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第54回 十本松峠を越えて
 
愛媛県北宇和郡吉田町~三間町戸雁~宮野下 
 9月下旬、吉田町から三間町へ、十本松峠を越えた。この地方の人々に「御稲荷さん」という通称で信仰を集めている三間町戸雁(とがり)の四国88ヶ所札所龍光院に詣で、宮野下に出た。峠の辺りの旧道は通る人も絶え、ひどく荒れ果ててはいたが、往時の人々の往来をしのばせる雰囲気が確かに存在した。

 「重い雨」
 先日、三木一郎という人が書いた『重い雨―伊予吉田藩一揆始末』という短編小説を読んだ。江戸時代の寛政5年(1793年)、伊予吉田藩全域の農民が紙の専売制度と過重な貢租の緩和を求めて立ち上がった有名な「武左衛門一揆」に材をとった歴史小説である。全篇を、一揆の首謀者である桁打ち武左衛門や、一揆の標的にされた吉田藩御用商人の法華津屋、そして一揆を鎮静するために割腹した家老の安藤継明ら登場人物の書簡で構成し、史実と虚構が混ぜ合わせてある。私が住む吉田町が主な舞台であることもあり、予想のほかにおもしろく読んだ。 読後に、近所の安藤継明の邸跡である安藤神社、魚棚の法華津屋の跡、安藤継明の霊廟がある海蔵寺などを歩いてみた。南北が1キロ半ほどの町内だから、3ヶ所をまわってもわずかの時間である。少しずつ、興味が昂じてきて、小説に出てくる吉田と三間町の境にある十本松峠を越えてみたくなった。とは言っても、たしか赤松の林があるその峠は、小さい頃に、祖母に背負われて1度越えたような記憶がぼんやりとあるきりだ。どこからその峠に取付いたらよいものか見当もつかなかった。
 十本松峠
 私は、ご近所のSさんのことを思い出した。Sさんは、この地方の神社の狛犬や、古い石碑を調べたり、山野草の写真を撮ったりするのが趣味で、近在の古い道にとてもくわしかった。70歳をこしたこの春に魚屋の店を閉めてから、顔を合す機会がめっきりと少なくなっていたが、愛用の自転車を駆っての散策と好きな読書に悠々自適の日を送っていると聞いていた。
 久し振りにSさんを訪ね、十本松峠のことを訊いた。Sさんは、「もうだいぶ行ってないなあ。通れるのは通れるじゃろうが、旧道は繁ってしもうて、1人じゃあ、わからんぞ。そんなら今から、一緒に行ってあげらい」と言う。甘えることにした。
 おにぎりと水をリュックに入れて、10時過ぎに吉田町の桜橋を出発した。
 三間からの帰りのために自転車を押していくSさんに従って、大工町を過ぎ、蜜柑山の間に延びる農道に入った。天理教の建物を過ぎ、しばらく行ったところでSさんが、向い側の蜜柑山の石垣の脇に索道が敷かれた道を指差した。そこが旧道であるそうだ。軽トラックが上がる農道が敷設されてからは、旧道の1部が蜜柑畑にとりこまれてだんだんわかりにくくなっていると言う。さらに上がり、旧道と農道が近づいたところに、根が露出した漆の巨木があった。Sさんが子供の頃、ここには3本の大きな漆の木があったそうだ。下を通るとかぶれるのではないかと思い、いつも走って通り抜けたものだったという。谷川の音が高くなったところで、1度近づいた旧道と農道が再び分岐する場所に来た。鎌研ぎというところで、昔は、この谷川でお百姓さんがよく鎌や農具を研いでいたものだと言う。旧道と農道は上の蜜柑畑の下で一緒になるので、そこまで、Sさんは自転車を押してゆっくり遠回りして農道を上がる。私は1人で旧道を行く。
 10分も上がると旧道は谷川の脇の蜜柑畑の中に消えた。そこで、20分ほど待った頃、右手上の繁みからSさんの声が聞こえた。声のする方を見ると木々の間に古い石垣が見える。棘のある木やつる草に難渋しながら、Sさんの声を頼りに数分登って農道に出た。そこから、谷川の音を聞きながらしばらく上がると蜜柑山の間に海が見えてきた。少し登りが急になったあたりで道の山側にくさに覆われた石垣があった。そこが十本松峠への登り口だった。幅は約1メートル。人1人が通れるくらいの道である。Sさんが「うぉー」と声をあげた。「これはほんとに誰も通っとらんわい」。所々に倒木があり、草が繁っている。Sさんが先に行き、クモの巣や草を払う。後ろから私が自転車を担いで登る。100メートルほど登ると尾根に出て展望が開けた。正面に高森山、左手に法華津峠や、玉津湾がうっすらとかすんんで見える。足元には立間の大河内や西谷の集落、大乗寺などが見えた。十本松峠はそこから五分ばかり登ったところだった。雑木林に囲まれるように、赤松が数本立っている。老松という趣きはない。ちょうど昼になったので、ここで休むことにする。Sさんによれば、この辺りは昔は峠の名の通りに赤松の林があったばかりで、杉や雑木はなく、吉田の町や吉田湾がよく見渡せたそうである。悪童たちは、この辺りまで毎日上がってきてはチャンバラをしたり、陣地をつくったり、遊びの種にはことかかなかった。お腹が空いたら山桃や野苺を摘み、喉が渇いたら谷川に降りて水を飲んだりして、日が暮れるまで山で遊びまわったそうだ。Sさんが小学校生の頃、3年生の遠足はこの峠を越え三間町戸雁の88番札所龍光院に行って帰るというコースだった。
 Sさんの話を聞いていて、故郷の山や峠が子供たちにとっていかに近く親しい存在であったかということが思われた。
 難 所
 十本松峠から堀切を越えた先がSさんの言う、最大の難所である。何年か前の集中豪雨で道が削られて谷川と一緒になり沢のようになっていた。杉や雑木が空を覆い薄暗い。自転車を担いで、苔に滑らぬよう、足元に注意しながら下る。しばらく下ったところでSさんが谷川の脇の石組を見ながら「これがな、1杯水言うてなぁ、ここで水を1杯飲んでから、みんな峠にあがったんよ。ヤモリがおったもんやったが」とポツリと言った。
 沢のようになった道の両側には石垣がある。芋畑と水田のあとである。「昔は、きれいな道でなぁ。こんな雑木は1本も生えてなかった。陽がさしてずっと明るい道やった」とSさんが言葉を加えた。荒れてはいるのだが、昔の雰囲気はなんとなく想像できる。所々に石畳も残っているし、自然工法で修復すれば、費用も掛からずに、すばらしい散策路が甦るのではないだろうか。
 「難所」を過ぎて、きれいに刈り払われた農道に出るともう三間町の是能であった。私とSさんは、収穫の三間盆地をのんびりと歩き、十本松峠を開削した人の墓碑を見たり、能寿寺(のうじょうじ)に寄って毘沙門天を拝観したり、武左衛門一揆の指導者の1人是房村の善六の墓といわれる墓を探したりした。
 私は、仏崎で、後刻の吉田での再会を約して立間にまわるSさんと別れ、龍光院に向かった。

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1996-2012


吉田町安藤神社の近くにあった洋館
(藪野 健画)

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安藤神社
武左衛門一揆を切腹して鎮静した家老安藤継明の邸跡。

海蔵寺の安藤廟

十本松峠の道を開いた人の墓碑

是房の毛利家庄屋屋敷。茅が葺きなおされた。

吉田町から三間町へ
十本松峠を越えるコース


桜橋から出発

鎌研のあたりで旧道を示すSさん。

旧道はところどころで、蜜柑畑に取り込まれている。

十本松峠への道。幅1メートル。
倒木があるが通れぬほどではない。

十本松峠への尾根から見た高森山と大河内、西谷の集落。

十本松峠。今は数本の赤松があるばかりで、展望も開けていない。

堀切

b>豪雨で道が削られ、難所となった辺り。
かつては「1杯水」があった美しく快適な道だった。

三間町是能の能寿寺の毘沙門天

三間町曽根

龍光院