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第10回 「おはちまんさま」
 
 
 八幡浜市の中心部矢野町商店街のアーケードに入る手前に御影石の鳥居と急な石段がある。八幡浜に生まれ育った人なら誰もが知っている「おはちまんさま」である。

 万葉集の矢野神山(やののかみやま)
 1月の終わり頃、よく晴れた日に八幡浜市矢野町の八幡神社に詣でた。八幡神社は八幡浜市、西宇和郡全域そして大洲市の野田、平地の総鎮守である。日本で4番目に由緒の古い八幡宮で、八幡大神(ヤハタノオオカミ)が鎮座する海浜の集落ということで、八幡浜という地名ができたことなども地元ではよく知られている。
 万葉集巻1の2178に「妻ごもる矢野の神山 露霜に にほひそめたり散らまく惜しも」という柿本人麿の1首がある。「霜や露で矢野の神山が色づき始めた。散ったら惜しいな」という歌であるが、この矢野というのが旧宇和郡矢野郷のことで、神山こそが八幡神社の森なのだという。お祀りする主神は応神天皇である。その母君である神功皇后と宗像の三女神(むなかたのさんしょしん)もお祀りしてある。
 急な石段の、両脇の手摺りの柱には、昔、「伊予の大阪」と呼ばれた八幡浜の豪商たちの名前が彫り込んである。途中の踊り場にある石の鳥居は延宝年間(1673~1681)に立てられたもので伊予では1番古い。その鳥居の右手には飛行実験で知られる二宮忠八の「金壱百圓」寄付の石碑があった。そういえば、忠八は「おはちまんさま」のすぐ下で生まれたのである。石段を上がりきると、社務所の前の広場に出る。子供を連れた2人の若い婦人がのんびりと鳩に餌をやっていた。ここからはまだ、海は見えないが、周りには穏やかな青空が広がっている。
 削られた句碑
 拝殿に上がって参拝した後、清家宮司にお会いした。「おはちまんさま」のご分霊が、豊後水道を渡って大分県宇佐市亀山に鎮座され、官幣大社宇佐神宮が出来たことなどを伺った。お話の中に、本殿の裏の茶筅塚の脇に立つ芭蕉句碑にまつわる面白いエビソードがあった。その句碑は「春なれや名もなき山の朝霞」という『野ざらし紀行』に収められた句を刻んだものである。
 自然への深い親しみがこもった名句である。江戸末期の八幡浜の俳人河野獲鱗が裏面に、「君がせの蛤ひろいつくされず」という自分の句を彫って境内に建てたものだ。ところが、芭蕉の句の「名もなき山」という言葉が当時の宮司の逆鱗にふれた。「万葉の故地でもある矢野の神山を、名も無き山とはこれいかに」というわけである。怒った宮司は句碑から「名もなき山」の言葉をけずりとってしまったそうだ。『野ざらし紀行』を見ると、問題になった句の前に、「奈良に出(いづ)る道のほど」という前置きの詞があり、芭蕉が故郷の伊賀上野から奈良二月堂のお水取りの儀式を拝観に出かける途中にこの句を詠んだことがわかる。「いやあ、直情径行の人だったようで」と言われる清家宮司と一緒に本殿の裏の句碑を見に行った。元は表側だった筈の芭蕉の句が裏側になっている。芭蕉の句が彫られた面にはたしかに鑿の跡らしきものがあるが、句が読めないというほどではない。鑿をふるった宮司の怒りもほどほどのところで解けたもののようであった。
 山車と武者人形
 毎年、10月18日から行われる秋祭りに出ていた山車の武者人形を見せていただいた。山車の部材や幕と一緒に社務所の中に陳列してある。神功皇后(じんぐうこうごう)、武内宿禰(たけのうちのすくね)、加藤清正と虎、手のこんだ刺繍の龍の幕。ほんとうに見事なものである。人形の顔の表情にとても品がある。かつては「おはちまんさま」の氏子の家の五月人形まで八幡神すなわち仲哀天皇と幼い応神天皇を抱いた武内宿禰、そして神功皇后の1組であったそうだ。
 祭りに山車が出せなくなってから久しいと伺ったが、ほんとうに惜しい。八幡浜の賑わいを支え、「伊予の大阪」をつくった人々の面目がこれらの武者人形や壊れた山車の部材にはっきりと見て取れるのである。次の世代に、先人たちが築いた文化と町の賑わいがともにあった時代の記憶を伝える手だてはないものだろうか。
 『八幡大菩薩愚童記』
 社宝の『八幡大菩薩愚童記』を見せていただいた。室町時代後半、文明15年(1483)の奥書がある古写本である。日本における八幡大菩薩の神徳を、わかりやすく説き明かし知らせる目的で書かれたもので、愚童とは子供たちのこと。原本が書かれたのは鎌倉の永仁元年(1293)頃から正安2年にかけてではないかと推定され、日本が文永・弘安の役、俗に言う「元寇」に際して八幡菩薩のご加護により「国難」から守られたことが特に詳しく書かれている。日本に襲来した外敵を撃退するという勇ましい話のオンパレードだが、八幡大菩薩は全編を通じてあくまでも専守防衛。根底には神仏習合による仏教思想が色濃く流れているそうだ。八幡菩薩が暴風を吹かせたり大雨を降らせたりして外敵を叩きつぶすのは、相手が侵略してきたからで、本意は国と正義を守ることだと説いている。「おはちまんさま」の入口に平和像があるのは、理由のないことではなかった。

〈参考〉
『愛媛の文学碑』愛媛高校教育研究会国語部会編、『芭蕉讀本』頴原退藏(角川文庫)、『芭蕉講話』頴原退藏(中央公論社)、『芭蕉百50句』安東次男(文春文庫)、『八幡大菩薩愚童記』八幡浜高校国語科編

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本殿
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境内にて、拝殿。社殿はすべて昭和53年の放火により焼失し、昭和58年に復興されたものである。

芭蕉句碑
境内入口左手にある万延元年の芭蕉塚。巴水撰の『薦獅子集』に収められた芭蕉晩年の句「春もややけしきととのふ月と梅」が刻まれている。裏面には女性二人を含む二十四人の俳名がある。八幡浜は俳句の先進地域だった。

「春なれや 名も無き山に朝霞」。宮司怒りの鑿の跡が見える

二宮忠八醵金の碑もあった。

本殿脇の石垣に伊達家の家紋から取った笹の浮き彫りがある。

青石の石垣に浮き彫りされたとっくりと杯。逆の方向を向いている。酒を断つという願いを込めて石工が彫ったのだろうか。

八幡神社祭礼の山車の武者人形。神功皇后像。仲哀天皇の皇后で天皇没後新羅を討ち凱旋したとされる。応神天皇の母。

『八幡大菩薩愚童記』本文 神功皇后の三韓征討の下り。侵略者の運命は悲惨。神功皇后に「乾満の珠」で打ち破られた異国の王臣たちが「我等は日本の犬と成り日本を守護すべし。毎年八十艘の御年貢を備え奉るべし」(右側のページ中央あたり)

境内の石の手摺には八幡浜の豪商の名が彫られている。

本殿の裏山から八幡浜湾を臨む。