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第40回 宇和島掃苔録
 
愛媛県宇和島市 
 宇和島は掃墓(そうぼ)の楽しみの多い町である。散歩の道すがら、ふと行き当たった寺に入ると、幕末維新の時代に活躍した故郷の先人達の墳墓の1つ2つには必ず出合うといってよい。夏の嵐の1日、宇和島の寺を巡り、伊達家ゆかりの人々や、明治の漢詩人中野逍遥、ジャーナリストの末広鉄腸、詩人の高橋新吉などの墓所を訪ねた。

 掃墓(そうぼ)の興
 永井荷風は、「掃墓の興」すなわち、自分が生れる以前の、見知らぬ時代に生きた人の墓を訪ねて歩くことの楽しみについて、次のように書いている。
 「見ざりし世の人をその墳墓に訪(と)うは、生ける人をその家に訪うとは異(ことな)りて、寒喧(かんけん)の辞(※寒さ暑さの時候の挨拶のこと) を陳(のぶ)るにも及ばず、手土産たずさえ行くわずらいもなし。此方(こなた)より訪はまく思立つ時にのみ訪(と)い行き、わが心のままなる思いに耽(ふけ)りて、去りたき時に立去るも強(しい)て袖(そで)引きとどめらるる虞(おそれ)なく、幾年月打(いくとしつきうち)捨(す)てて顧(かえり)みざることあるも、軽薄不実の譏(そしり)を受けん心づかいもなし。雨の夜のさびしさに書を読みて、書中の人を思い、風静(しずか)なる日その墳墓をたずねて更にその為人(ひととなり)を憶(おも)う。この心(こころ)何事にも喩(たと)えがたし。寒夜(かんや)ひとり茶を煮る時の情味(じょうみ)いささかこれに似たりといわばいうべし」((れきせんしょうようき))
 龍華山等覚寺
 時は7月も末の南国宇和島。荷風の推奨する「牡丹いまだ開かざる夏の初(はじめ)」という墓探しに適した時候ではない。梅雨も明けて、暑さもひとしきり高じ、藪蚊も出れば、雑草もはびこって蛇さえ顔を覗かせかねないという今日この頃である。おまけに今日は台風5号の余波で強い雨が降ったり止んだりという天気だ。
 私は市内から、傘をさして、史跡巡りの案内板をたよりに宇和島藩伊達家の墓所がある龍華山等覚寺に向かった。少し上りかげんの道を15分ほど歩いて左手に曲がり、橋を渡ったところに等覚寺の山門が見えた。
 石段を上がり、楼門をから境内に入ると正面に本堂がある。右手には「汽笛一声新橋を…」の鉄道唱歌や文部省唱歌の「青葉の笛」をつくった大和田建樹が生れ育った家がある。中に入ってみたら、がらんとした畳の部屋の奥に建樹の肖像写真が掛かっていた。
 外に出て、本堂を通り過ぎ、墓地の間を通って小さな門を入ると宇和島藩祖伊達秀宗らの墓所である。ひときわ大きい秀宗の墓の五輪の塔の脇には殉死した4人の家来達の墓もあった。秀宗は伊達政宗の長子であるが、秀吉の養子格で元服したため、徳川を憚って仙台の後嗣とならなかったのだという。
 本堂裏手に回って、維新の政局で重きをなした8代藩主伊達宗城夫婦の墓に参った後、伊予で最初の公刊俳書『大海集(だいかいしゅう)』の撰者、桑折宗臣(こおりむねしげ)の墓がある場所を尋ねるために、庫裏を訪うた。広い玄関には運動靴や野球のスバイクが並んでいる。「ごめんください」と声をかけると「はい」と答えて少年が出てきた。墓の場所を聞きたいと言うと、少年は「あっ」と言って奥に引っ込み、しばらくして、住職のご夫人が出てこられた。ご夫人は桑折宗臣の墓の場所を丁寧に教えてくださった上に、本堂に安置してある秀宗ら伊達家の人々の位牌を拝させてくださった。檀の上に並んだ位牌は、さすがにどれも堂々とした大きさであった。昔はそれぞれが厨子に納めてあったそうだが、太平洋戦争末期に、空襲に備えて現在のように1ヶ所にまとめられたのだそうだ。
 桑折宗臣の墓
 本堂から、桃山時代の様式を伝える等覚寺の庭園を拝観させて頂き、また墓地に戻った。桑折宗臣の墓所は先ほどの伊達秀宗の墓所の手前にあった。やはり大きな五輪の塔である。風化した石の表面に宗臣の忌日である貞享3年(1686年)、3月3日の3の字が2つだけうっすらと読める。
 桑折宗臣は伊達秀宗の庶子、4男として江戸で生れた。7歳の時に家臣である桑折家の養子となって母とともに宇和島に移り住み、9歳で桑折家16世の当主となった。19歳で城代となったが、実際の政務は養父が取り仕切ったという。実父である秀宗と異母兄である宗利の2代に仕えた後、寛文4年、31歳の時に城南の河内山に青松軒という庵をむすんで隠居し風雅三昧の暮らしを送った。同じ妾腹の異母弟、宗純(むねずみ)の吉田藩3万石分封という出来事などが生来の文学好きに拍車をかけたという説もある。俳諧では北村季吟に師事した。寛文12年(1672年)公刊の『大海集』など、和歌、連歌、俳諧について多くの編著書がある他、『文宝日記』を書き残した。
 『大海集』には宗臣の「大海に塵(ちり)をも選ぶ海鼠(なまこ)かな」の句があるが、当時の日本の39ヶ国の俳人832人(内宇和島領内の俳人が156人)の約5,000句が収められている。
 宗臣は、『大海集』自序に「句のよしあしも正し侍(はべ)らず。少人、女性(にゅしょう)の句、など、たまたま言い出す内なれば、何事も見ゆるしてとめ侍(はべ)りぬ」と書いた。女性や座頭、子供たちがたまさかに、ものした佳句をへだてなく、書きとめた宗臣は、宇和島人らしく、あたたかい心を持った人であったに違いない。彼は俳諧や文芸を、寛いだ老若男女を問わぬ、多くの人が表現の場を共有する場としてこそ愛好していたのであろう。
 金剛山大隆寺
 藩政時代、等覚寺や大隆寺などは、寺の名に藩主の法名を付けていることから、それぞれ、龍華山、金剛山と山号で呼ぶ慣しであったという。龍華山を後にして、金剛山大隆寺に向かった。台風で水量の増えた川の脇の道を歩き、15分ほどで大隆寺に着いた。山門をくぐって、本堂の脇の道から、秀宗夫人亀姫の墓の脇を過ぎ、7代宗紀(むねただ)春山候の墓所に上った。時たま、雨が激しく落ち、山の方から水が流れ落ちてくる。足元がおぼつかないので、9代宗徳(むねえ)の墓まで行って、1番奥の5代村候(むらとき)の墓所は眺めただけで引き返した。
 5代藩主村候は宇和島藩の藩学内徳館(後の明倫館)の創設者である。藩に学問を愛好する気風を醸成し、幕末に宇和島が日本の洋学の先進地となる基礎を作った人ともいえる。私は書院に戻り住職に、村候の内徳館創設とともに学政を司った「宇和島藩教学の祖」安藤陽洲の墓の場所を尋ねた。墓は宗紀の墓所への道の途中、納屋を過ぎて少し行った右側にあるという。道を引き返して、参った教学の祖、陽洲の墓は草に覆われていた。大きな墓ではないが、細かい字で墓石の側面に碑文が一杯に刻まれている。陽洲は伊藤仁斎の起こした古学派、京都の古義堂の俊秀で、村候に招かれ、30数年にわたって宇和島藩教学の振興に力を尽くした。子弟をよく薫陶し、天明3年(1783年)4月12日没。享年66。資性剛介、詩文をよくした人であったと伝えられる。
 私は、金剛山の西の谷にある山家清兵衛の霊廟に参った後、宇和津神社の方向に歩いて大超寺に向かった。

〈参考〉
『宇和島の自然と文化(5版)』 宇和島文化協会、『伊予俳諧史』景浦勉、「桑折宗臣の心事―疎外の心情と境涯―」和田茂樹、『伊予路の庭園』日本庭園鑑賞会編、荷風随筆集(上)野口富士男編(岩波文庫)『愛媛県史』文学編

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1996-2012


宇和島藩祖。伊達秀宗の墓所
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等覚寺の山門
空襲に遭った等覚寺に残るただひとつの往時の建築。

秀宗の長男、母、伊達政宗の供養塔の3つの五輪の塔。
宇和島城が見える。

宇和島市丸之内より移築された大和田建樹の生家
建樹は歌人で国文学者であるが、明治から今日まで歌い続けられている数々の唱歌の作詞者として知られる。

秀宗時代に作られた等覚寺庭園 
正面が北東の鬼門であり、伊達家の故地、仙台への望郷の念が込められた庭という。

幕末に活躍した8代伊達宗城夫婦の墓

10代宗陳の墓
東京に宇和島人の遊学のための学寮「明倫館」をつくった人。

伊予で最初の公刊俳書『大海集』の撰者、桑折宗臣の墓。宗臣の実父は伊達秀宗。若くして隠棲し、俳諧に熱中したり、歌を詠んだり、『源氏物語』を読んだりした。

大隆寺山門

金剛山にある和霊神社の祭神、山家清兵衛の霊廟
毎年7月29日が祭日。謀殺された清兵衛は農民に対する税率を安くし、担税能力のない農民には、しばしば取りたてを免除したそうだ。

草むす宇和島藩教学の祖安藤陽洲の墓

天赦園をつくった春山侯伊達宗紀夫婦の墓

桜田玄蕃の墓所
清兵衛の墓の右奥にある墓には雨水が溢れ近づけなかった。筆頭家老で清兵衛暗殺の首謀者とされる。この寺に参詣中、突然梁が落ちて圧死した。