春の1日、四万十川の沈下橋をめぐり、西土佐村の黒尊渓谷から、スーパー林道を宇和島に越えた。
江川崎
愛媛県北宇和郡吉田町の我家を午前9時過ぎに出て、三間町に抜け、松野町から四万十川第2の支流広見川ぞいを走って高知県幡多郡西土佐村の江川崎に着いたのは午前10時を少しまわった頃であった。
江川崎は高知県高岡郡東津野村の不入山を源とする四万十川の最大の支流檮原川と愛媛県から流れてきた広見川とが合流するところである。ここで川幅を広げた四万十川はさらにいくつかの支流を集めながら太平洋に面した中村市にむかって蛇行していく。
江川崎は小学生の頃、当時の国鉄土讃線のジーゼル機関車に乗って家族で訪れたなつかしい場所だ。川船に乗せてもらったり、浅瀬で泳いだりした。川を見下ろす江川崎駅のそばの食堂でお昼を食べた。川魚料理を食べる家族の中で、私だけがグリーンピースののっかった味も色も濃いソース味の「チキンライス」を食べ、それをとてもおいしいものに思ったことをおぼえている。
車を止め、ちらほらと菜の花が咲いている右岸の川原に降りた。檮原川が大きく曲がって合流点に流れ込む左岸の高台にモダンなガラス張りのホテルが見える。人気の高い村営ホテル「星羅四万十」である。天気がよいので川の水は澄んでいて、流れもゆったりとしている。若いインストラクターが水際で2人の青年に漕ぎ方を教えていた。近づいて、見るともなく見ていたら、川でカヌーを転覆させたときの脱出法を細かく説明していた。そのうちに「少しでも早く漕ぎたいでしょうから」とインストラクターが声をかけ、一斉に流れに漕ぎ出して行った。
カヌーは、それほど難しそうではない。スーッと軽やかに進んでいくカヌーを見ていたら、この次は、子供とカヌーで川を下ってみたいものだという気がしてきた。
四万十橋から
江川崎から、40分ほどで中村市の四万十橋に着いた。赤い鉄橋である。昼時になったので、市内に入って食事をする場所を探した。中村は1度幸徳秋水の小さなお墓にまいったことがあっただけだ。最近文庫になった川本三郎の『日本すみずみ紀行』に中村出身の中島丈博が脚本を書いた映画『祭りの準備』の舞台として知られるとあった。新人時代の竹下景子が出演したというが、私はこの映画を見ていない。中村は、川本氏が昭和30年代が舞台の映画だから古い家並みが強調されていたが現在は大きなビルが建ちならぶ小都市と書いた通りの町並みである。小さな暖簾が目についたラーメン屋で昼をすませ、すぐに四万十橋にもどった。
橋を渡って、右折し四万十川右岸の堤防の上の道を川にそって走った。10分もすると堤防を真っ直ぐに走る道が終り、川ぞいのくねくねと曲がる細い道になる。佐田の沈下橋はその道をさらに約10分ばかり走ったところにある。手前に車を止め、橋の方に歩いた。菜の花が満開でむせかえるような甘い匂いを放っている。橋の上から下流の方を眺めると、2人の女性が河岸のコンクリートの堤に腰を降ろしてお弁当を開いていた。少し離れて、1人の青年がウォークマンを聴いていた。
私も川に降り、流れのそばに立って写真を撮った後、川岸に坐った。風が少し冷たいが寒くはない。芽吹いたばかりの柳のやわらかい緑の上に澄みわたった青い空が広がっている。菜の花のあざやかな黄色を映した川面が金色に光って、まるで夢をみているような気分に誘われた。
「日本の橋」
しばらくぼんやりと、佐田の沈下橋や遠くの山並みをながめ、川の流れる音を聞いていた。
沈下橋はコンクリートの人工物であるが、四万十川の風景と実によく似合う。自然の風景にとけ込んだ風情である。手摺も橋の下に渡された水道管もない。およそデザインらしきものが無に近い。大水になったら、無駄な抵抗はせず、水中に身を沈めてしまうというひかえめな性格が姿に正直にあらわれている。
保田與重郎(やすだよじゅうろう)のよく知られたエッセイ「日本の橋」に「日本の橋は道の延長であった。極めて静かに心細く、道のはてに、水の上を超え、流れの上を渡るのである。ただ超えるということを、それのみを極めて思い出多くしようとした」という言葉があるが、佐田の橋だけでなく手摺もなく道と同化したようになって、川を越えていく四万十川流域の沈下橋を見ていると、保田が云う日本人のつつましい自然観のあらわれた、哀れで果敢(はか)ない日本の橋の性格を受継いだもののように思えてしかたがない。 そういう橋にこそ日本人は心と心との相聞の歌を象徴したりしたのだと保田は書いていたはずだ。
黒尊渓谷
佐田の沈下橋を渡り、勝間の沈下橋などいくつかの沈下橋を眺めながら西土佐村の口屋内(くちやない)に向かった。口屋内は黒尊渓谷への入口の集落で、昭和30年に架設された沈下橋がある。その沈下橋の手前にある赤い鉄橋を渡って、黒尊渓谷への道に入った。トンネルを抜けて少し行くと、谷が広がる。古びた石垣の美しい棚田を見ながら先に進む。山がだんだん深くなってくる。集落が途切れそうで、なかなか途切れない。奥屋内の小学校を過ぎてしばらく行くと、左手に黒尊渓谷という木の看板があった。その看板の隣の丸太の上に小さな枯木の鳥がいっぱいにとまっている。ハッとして車を降ると、枯れ木でつくられた様々な鳥や動物が渓谷を見下ろす道路の脇や右手の山裾にたくさん置かれていた。四万十森林管理署黒尊詰所に勤め、黒尊の山にヒノキの苗木を植えたり、下草を刈る仕事をしている有田光照さんがつくったものだ。手を加えていない枯木がまるで生き物のような表情を持って甦っているのにほんとうに驚いた。
制作者の有田さんは、宿毛市で生れたが、早く父上を失い、御母堂の郷里黒尊に戻った。以後は、小学校の4年生の時に結核を病んで2年間中村の病院で療養生活を送った他は、黒尊で育った。奥屋内の中学校を卒業した後は地元の人たちが年老いた御母堂の世話が出来るように当時の中村営林署奥屋内担当事務所への就職を斡旋してくれたそうだ。それから、ずっと山の仕事を続けてきた。
有田さんは数年前に、枯木を集めて、平家物語の登場人物の顔を彫ったりしていた。そんなあるとき、山で木を拾っていて、鳥の形にそっくりな木を見つけ、鳥や動物たちのオブジェを作りはじめたという。
後で聞いたことだが、奥屋内の小学校では、3月26日に休校式が行われたという。また、黒尊は少し寂しくなる。しかし、黒尊渓谷を訪れた人たちは、有田さんの枯木の動物たちを見て、足を止め、驚き、あれこれと会話をかわし、不思議な感動に満たされるに違いないと思う。
少し先に黒尊神社の小さな鳥居があった。巨大な杉の木が参道に立っている。左手にアメゴの養殖場を見ながら先に進むと四万十楽舎黒尊分舎という大きな看板が見えてきた。空家になった営林署の宿舎を改修した研修施設だ。神殿橋で車を止めて周囲を見渡した。山は冬枯れのままであり、あたりの渓谷の風景もどことなく荒涼として見えた。この先をずっといくと完全舗装のスーパー林道が宇和島まで通じているはずである。私は道路に転がっている落石をよけながら八面山の山裾をつづら折れに上るスーパー林道を登っていった。
県境の手前で車を止め、登ってきた深い谷を振返った。口屋内から1時間以上は走っている。スーパー林道は落石が多く、あまり気持ちのよい道ではなかった。愛媛に入ってもまだ登りである。少し辟易しかけたとき、左手に海が見えた。うっすらと霞んではいるが、津島から御荘にかけての海らしい。鹿島と思える島も見えた。さらに走ると鬼ケ城の頂上付近に出た。下には宇和島の町と宇和海が見えた。目を凝らすと天主閣も見える。すばらしい眺望だが、車で上がって来たものだから今1つ感動が足りない。
長い運転の疲れが少しでてきたのかもしれない。私は、空気の澄み渡った日にもう1度今度は宇和島から林道を逆に越えてみようと思いながら、やはり落石の多い道を下り、国道441号線、宇和島市の鮎返に出た。時計を見ると時刻は五時過ぎだった。黒尊を過ぎてからついに、1台の車に出合うこともなかった。
その夜、走ったコースを地図で確認した。南伊予の高知県と愛媛県の境が1ヶ所深く愛媛県の方に入りこんでいるところが今日走った黒尊渓谷であった。朝は松野町をまわって高知県に入ったが、実際は宇和島の背後の鬼ケ城のすぐ後側が高知県であることに少し驚いた。
〈参考〉
田中一浩氏の「清流四万十川沈下橋」のホームページ
保田興重郎『日本の橋』(角川選著昭和45年刊)