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第35回 春を待つ大野ヶ原
 
東宇和郡野村町 
 東宇和郡野村町小松から寺山地区にかけて広がるカルスト高原を大野ヶ原と呼ぶ。2月の中旬、雪の大野ヶ原に上った。昔に比べて雪が減ったとはいえ、高知県との県境に近い高原は、1メートル近い根雪におおわれて春をむかえる。

 大野ヶ原へ
 1台の車にも出合わぬまま、野村町最奥部の大久保の集落を過ぎると道路は完全な雪道になった。道の両側の、幹に雪がはりついた杉や桧の林が日光を遮り、木々のすき間から冷たく青い空が覗いていた。つづら折れの道を、カーブの手前で注意深く減速しながら上る。
 日吉村へ続く大規模林道との分岐を過ぎて、道標にそって左折し、少し上ると左側に少し視界が広がった。南国の伊予とも思えぬ一面の雪景色に私の心は浮き立った。そのせいか多少アクセルを踏みすぎたようだ。慌ててカーブでブレーキを踏んだとたん、助手席の友人が悲鳴を上げ、車はゆっくりと制動を失い、上ってきた方向にスピンして止まった。
 それから後は、ごく低速で恐る恐る車を進めた。分岐から約20分ほどで、白く凍りついた石灰岩が露出した高原に着いた。
 開拓者魂
 大野ケ原の中心、龍王神社の前にある冬期休業中のペンション「もみの木」に大野ヶ原開拓の草分け武田寛さんを訪ねた。
 武田さんは、昭和21年6月、戦争直後の食糧欠乏の時代に、政府があわただしく実施した食糧増産計画の一環で、愛媛県が大野ヶ原に派遣した開拓増産隊15名の指導者として、最初に大野ヶ原に入植した人である。
 武田さんは昭和14年、19歳のとき中国の旧満州に渡った。現地で召集を受け、台湾で敗戦を迎えた。
 21年4月に復員、戦後の故国のあまりの荒廃ぶりに行く末を思い悩んだとき、ふと武田さんの脳裏に浮かんだのが、旧満州で見た白系ロシア人の姿だった。ロシア革命で国を失った彼らは旧満州の原野で牧畜業を営みながら平和で豊かに暮らしていたではないか。自分も、未開の原野で自然を拓き、牛を飼って生きようと決意した武田さんは、さっそく、恩師である長野唯夫県立営農伝習場長のところに出掛けた。そして、自分の考えを話し、北海道行きのつてをもとめたのである。
 ところが、当時、たまたま、愛媛県開拓増産隊長を兼務されていた長野氏は、北海道行きを希望する武田さんに「君、北海道に渡らなくとも、北海道に負けない大野ヶ原という未開の原野が本県にある。君の夢を是非この大野ヶ原開拓に託してみてはどうか」とすすめた。
 武田さんは、実際に見分した大野ヶ原のスケールが旧満州の草原に比べると猫の額のように思われたそうであるが、恩師の言葉を入れ、ついに入植を決意された。
 「よし、ここ(大野ヶ原)で自分の夢を実現さそうと決意をかため、増産隊幹部といういかめしい肩書をもらって、蒲団1組、リュック1個という軽装で踏み込んできた。このときから、私と自然との苛酷な戦いが始ったのであります」(武田寛『開拓20年の回顧』)
 雨季の湿度は100パーセント。テントではとても寝られず、原野にぽつんと建っていた竜王神社のお堂で、穀類も炊かず、すべての食物を生のまま食らう荒修行の山伏たちと起居をともにすることとなった。夏には、越冬住宅の建設を始めたが、木材は麓の野村町小屋集落から6キロの急な山道を人力で運んだ。暖房用のオンドルの石はもっと下った、舟戸川の上流からこれも人力で運んだ。9月末には、初霜が降りたが、工事は遅々として進まない。結氷期の12月中旬になってようやく茅葺き10坪の越冬小屋が完成した。
 「荒れ狂う猛吹雪、零下18度を記録した酷寒、軒を埋める丈余(じょうよ)の積雪。
 乏しい食糧で飢えに耐え、凍りついたいぶすような生木で寒気を凌(しの)ぎ、3月末陽春の雪解けを迎えたあのときのうれしさ……地上の万物すべて生へ甦った、わき上がるような活気がみなぎり、源氏ヶ駄場の頂上に立って大気を腹いっぱい吸い、くじけんとする気をとりもどし、吾(わが)行く道は遠く険(けわ)しくとも、この原野を開拓して豊かな理想郷を築かなければならないとの決意を新たにしたものです」(『開拓20年の回顧』より)
 武田さんから、昭和34年秋に乳牛仔牛価格の暴落を捉え、一気に酪農への転換を図るため、京都府丹波地方に乳牛40頭の買い付けに出掛けた話をうかがった。食糧増産に固執する県から融資がなく、全戸が和牛を換金して購入資金を作った。武田さんは40頭の牛と一緒に貨車に起居し、丹波から舞鶴、宮津線経由で姫路へ出て、宇高連絡船を経て当時の国鉄大洲駅まで約5日間かけて牛を連れ帰った。翌年にはさらに30頭。しかし、そうして連れてきた牛が太らない。太らないどころか痩(や)せて行く……。
 今日、無雪期の大野ヶ原高原には、牧草が豊かに繁り放牧牛の群れがのどかに草を食む 風景が見られるが、開発初期の苦労に続いてなお、筆舌に尽くし難い数々の蹉跌(さてつ)と犠牲が続いたのであった。
 武田さんの静かで穏やかな表情と語り口には、それを乗り越えてきたものの、ゆるぎない風格を感じた。かつて、開拓20年の歴史を綴った武田さんは、開拓とは何も無い白紙に高く遠い夢を描き、1歩1歩、たゆまぬ不屈の精神で前進を続けることであると書いている。
 昭和24年に結婚されて以来、弘法大師も匙を投げたという大野ヶ原開拓の苦労を武田さんとともにされた奥さんの京子さんの歌
「星霜の流れを思う高原の
      開拓の村乳牛群るる」
 大野ヶ原小学校
 武田さんに肉牛の牛舎と隣の酪農家黒川さんの牛舎に案内して頂いた後、大野ヶ原小学校を訪ねた。一夜ヶ森と源氏ヶ駄場を間近に見上げる雪の校庭では、6人の生徒が体育の授業中だった。かまくら造りとそり滑りである。若い宮本真治先生は、大野ヶ原1年目。かまくら造りのベテラン、6年生の山本梨沙(りさ)ちゃんがスコップをふるって、小さな雪の山の内部を掘っている。上を踏み固める子もいる。1年生は小さいスコップを握ってあまった雪を取り除いている。まるで雪国の風景だ。しばらくの間、仲間に入れてもらった。
 給食の時間になったので、学校を出て、かつての研修センターの方に上がり、今回の大野ヶ原の旅に同行してくれた、彫刻家の友人と一緒に、「森の魚」の彫刻家藤部吉人(ふじべよしひと)さんの山小屋を訪ねた。藤部さんは彼の古い知人である。三間町の人だが、大野ヶ原の自然の素晴らしさに魅せられ、ここを離れられなくなって、アトリエを作った。
 暖炉の薪で煙った山小屋で、藤部さんは突然の来訪者においしいワインとスパゲッティ・カルボナーラをご馳走してくれた。藤部さんは若い修行の時代に、イタリアのカラーラに8年間も暮らしたという。スパゲッティは、遠慮を吹き飛ばすくらいにおいしかった。友人は「山で食べればなんでもおいしい」と余計なことを言ったが、私にはそれでも格別においしく思われたのである。
 夕刻まで雪の積もった牧場のスロープを滑ったり、小屋で煙い暖炉にあたってビールを飲みながら話をしたりして、ゆっくりと過ごした。
 空の色がうっすらと染まり道路の脇の雪の壁が青白く光り始めた頃に、われわれは今晩の宿、惣川の土居家に向かって大野ヶ原を後にした。帰りの運転は友人に任せた。

大野ヶ原略年表(明治以後)
1904年~
1908年まで陸軍善通寺11師団の砲兵演習場

1919年
大正8年営林署植林地に

1927年
大久保の竜王神社を勧請

1939年
軍馬放牧場となり40人から50人が居住

1946年
開拓増産隊15名入山大野ヶ原開拓始まる

1953年
屋、大野ヶ原間の道路開通

1954年
電気導入・共済組合山の家完成

1955年
野村町と合併。惣川村大字小屋の時代終わる。美濃早生大根で活路。大野ヶ原大根として有名になる(後、連作障害)

1958年
水道竣工、小中学校独立

1959年
丹波より乳牛40頭導入無線電話開通


愛媛県有数の酪農家、
黒川さんの牛舎で

1963年
定期バス開通

1966年
小中学校鉄筋校舎完成

1970年
中学校は、惣川中と統合大野ヶ原の世帯数37戸、住民141人

1980年
定期バス廃止

1999年
定期バス廃止


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1996-2012


学校の背後のスロープでそり遊びをする大野ヶ原小学校の子供たち
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大野ヶ原への道

宮本真治先生と三瀬真佐希君

武田寛さん。2男の拓也さんが経営する「ペンションもみの木」で。昭和21年15名の開拓増産隊の指導者として入山。開拓初期の雑穀農業から酪農への転換を、不屈の開拓者魂で主導し、今日の大野ヶ原をきずいた。ブナの原生林を心から愛し、長年その保護にも力を尽くされている。

雪と牧草。今はサイロではなくラップして保存する。

かまくら造り

森の番人(藤部吉人作)

源氏ヶ駄場
南部高知県境にある大野ヶ原最高峰、老年期のカレンフェルト(ノコギリの歯のような地形)。標高1,400メートル。

給食の時間。土居春賀先生と
4年生の萱原由衣さん、
1年生の三瀬真佐希くん、
佐伯祐美さん。



小学校の隣のポニー牧場。
猪や鹿もいる。

藤部さんの山小屋

スパゲッティ

雪の壁

今晩の宿は茅葺き民家の土居家