第71回 鳥坂峠を越える
東宇和郡宇和町
法華津峠、歯長峠、笠置峠、野福峠、鳥坂峠……山に囲まれた宇和町には古い歴史を持つ美しい峠道がたくさんある。新緑の中、その中の1つである鳥坂峠を越えて、大洲市の札掛大師まで歩いてみた。
命をたもつ峠道
たとえ、かつては殷賑を極めた名のある峠道であっても、新しい車の道が拓かれ、峠の下にトンネルが抜けると道は一気に廃れていく。峠の茶屋は廃屋となり、踏む人のない道は草の繁るがままに荒れ果てて行くのである。泉鏡花の『高野聖』ではないが、夏の盛りに、そういう人跡の途絶えた峠道にさしかかると、背丈ほども延びた雑草が路面を隠し、道であるのかどうかさえ判然とせず空恐ろしい気分に襲われる。時には蛇が顔を出すこともある。
自然の山を削り、道を切り拓きながら、人間は一旦便利な道が通れば、旧い道は見捨てて顧みない。人通りが絶えたことをよいこととして、産廃や不用になった家具を不法に投棄する輩も少なくない。そんな人間の身勝手や不実を咎めているのだろうか、道を覆った草や木も人を癒す自然の草花ではなく、悪意を持った生き物のように思えてくるのである。斜面の林の中にまるで白骨のように散乱するゴミを見ていると、険阻なけものみちの方がやさしさを感じさせるのではないかとさえ思うことがある。
ところが、幸いなことに私たちの住む地方には四国遍路の道が守られている。そのために、旧い峠道がかろうじて命を保っている場合が少なくない。ふだんは人通りがなく、峠の茶屋などはもとより跡形もなくなっているが、今も歩いて峠を越える四国遍路の人たちがいる。お遍路さんは、後に続く人のために、要所、要所の木の枝に小さな布きれの道しるべを結ぶ。地元の人たちも夏が来る前に、草を刈り払うので歩きやすく、道に迷う心配もない。路傍の石仏や古い道標もそこここに健在だ。1人1人の「善根」が守ってきた、そういう峠道の中で私の好きな道を1つあげれば、内海村から津島町への遍路道にある柏坂がある。若き日の女性史家高群逸枝も『娘巡礼記』の旅で越えた峠である。
鳥坂峠
私は、そんな古い遍路道にある峠道のひとつ、鳥坂峠を越えてみたいと思いついたのであった。4月下旬のよく晴れた日の朝8時過ぎに家人の車で吉田町を出発。卯之町の町中を抜け、国道56号線の東多田交差点を過ぎる。集落が尽きたあたり、右手の墓地の前に「従是南宇和嶋領」と刻まれた御影石の石柱が立っている。「宇和の歴史探訪記」(門多正志著 社団法人宇和郷土文化保存会発行)によれば、かつての藩境を示すもので、もとは東多田にあった宇和島藩番所に立っていたそうだ。鳥坂峠の登り口である大洲藩側の鳥坂番所跡へは、少し先、国道が上り坂になった場所を、「四国のみち」と小さな遍路道の案内標識に従って、左折する。新しく拡げられた道である。少し下ってつきあたった道を右に曲がるとすぐに、左手の山裾に四阿が見え、年経て小さな遍路道の道標が立っている。私はそこで車を降りて1人で歩き始めた。時刻は午前9時。
車道から、左のコンクリートで舗装された細い坂道を上がった。20メートルほども歩くと、道の右手に旧大洲藩鳥坂番所跡である古風な住友家の邸や蔵が見えてくる。茅葺きの屋根が瓦に葺き替えられ、内部は改修されているが、主屋は昔の姿をよく止めているという。庭先から眺めると、蛙股のある堂々とした玄関の屋根の破風には立派な懸魚が下がっている。白壁の蔵の屋根の上に広がった新緑が目に鮮やかだ。
旧番所の建物を過ぎると、道は薄暗い植林の中に入って、少しずつ爪先上がりになる。右下に溜池を見ながら、しっかりした、岩肌を削ったような道を上っていく。少し汗ばんできた頃、右側がひらけて、青い空が見えてきた。道のわきにシャガの花が乱れ咲いている。草むらには小さな石仏がある。下から20分ほど歩いたところで、一旦車の通る未舗装の林道と交差した。その林道を横切って向かい側の斜面を斜めに上ると、右下に初めて麓の田畑や集落が見えた。そこから数分、植林の中に続く道を登る。路肩に石垣があるところを過ぎるとあっけなく峠の頂上に着いた。標高は約430メートル。桧の植林に展望は遮られているが、国道の車の音も聞こえず、とても静かな場所であった。麓の番所跡から、ゆっくり3、40分程度の登りである。道の左手に小さな石仏を脇に従えた御大師さまと思われる石仏がある。右手の茂みに続く道を入ると、かつての関所か茶屋の跡と思われる建物の基礎の石垣が残っている。蔦が絡まり荒れ放題であるが昔の様子が偲ばれる。
札掛大師
写真を撮っていたら、パタ、パタ、バタと頭上でなにやら音がする。驚いて上を見たら烏の羽音であった。20分ほど頂上にいて、植林の中に続く道を札掛大師に向かって下った。道はすぐに林道と合流するが、しばらく進むとまた旧い遍路道に戻る。なおも下ると、そのうちに県道に突き当たる。しばらくは県道を歩くことになる。幅広い道に退屈しかけたころ、草むらの中に小さな遍路道の案内板があった。その道が札掛大師への最後の下りであった。
宇和町側の登り口の標高が高いせいで、坦々とした下りの方が時間がかかり、美しい新緑のモミジにおおわれた札掛大師の門に着いたのは頂上を出発して約1時間後の午前11時過ぎ。鐘を撞き、本堂に賽してから、境内でしばらく休んだ。見まわしても人気がまるで無い。昨年の地震のせいかずれた屋根に青いシートが掛けてあった。札掛大師を午前11時半に出発。すぐ先の大洲市立南久米小学校前の公衆電話で家人に迎えをたのんでから、国道沿いの札掛バス停に向かった。
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