第41回 三瓶紀行
愛媛県西宇和郡三瓶町
お盆休みに、有名な鯵や、友人の細君からおいしいと聞いた「ようかんパン」を食べてみたくなり三瓶町を訪ねた。夜には、三瓶の人たちが伝える「朝日文楽」の練習を見せてもらうこともできた。
ようかんパン
三瓶で生れ育った友人の細君に、たまたま「ようかんパン」の話を聞いた。ようかんパンというのは、アンパンの上に、ようかんを被せてあるものだが、彼女は子どもの頃よく食べた味がなつかしく、三瓶に便があるときには必ず大量に買い込んで冷凍しておくという。あんこがいっぱい詰まったアンパンはとても充実感がある大きさなのだが、スラリとした体つきの友人の細君が、それを1度に2つは食べるのだそうだ。
彼女に聞いた米木(よねき)さんという名前をたよりに、「大街道」という広い通りに面した「米木福助堂」というお菓子やさんに行った。ガラスケースをのぞくと、タルトやお饅頭が並んでいる。ようかんパンは見当らない。店のおばあさんに聞くと「ようかんパンはここにはないんですのよ。パンは津布理の方でつくっとるんです」との答え。もうすぐ、焼き上がる時間だというので、工場の場所を教えてもらった。10分ほどで三瓶高校の裏の工場に着いた。声をかけ、中に入ると、ちょうど、米木忠臣さんと奥さんが、パン焼き窯から焼き上がったあんパンを取り出しておられるところだった。そのあんパンにようかんを被せ、ようかんパンにするところを見せてもらう。なべの中の、少し柔らかいようかんに次々とアンパンをつけていくと、きれいにようかんがアンパンにくっついていく。ようかんが少しも垂れたり落ちたりしないのを不思議がる私に、米木さんが「寒天が入っているからね」と教えてくれた。自分の分と友人の家へのお土産に出来立てのようかんパンを12個わけてもらい、さっそく1個頬張ってみる。ようかんとアンパンの甘さが口中一杯に広がった。しかし、いやみがない。圧倒的な量感である。友人の細君の笑顔が思い浮かんだ。素朴で、実直でなつかしい味。「あんがいっぱい詰まっていますね」と言うと、奥さんが笑いながら「そうですかね」とこともなげに答えられた。
校歌
三瓶製パン場のすぐそばの県立三瓶高校に立ち寄った。三瓶高校の前身は、山下汽船の実業家、山下亀三郎がつくった山下実科高等女学校である。商魂たくましいことで世に知られた亀三郎が、三瓶で生れた母の恩に報いるために私財を投じて「徳操と智能を授け淑良の主婦となるべきものを養成するを目的」にこの学校をつくった。
この山下高女の戦後すぐの校長先生に佐伯秀雄という歌人がいた。佐伯先生は、この学校に友人の詩人坂村真民を教師として招く。坂村は約4年間を三瓶で過ごした。そして、地元のために「三瓶音頭」や「三瓶小唄」をはじめ、さまざまな校歌をつくり、生徒や土地の人々から温厚篤実な人柄を敬慕されたという。そのことを、私は「ようかんパン」の友人の細君のお母さんから聞いていた。お母さんは山下女学校の卒業生なのであった。この三瓶高校の校歌も坂村の作で作曲は「雪の降る町を」の中田喜直である。校庭に数名の女子高生がいたので、校歌の話をした。みんな作者のことをよく知っていた。彼女たちは、さかんに照れながらも、私の懇願を容れ、歌い出しの「たちばなの花は薫り
南の潮はひびく」というところを歌ってくれた。小さな声ではあったが、さわやかな、清々しい歌声だった。校歌は「海山の静かなるところ 真理を究めむ ひとみかがやき……」と続く。
坂村は校歌の他に旧制高校の寮歌のような「生徒歌」もつくっている。それは「古き瓶(かめ)にも 流れよる文化の祝歌 高らかにくみかわして 心静かに 新代(あらよ)の我(われ)をつくらむ」というのであった。
鯵尽くし
町を歩きまわった後、私は少し早い夕食をすませることにした。小さなビルの2階にある「田舎や」(電話0894-33-3899)という店に入った。カウンターに腰を下ろし、壁の品書きを見るとオムライスからチャンポン、タン焼きまでなんでもある。せっかくだから、魚が食べたいと店の人に言うと地物の鯵の「洗い」と「鯵めし」はどうかとすすめてくれた。店の人が、この鯵は今まで生きていたのだと話し掛けて来たが、ほんとうに身がぷりぷりとしまっていて、ほんのりとした甘味があり、とてもおいしい。鯵を焼き、身をほぐして、生卵や味醂、醤油、出汁とあわせて、ごはんにかけた「鯵めし」も、無類のうまさだった。黙々と食べていると、隣に座り合せた、日焼けした屈強そうな青年が「こりゃあ、そこまで三瓶の鯵食うたら、塩焼きも食べないけませんなぁ」と声をかけてきた。三瓶の地物の鯵は「洗い」もいいが、塩焼きがまた格別なのだそうである。私は即座にすすめにしたがった。ところが、これがまたおいしい。しばらくの間、青年や、後から入ってきた老人、店の御主人の3者による「三瓶鯵自慢」が縦横無尽に続いた。曰く、「三瓶の鯵を食うたらよそのは食えん』。「わしにも塩焼き1つ焼いちゃんないや‥」。勘定は驚くほど安かった。
朝日文楽
薄暗くなって「田舎や」を出ると、子供たちが路地で遊んでいた。たしか、三瓶で坂村真民がつくった歌に「母親と夕闇道を帰りくる子の伊予なまり きけば愛(かな)しも」というのがあった。海岸に出て、しばらく歩いた。港のベンチに腰を下ろして涼むおばあさんやジョギングの人たちと出合う。朝日文楽会館は選果場の少し先にあった。2階に上がると、保存会の会長井上勝さんと前会長の清水範雄さんたちが練習の準備に取り掛かっているところだった。文楽のお話を伺いながら、人形の頭(かしら)を見せてもらっているうちに、1人2人と人数がふえ、8時を少しまわった頃に練習が始まった。「艶容女舞衣(はですがたおんなまいぎぬ)」の酒屋の段、そして「菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)」寺子屋の段と続く。人形を操る人たちの一挙手一投足に前会長の清水さんらベテランが、身振り手振りで細かい指示を与える。人間国宝のビデオを見ながら、寺子屋の段を2回さらって練習が終わった時にはあっという間に、10時を過ぎていた。
〈参考〉
三瓶町誌
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