第68回 まぼろしの猪料理
北宇和郡津島町御内~上槇~岩松
戦後の混乱を避けるため、津島町岩松に疎開して約2年間を暮らした獅子文六の小説や随筆に引かれ、何度か津島町をたずねている。2年前には文六が推奨しておかぬ白魚のおつゆに挑戦して敗退した。
1月の終わり、しらうお祭のにぎわいに触れたのち、御内を経て上槇に向かった。
ウソつき
暮れにインターネットの古本屋で驚くほど安く買った獅子文六全集全16巻の随筆や小説をとっかえ、ひっかえめくっていたら、また、なんとなく津島町を訪ねてみたくなった。そんなわけで、今回の津島行きも2年前の白魚と同じく、導きは「ウソつき」の名手獅子文六である。
文六は
「私の小説はウソばかりである。世の中が変わって、これからは新しいウソを製造せねばならぬが、そう右から左にはいかない。ホントでもかまわぬというのなら、種は無数にころがっているから、書くのもいいが、書く方もつまらなく読む方も面白くあるまい。第1、それは小説ではないとの断り書を付するのもめんどうくさい」(『ありふれた話』)と書いている。ユーモア小説の傑作『てんやわんや』も小説だから、舞台になった津島町の岩松やその周辺には、モデルに比定される場所や人物には事欠かないが、いずれにせよ、モデルはモデルであって、小説では文六の比類無き手腕でみごとなウソにつくりあげられている。『てんやわんや』と表裏をなすかに見えるシリアスな私小説の『娘と私』もやはりウソであることにかわりはない。文六にしてみれば、ただ事実を漫然と書き連ねて小説になるのなら苦労はないということであろう。
従って、モデル探しなどは愚かの極みということになるが、逆に、文六が小説や随筆に表現した「ウソ」、たとえば、南国津島の風土や人気、食べもののいろいろには、文六が、その澄んだ眼で、人間に対する矜持と愛情をもってとらえた真実を超えるリアリティがある。だから、私は、文六の「ウソ」を読んで、懲りずに何度でも津島へ出かけてみたくなるのである。
幻の猪料理
2年前の白魚のおつゆは散々だった。私は無理をして高価な白魚をたくさん買い込み、文六が書いた通りの方法で、生きた白魚のおつゆを作ってみた。しかし、煮え立ったおつゆに生きた白魚をどっさりと放り込んでも、中国料理の「燕の巣」のようなぬめりと濃厚な味わいは得られず、家人に「残酷」などと言われる始末だった。いまだに、私にとって文六の「白魚のおつゆ」は幻のままである。
さて、今回は、『てんやわんや』と随筆『架空旅行記』にある猪料理。『てんやわんや』の主人公は南伊予と土佐の国境山脈の1部、海抜1,000メートル近くの黒霧山にある通称檜扇という山村に泊まりがけの小旅行に出かける。小説の描写をたどると舞台は津島町御内周辺の山間部と思われるが、それは「ウソ」だからはっきりはしない。主人公は、一夜の宿を借りた山村の家で「猪の子」をご馳走になる。(もっと知られた挿話もあるがそれは他の話である)まず小説『てんやわんや』から引用してみよう。
「もう、ええ頃やなかろうか」銅八さんの声が聞こえた。見ると、彼と細君とが、囲炉裏の灰の中から、何か大きな黒い塊を、引き出してるところだった。途端に、焙り肉の芳香が、私の鼻を突いた「うん、よう焼けとらい」灰に塗れた肉塊を、力任せに、銅八さんが引き裂いた。中からボロボロ、味噌のようなものが、零れ落ちた。1口味わって、私は、その珍しい味に驚いた。「猪の子ですらい。腹に醤油粕と山野菜を詰めて、灰で蒸し焼きにしただけで、ほんの山家料理ですらい」。
御内(みうち)へ
私はこの「ウソ」の料理について、できれば知りたいものだと思って出かけてきたのであった。宇和島から国道56号線を走り、松尾トンネルを抜け岩松の手前で「御内」という案内に従って、県道4号線を左に折れる。しばらく走ると左手に随筆『田舎の句会』に書かれた寺が見える。石段に沿って蘇鉄が植わっている。どんどん山に向かって走る。道がよくなっていて、国道から、ゆっくり走って30分足らずで御内に着いた。公民館に行き、まず岡崎直司氏に聞いた石垣で積んだ猪よけの垣がある場所について尋ねた。いきなり、猪の子の丸焼きの話を持ち出すのは少し憚られたのである。親切に答えていただいたが、結果ははかばかしくなかった。公民館の人によると、猪よけの石垣は西土佐や黒尊に行く道のはるか山中にあるらしいということと、最近は猪がほとんど獲れていないということであった。不思議なことに、子を1頭しか産まない鹿が増えて、年に200頭も300頭も獲れるのに、たくさん子を成す猪が年に2頭も獲れないのだそうだ。たまたま居合わせた猟をしている老人に文六の書いた料理法をくわしく話してみたが、このあたりでは子供の頃からそんなのは見たことも食べたことも聞いたこともないという返事。ここで、随筆『架空旅行記』のもっと実際的な記述を長いが重ねて引用しておく。
「まずトリタテの猪の子の毛を引き、腹を割き、蔵物を取り去り、別に山ゴボー、山ウド、茸類なぞを細かく刻み、それを醤油の搾り粕に混ぜ込みます。……ツメモノができたらば、これを猪の子の腹の中に詰め、糸にて腹を縫い合わせ、炉辺の熱灰の中に埋め、上にてドンドン火を焚きます。やがていい匂いがして、灰の中から湯気が立つから、鉄火箸にて肉を突き刺し、容易に貫通するようなら、焼けた証拠である。直ちに取り出して、灰を払い四肢を掴んで力強く引き割くと、四人前の肉がとれる。それを熱いうちに、ソースなしで頂きます。醤油粕の塩分が肉に浸みて、頃合いの味の上に、ツメモノの山野菜の香気がなんともいわれません」。
私は、猪料理探索を半ば諦めて、御内から上槇をめざして川に沿って上った。下槇、槇川、谷郷など清冽な谷川に沿って夢のように美しい集落がひらけている。上槇に着いて、上槇小学校跡の近くで畑を耕していた老人にも猪の話を聞いてみた。老人は、猪は今からの季節が脂がのっていちばんおいしいこと、上槇では今でも猪が獲れることなどを語ってくれたが、文六の書いた料理などは記憶のかけらもないということだった。
私は、それから3、4日立った晴天の寒い日に、もう1度御内に出かけ、西土佐から黒尊へ通じる林道に入った。今回は嫌がる家人を頼み込んで連れてきた。「山の神橋」という、やや畏怖すべき名の橋を渡り、葛折の道を雪の残るトンネルの手前まで上がって引き返した。薄暗い植林の中に集落の跡とも思える豪壮な石垣のあとがいくつも見えたが、猪料理について話を聞こうにも、そこには、もう人の姿がなかった。
というわけで、文六の書いた猪料理の行方はわからずじまいで終わってしまったが、調理法はそれほど難しくはないと思う。誰か、作ってみる人はいないものだろうか。
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