宇和島市に、高野長英が住んだ家が残っている。表側は、改装されていてまったく当時の面影はないが、辰野川に面した奥座敷を小さな橋の上から眺めると長英が暮らしていた時代の雰囲気がよく残っているのに驚く。
長英の家
1月のどんよりした空模様の日に宇和島に出かけた。久しぶりに、高野長英の住んだ家を訪ねてみようと思ったのである。国道から市内に入って、和霊神社に詣でた後、横新町に向かった。辰野川という小さな川に面した長英が住んだというその家の前は何度か通ったことがあった。家の表側に立って、御影石の小さな石碑を見る。「瑞皐高野長英先生居住之地
後藤新平書」とある。瑞皐というのは、長英が蛮社の獄で投獄され、入獄3年目に書いた『蛮社遭厄小記』で自分のことを呼んだ号である。長英は「戊戌の年(天保9年1838年)、瑞皐深謀なく、直ちに国家の忠言と心得、夢物語というものを書き認めけるに、不幸にして、一時諸方に伝播し、讒者機に乗じて官に訴えければ、己亥の年(天保10年1839年)、瑞皐は永く囚となり、学斎(小関三英)は自殺し、蛮学これによりて、遂に衰えぬるこそ遺憾なれ」と書き「孟子」の「善く戦ふて上刑に服す」という言葉を引いている。世のために善く戦うものこそが結局重い刑罰に処せられるというのである。
裏面の碑文に「大正14年11月後藤子爵はこの地を訪れ、史実を明らかにして追懐禁ずる能はず」と書かれている。関東大震災の復興で知られる後藤新平は長英と同族で岩手県の水沢でうまれた人であった。(長英はもとは後藤姓で母の実家の高野家の養子となった)あらぬ罪を得た血族の先輩、悲運の天才高野長英が破獄逃亡の果てに、生地を遠く離れたこの南国の小さな古い家で蘭学を教授して暮らしたことを思い、後藤が深い感動にとらわれたことは想像に難くない。私が碑の脇の細い通路から奥座敷を覗き込んでいたら、突然、足を傷めた犬が出てきて激しく吠え立てた。人が住んでいる気配はない。隣家のご婦人に現在の持ち主を尋ねてみたところ、近くの居酒屋の名前を挙げられた。あらためて中を見せて欲しいと頼むのも面倒に思って川の方から眺めることにした。ご婦人に伺ったところでは、最近は、地元の人よりも長英の故郷、岩手の水沢の方から熱心に訪れる人が絶えないとのことである。
宇和島の長英
宇和島藩主伊達宗城の強い希望で宇和島に招かれた高野長英が宇和島に着いたのは嘉永元年(1848年)4月2日のことであった。長英は到着後しばらくして家老桜田数馬の別荘であったこの横新町の家に移った。滞在中は蘭学者伊東玄朴の門人伊東瑞渓という変名で通し、4人分の扶持米と申し出に応じて支払われる臨時払いの翻訳料を報酬とする取り決めがかわされ、藩命を受けた谷依中、土居直三郎、大野昌三郎に加え二宮敬作の子逸二が長英から教えを受けることになった。
宇和島での長英の生活の様子は鶴見俊輔(後藤新平の孫にあたるので長英の末裔ともいえる)の名著『高野長英』(朝日新聞社刊)にあたるか、『宇和島・吉田両藩誌』に収められた伊達家家記編集所村松恒一郎の講演速記録「高野長英宇和島潜伏中の事実」を見るか、あるいは、ベストセラーになった吉村昭の歴史小説『長英逃亡』(毎日新聞社刊)を読むかすれば、なんとなく臨場感が湧いてくる。たとえば、この家について吉村昭はこう書いている。
「翌日、長英と昌次郎は、冨澤の案内で町会所を出ると、横新町裏にある桜田佐渡の別荘に行った。土間から上がり奥の8畳間に入った。障子をあけると、清い水の小川が流れ右手に小さな橋がある。おびただしい小魚が、鰭を光らせて流れにむかって泳いでいた」
辰野川に架かる文中の小さな橋に立ってみよう。出窓のある家が川の左手に見える。長英が住んだ奥座敷である。下を見ると現実の川はひどく、汚れていて魚の姿は見えない。しかし、想像力にたよれば、苦もなく小説の世界が再現できる。風景がすべて失われてしまったわけではない。醜いものには眼をつむればよいのだ。
市立伊達博物館
鶴見俊輔の『高野長英』に、市立伊達博物館所蔵になる、高野長英が宇和島藩のために作った蘭書目録の写真が出ている。一々書名の下に付箋がつけてあり、何の本で何に役立つ本であるかということが簡明に記されている。これを見れば、長英の恐るべき語学力と読解力が手に取るようにわかる。一昨年、宇和の歴史博物館であった「伊予の蘭学展」にも展示されていた。もう1度見たいと思い、天赦園の近くにある伊達博物館を訪ねた。入口の伊達宗城の銅像を横目に薄暗い館内に入った。刀剣や書画、明治の元勲たちから宗城にあてた書簡、豪華な漆器の素晴らしい展示があったが残念ながら長英の資料は何1つ展示されていなかった。
樺崎の砲台
少しがっかりして外に出た。天赦園を素通りして、埋立地の方へ車を走らせた。最近登録文化財に指定され、復元整備されたという旧宇和島警察署の建物と樺崎の砲台を見て置こうと考えたのである。明治17年に建てられ、もとは宇和島市広小路にあった警察署の建物は1度、南宇和郡西海町船越に移築され、長く西海町役場として使われた後、又、宇和島に帰ってきたのである。新しい民家が並んだ一画の奥にある敷地一杯に「警察署」が建っていた。今は「歴史資料館」として使われている。内部には民俗資料や宇和島出身の歴史的人物の写真や略歴が雑然と狭苦しく飾られていた。
すぐに、外に出て目の前の樺崎砲台を見る。長英が残した『砲家必読』という本を活用して村田蔵六らが完成させたものという。しかし、ここに備えられた五門の大砲が火を噴いたのはアーネスト・サトウが乗った英国の軍艦が宇和島を訪れた際に答礼砲を撃ったときだけであったそうだ。
市の中心部に戻り、城山の天守閣に登った。長英やサトウが入港した美しい宇和島湾が見える。空襲に遭った町も昔の町割を地図のように見せている。
城山を下って、昼ご飯に名物の鯛飯を食べた後、大村益次郎こと村田蔵六の住んだ家の跡に向かった。川というよりは水路のような神田川を渡った辺りで方向を失った。偶然、行き当たった宇和津小学校で道を尋ねる。校門の近くで掃除をしていた若い先生から丁寧に蔵六の家のあった場所を教えてもらった。この辺りはかつて、武士が住んだ町であるらしいが、山が迫って土地が狭いせいか、区画がこじんまりとして、威張った感じがしない。やっと見つけた蔵六の家の跡には白いペンキの看板が付いていた。たてものは残っていないが、ここに来たことで長英や蔵六の歩いた街のスケールが分かった気がした。
天儀(てんぎ)の鼻へ
私は急に宇和島から離れた南宇和郡に長英が計画した砲台を見に行くことにした。嘉永元年の秋、長英は砲術家の板倉志摩之介と松田源五左衛門、門人の土居直三郎を伴い、城辺町久良の天儀の鼻に10日間ほどの調査旅行を行って測量をして砲台を設計した。砲台は長英が宇和島を去った後に完成したという。国道56号から海沿いの道に出て、久良の集落を抜け、不安を感じるほど細い曲りくねった道を天儀の鼻に向かった。宇和島を出て約1時間半、そろそろくもり空が薄暗くなり始めた頃に、天儀の鼻の灯台に着いた。海に向かって一気に下った。断崖の下に下りると、小さな砂浜があり、海の水が冷たく澄んでいる。
天儀の鼻の上には海鳥が群れ、磯釣りの人たちの姿が所々に見えた。沖には養殖いかだが浮かび、漁船が1艘、湾に向かって帰ってきた。潮のせいであろうか、あたりをみまわしたが、長英のお台場の痕跡は、皆目見あたらなかった。
〈参考〉
「山家清兵衛」石川淳(「新潮」昭和52年6、7月号)日本思想体系55『渡邊華山 高野長英 他』佐藤昌介他編(岩波書店)、『幕末維新の宇和島藩』島津豊幸他編(愛媛県文化振興財団)、『一外交官の見た明治維新』アーネスト・サトウ、坂田精一訳(岩波文庫)、『近代建 築ガイドブック』西日本編松村正恒他著(鹿島出版会)