なものに変えてみようと試みた。
日常生活の場である都市空間をつくる仕事を、行政や、都市計画や建築を職業とする人たちだけに任せるべきではない。地域に暮らすあらゆる人々や芸術家たちが、主体的にかかわることがたいせつだと言われて久しい。しかし、誰もが行動を具体化するとなると、難しい現実の前に立ち尽くすというのが正直なところだったと思う。ケースは、「ぼくは、言葉じゃなくて、とにかくものをつくって、実際にできることからやる」と言う。
雨の松山で、人々が、日常の都市空間にケースが置いた石の彫刻を発見して、足を止めて眺めたり、手で触れてみたりする。石の感触や形に自由な想像を巡らせる。ただその場所の機能しか見えない、冷たくよそよそしい空間が、ケースが彫刻作品を置くことで、豊かでくつろいだ人間的な表情を見せる。
今回は、初めての、しかも短い期間のプロジェクトだった。場所の制約も大きかった。ケースの払った労力は相当のものであったが、あるいは、このプロジェクトによって地域の人々に、人間的な都市環境とは何かということについての関心が引き出されたとは言えないかもしれない。しかし、自由で個性あふれる精神を持った1人の芸術家が、社会との不断の接点を持った芸術活動をすべきであるという信念を持って実践したこのプロジェクトの意義は大きい。ケースの公共空間を使ったプロジェクトは今後も、松山で継続して行われることが決まっている。ケースの活動が、少しずつではあっても、われわれが日常生活をおくる都市空間をどうやって、人間的で豊かなものに変えていくかということについての問題提起となることを信じてうたがわない。
〈参考〉
愛媛雑誌97年11月号高畠麻子「人間探見」