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第18回 伊予吉田を歩く
 
 
 吉田の町は、町の全体が埋立地の上につくられたという、めずらしい生い立ちを持つ。昔日の建物の多くは失われたが、陣屋町の町割りは、ほぼ昔のままだ。秋の1日、江戸のまちづくりの跡を訪ねる旅に出てみよう。

 300年の昔が残る町
 明暦3(1657)年、宇和島伊達藩10万石から3万石を分知された伊達宗純 (宇和島藩主伊達秀宗の5男)は、万治元年(1658)には、国安什太夫を総奉行として約9万坪に及ぶ新都市吉田の埋立を開始した。そして、わずか1年半後には、移転を開始し、陣屋町吉田が誕生した。
 埋立が始まった頃、吉田の入江は、すでに河内川、立間川が運ぶ土砂が堆積して、葭の生い茂る沼地になっていた。国安什太夫は、武家居住区である「家中」の埋立奉行3名、町人町の埋立奉行2名、横堀奉行1名を配下に、埋立を行った。横堀とは、家中と町人町を分離するための人工河川である。
 昭和60年代はじめに吉田の町を調査した山崎正史氏が、非常に明解に陣屋町吉田の町割を説明している。「町全体は性格の違う4つの地区に人工の川と山によって明確に区分されていた。最奥部の石城跡(戦国時代土居氏の居城。1560年、豊後大友氏の総攻撃により落城)の山の下に陣屋を置き、その東に川で周囲を完全にとりまく形で家中すなわち武家の居住区を形成している。河川は堀としての防御機能を考えての配置だったであろう。細長い町を中央で2分する川は横堀と呼ばれ、その南に町人町がある。町人町の西側は船着場である。町人町の南を又川で区切って、陣屋町の南端部すなわち宇和島湾に面す部分は御舟手と呼ぶ藩の水軍施設にあてられていた。」
(保存修景計画研究会西川幸治編「歴史の町並み」中国・四国・九州・沖縄篇NHKブックス)
 吉田の陣屋町は、南北わずかに1キロ半。図書館が建った御殿前、吉田高校脇や東小路の武家屋敷、そして横堀や桜橋、本町、魚棚、御舟手と歩いてみよう。町名もそのままに、300年以上も昔につくられた陣屋町の町割りが見えてくる。かつて町内にあった大小いくつかの広場は、道路や人家となって、ほとんど姿を消しているが、現存する、わずかの武家屋敷や職人長屋、そして寺や神社の位置を手がかりに、想像すれば昔の町の骨格まで知ることが出来る。
 絵になる町
 陣屋町吉田は美しい町であった。南は深く静かな宇和海の入江に面し、背後には、たおやかな高森山が、青い空の下にくっきりと聳える。人工の水路が走り、柳橋、桜橋など美しい名前を持った橋の近くには、桜が咲き、柳が風にそよいで、季節の風景を生き生きとしたものにしていた。町を歩くことが喜びとなるような町であった。
 明治以降、吉田は製糸の町になる。そして、明治の末にはミカンの栽培でも知られるようになった。経済的にも活況を呈し、大正から昭和にかけて、陣屋町の中に、学校や病院、銀行、書店などモダンな洋風建築が建ち始める。いずれも、とびきり美しい建物ばかりであった。吉田港には大阪や別府航路の旅客船も寄港するようになった。
 昭和2年初春、そんな吉田の町に、北陸金沢の学窓を巣立った1人の青年医師がやって来た。長野県須坂出身、吉田病院初代眼科医長を務めた小林朝治である。小林は医業の他に、絵を描き、詩を作り、歌を詠み、俳句をつくる人であった。南国吉田の風物を愛した彼は、4年間の任期を終え、信州須坂への帰郷にあたり、56葉の版画と詩からなる『吉田風物画帖』を上梓し、吉田の知友たちに配った。小林は前書きに、自分のこの仕事が、須坂と吉田の見えざる鉄鎖、自分とミューズの神との切れざる鉄鎖のしるしになると思うと書いている。小林がとらえた、明るい風光、見え隠れする江戸情緒に都市的なモダンさと活気が不思議に入り混じった昭和初期の吉田の姿は、この世のものとも思えぬ程に美しい。小林の『吉田風物画帖』を見れば、少々不便でも、絵になり、詩になる故郷が持てるということがいかに幸せなことであるかということがわかるのである。
 久しぶりに、本町から裡町に抜け、峰住神社の急な石段を上ってみた。犬日山との間に瓦屋根の町並みが広がり、南に海が見える昔ながらの風景が見えた。昼間の吉田は人通りも絶え、眠ったように静かだった。
 

吉田風物画帖 (昭和6年刊)
 冬の朝、橋桁の白い霜に朝日がそそぐ「旧桟橋」で画帖は始まる。吉田港は大正6年、すでに別府行き5,219人、大阪行きが4,478人の乗船客があったという記録が残る。横堀の版画には「白く乾いた桜橋の上を春の風と自動車の旗が行き過ぎた、それにクロッスして水温みては白い家鴨を流して……」とある。そういえば、家鴨は今もいて、時たま、ガーガーと鳴きながら存在を誇示している。
 国道56号線が通る前の御殿前、そして建て替えられて、今は消えて行った小学校や29銀行の姿もここにある。

旧桟橋

浜通り


峰住神社

小学校


横堀と桜橋

御殿前


女学校(現吉田高校)

村井幼稚園


二十九銀行(現伊予銀行)
 
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密柑山

吉田の町。左に犬日山、背後に高森山、法華津峠

桜橋と横堀

裡町に、わずかに残る職人長屋の建物

吉田高校脇の武家屋敷

魚棚。法華津屋のある界隈。切り離されて、国安の里に移築された建物は手前医院の場所にあった。法華津屋(高月与衛門と高月小衛門の両家)は吉田藩の御用商人。六代藩主村芳時代、腐敗堕落した役人に賄賂を使って巨利を得た。(吉田藩誌などによる)

住吉神社

界橋(さかいばし)。
本町と御舟手を区切る水路にかかる。

峰住神社。
吉田湾と町並みの展望がよい。