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第121回 雪广(せっけん)禅師の長崎
 
 長崎崇福寺~松山市梅津寺
 長崎崇福寺開山堂で初めて梅津寺の雪广和尚の1代記を刻んだ鐫板を拝観した。中国、長崎、松山を結ぶ雪广禅師と松山藩主の深い友情。ほとんど忘れ去られた挿話が刻まれた1字1字を追った。

初めての長崎と崇福寺
 最初に、長崎に出かけたのは、前日にめずらしく長崎に大雪が降った早春の日のことであった。その日はよく晴れていて、雪はほとんど融けていた。私は、眼鏡橋を見た後、皓臺寺(こうたいじ)に行き、寺の手前から胸突きの幣振坂(へいふりざか)を上がって、風頭(かさがしら)山麓のシーボルトの娘楠本イネと二宮敬作の墓に参った。楠の巨木に覆われた墓所に立って年を経た墓石を見ていると、自分を育て慈しんでくれた二宮敬作を忘れず、その墓を母の墓と一緒の場所に建てたイネの心のあり方が胸に迫って来た。
 帰りに、また急な坂を下り、すぐ左手、鍛冶屋町の古書店大正堂に立ち寄った。大正堂は古書店であるが、長崎学の巨人、古賀十二郎翁の遺稿『長崎画史彙伝』を採算を度外視して出版した、志の高い古書店であるということを、友人に教えられていたからである。「お前はきっと読まないだろうが、もし残っていたら、必ず1冊は買ってこい」という友人の熱のこもった言におされ、書架に見えた『長崎画史彙伝』をもとめた。しばらく、長崎の郷土史関係の本がぎっしりと詰まった書架を見ていたら、やはり、友人に無類に面白いと教えられた、在野の長崎学者故宮田安さんの主著『長崎崇福寺論攷(そうふくじろんこう)』(長崎文献社刊)があった。帙(ちつ)に収められた古風で立派な装丁の本であったが、思い切ってそれも求めた。
 買ったばかりの本を小脇に抱えて、店を出たその足で、崇福寺に向かった。広い道に出たところで、左に折れ、少し登り加減の道を行くと道が右に曲がるあたりに崇福寺の三門が見えた。正面には「聖寿山(しょうじゅさん)」という隠元禅師が書いた山号の扁額が掛けてある。石段を登って、絢爛とした色彩の国宝、第1峰門を通りぬけ、大雄宝殿の前に出た。境内では、ちょうど何人かの人たちが脚立を立てて堂や回廊の軒先に色とりどりの提灯を吊しているところであった。旧正月、ランタン祭りの飾り付けである。私は堂内の諸仏を拝観し、飢饉救済の粥を炊いたという大釜を見て、背後の山にある隠元禅師や即非禅師の墓に参り山を下った。

松平定直と雪广(せっけん)禅師
 その旅から帰って、『長崎崇福寺論攷』を開いた。第2章第13節「祇樹林(ぎじゅりん)開基唐僧雪广禅師」に、明治初年に廃絶した崇福寺の末庵(ばつあん)「祇樹林」を開いた唐僧雪广禅師の一生を板に鐫(ほ)り込んだ鐫(せん)板の写真、全文と、その書き下し文が掲載されていた。鐫板は、長崎の有名な富豪中村仲熙が寄進したものだという。
 雪广禅師が28才の時に、師の心越禅師に従って中国の寧波から長崎に渡海した後、元禄11年(1698年)松山藩4代藩主松平定直に招かれて松山市御幸寺山麓にある千秋寺に入り、宝永5年(1708年)正月6日に亡くなるまでの在日32年のことがくわしく書いてあった。  宮田さんの懇切な書き下し文のおかげで、私は唐僧雪广と松山藩主の美しい交友を初めて知って、ほんとうに驚いた。なにしろ、黄檗宗については、禅宗の宗派で江戸時代に隠元禅師が中国から来て開いたことくらいしか知らなかったし、松山の御幸寺山の麓にある千秋寺が黄檗の寺であることさえまったく知らなかったからである。そして、幼時から親しんだ海水浴場のある海岸の名とばかり思っていた梅津寺が、雪广禅師を開山とする寺の名であったことは、もっと私を驚かせた。
 そもそも、この鐫板の「祇樹開基雪广和尚行實并祖堂記」の文章自体も、松山千秋寺の住持であり、後に宇治黄檗山萬福寺第26代の住持となった妙庵普最(みょうあんふさい)がもとめられて書いたものであった。そこに綴られた松山藩主と唐僧の挿話があまりに印象深かったので、私はすでに、この連載で2度とりあげた。以下に、再び要約、摘録することをお許し頂きたい。  藩主松平定直(予州太守源定直(よしゅうたいしゅみなもとのさだなお)と表記されている)は雪广禅師にに心服し、しばしば、城に招いたり、美しい風景の山野を一緒に散策して雪广の法話を聞いた。
 「太守(たいしゅ)、一日(いちじつ) 師(し)を延(ひ)いて(誘ってというぐらいの意であろう)、三津浜に遊ぶ。海辺を緩歩(かんぽ)して古和田(ふるわだ)に到る。師すなわち曰(いわ)く。此処(ここ)あたかもわが故土(こど)(ふるさとの意)梅津(ばいしん)の景致(けいち)(風景、景色のこと)に似たり。ゆえに郷(さと)を思う歎(たん)ありと。留連(りゅうれん)(いつづけるの意)して帰るを忘る」
 「太守このことを聞きて、特に茅亭(ちてい)を営み、以て師の燕休(えんきゅう)の所となす」。
 定直は望郷の念に沈む、雪广を慰めるために、すぐにこの海岸に雪广のための小さな茅葺きの家をつくった。燕が羽を休める場所にしたと言うのである。
 そして、藩主は雪广から故郷、中国の梅津に梅津寺という寺があったが久しく廃寺になっているということを聞き、茅亭を建てた場所に梅津寺を再興したのである。
 以後、定直は雪广と一緒に、しばしば梅津寺を訪れて景色を嘆賞し、詩をつくったり、仏法の楽しみをともにしたりしたという。
 雪广禅師の来日後、松山に移るまでを振り返ると、決してそれは平坦なものではない。長崎に到着して興福寺に入り、すぐに重い病を得て寝込んでしまう。病中に、一緒に海を越えて日本に来た師の心越(しんえつ)禅師が幕府の宗教政策に絡む禅宗内部のセクト争いに巻き込まれて幽閉されるという出来事が起きる。心越は、もともと曹洞宗の僧で隠元の法系に連なるものでなかったのが災いしたのである。しかし、心越は詩文に秀で、書をよくし、七弦琴の名手としても知られていた(永井荷風の『下谷叢話』にさえ、七弦琴を伝えた心越の名が見える)ので、曲折のあった後に水戸光圀に救われて長崎を去る。病弱な身で1人長崎に残された雪广は、臨済に帰依し、心越排斥の中心になった崇福寺の千呆(せんがい)禅師に師事することになった。その後、雪广は定直と出会ったのであった。

崇福寺開山堂
 6月初旬、久しぶりに長崎に出かけ、崇福寺を訪ねた。庫裡に声を掛け、雪广和尚の鐫板を見せていただけないかと、宮田さんの著書を見せてお願いしてみた。すると、住職は「いいよ」と2つ返事で開山堂に導かれ、ガラスケースの中に立て掛けてある鐫板を外に担ぎ出して下さった。お許しを得て明るい場所に移し、宮田さんの著書の書き下し文を見ながら、鐫板の白文を1字1字読み進んだ。本で写真を見た時には大きさが実感できなかったが、高さは2メートルはある。
 松山でほとんど忘れられた出来事が長崎の唐寺の崇福寺に伝えられている。今、梅津寺境内の市教育委員会の案内板では、雪广禅師の墓が最初から梅津寺に建てられたかのような記述があるが、この鐫板には、雪广が千秋寺で亡くなり、弟子が墓を梅津寺境内に移したことも書かれている。
 近くからと、全体と、写真を撮らせていただき、またガラスケースに鐫板を戻した。
 長崎から帰り、梅津寺を訪ねた。庫裡で住職のご母堂に崇福寺開山堂で鐫板を見せていただいたお話をした。写真を撮ったから今度焼いて持ってきますと申し上げると、「写真いうたら、こんな写真があったんよ」と言われて、古い写真を1枚、書棚から出してこられた。お寺が梅津寺駅の所にあった時代のものだそうである。真ん中の眼鏡をかけた若い僧が、去年亡くなられ先代のご住職である。本堂の左側には茅葺きの建物の右端の部分が写っている。江戸時代からの建物であったそうで、鐫板の文章に書かれた「茅亭」のように思われる。建物の雰囲気が現在の庫裡にどことなく似ているから、一部は移築して使われているかもしれないと思った。
 写真をデジカメで複写した後、本堂に上がり雪广禅師の像を見せていただいた。
 「この頃、たまに雪广さんの像を見せてくれゆうて来られる方が見えるんよ。よう来たゆうてにっこり笑って迎えてくださった言う人もおるし、恐いお顔をしておられる言うてすぐお堂から出て来られる人もおる」と言われる。像は変わらないから、光の状態や見る角度、距離、見る側の状態によるものに違いない。私は、その日の雪广禅師のお顔をとても明るい表情のように思った。

〈参考〉
宮田安著『長崎崇福寺論攷』(長崎文献社)・宮田安『ながさき史話集』(私家版)・『伊予の黄檗宗の研究』中山光直編著(私家版)『伊予の古刹・名刹』越智通敏著(財団法人愛媛県文化振興財団)

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1996-2012


梅津寺の雪广禅師像 江戸後期。鯨波を越えて日本に渡海した禅師の知的で意志的な一面と、穏やかで温かい人柄を生き生きと伝える。
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梅津寺庫裡

現在の梅津寺本堂

昔の梅津寺本堂
現在の伊予鉄道梅津寺駅近くから移築された。建物は当時のもの。移築前の写真を見ると左側に藩主が最初に雪广のために建てた茅葺きの家(茅亭)が見える。写真の当時はたばこ屋を兼ねていて、看板がある。

梅津寺の雪广和尚の墓
雪广和尚は、中国蘇州府常熟県の人。延宝5年(1677年)長崎興福寺に入り後に崇福寺を経て松山の千秋寺に招かれた。宝永5年(1708年)千秋寺で没したが宝暦年間に墓を梅津寺に移し開山の所とした。

鐫板の全体。高さは2メートルを越える大きさ。