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第12回 東洋城と5人姉妹
 
 
 かつて、俳人松根東洋城が仮寓した温泉郡川内町河之内の惣河内神社を訪ねた。県都松山からなるべく旧道をたどりながら、讃岐街道(国道11号線)を行く。重信川を渡り、様変わりした、かつての宿駅川上の町を過ぎる。山が徐々に迫り、道が「桜三里」と呼ばれる坂路にさしかかったところで、右手の石鎚山に向かう県道に入る。山に囲まれた谷を深く抉るように流れる表川の両側には、石垣の古びた棚田が一面に広がっている。東谷小学校を過ぎ、2、3分も走れば惣河内神社である。

 一畳庵
 惣河内(そうごううち)神社入り口にあるウラジロガシの巨木を見ながら鳥居をくぐる。右手に東洋城の「山屏風春の炬燵にこもるかな」の句碑があった。石段をあがり、参拝する。拝殿の左手に咲く、桜を見ながら社務所の方に歩いていくと、東洋城の愛弟子、佐伯巨星塔(きょせいとう)氏の長女にあたる佐伯弥生さんが庭の手入れをされていた。社務所の建物は茅葺きにトタンを被せてはあるが、東洋城が滞在したときのままである。弥生さんが、障子を開け放って、東洋城が愛用した机の上に遺影を置き、庭に咲く紫紺の花を活けてくださった。温かい、春らしい日である。下の県道を走る車の音が時々聞こえてくるが、それもどことなく長閑(のどか)に聞こえる。
 東洋城は、昭和25年73歳の春、伊予の門人たちを教えに来て、佐伯家に1泊した。質朴な茅葺きの社務所兼用の住宅、庭の老松、野鳥の鳴き声、庭前に広がる棚田の風景、金比羅寺の大杉、そして屏風の様に囲む山々。河之内の風物と人情がすっかり気に入った東洋城は夏に佐伯家を再訪し、そのまま、居着いてしまうのである。東洋城は、佐伯家玄関脇の庭に面した8畳間の東角の1畳をカーテンで仕切って借り受け、自ら「1畳庵」と命名した。布団は敷きっぱなしで、巨星塔氏をはじめ弟子が来たときには、布団を押しやって座り、1畳の隣の半畳に置いた机を隔てて弟子と向き合い指導した。痩身長躯、俳句については俗事を一顧だにしなかった東洋城の指導は峻烈を極めた。弥生さんは直立不動で叱られている父巨星塔氏の姿をよく覚えておられるそうだ。「ふだんは優しい方やったんですけど、俳句だけは別でした。父はもうほんとうに巨星塔なんて大きな俳号でしたけど、こんなに小さくなってましたよ」と体をすぼめて笑われる。しかし、さすがの東洋城も、食事から、洗濯、足袋の繕い、原稿の清書に至るまで、身の回り一切の面倒を引き受けてくれたカヲル夫人には頭が上がらなかった。「ある時、先生がね。母に俳句をやらんかって勧められたんです。そしたら、母がね、めずらしく逆らったんですよ。先生、私は先生の食事も作らなければならないし、洗濯もしないといかんし、子供たちの面倒もみなければいけない。ですから、とても俳句なんかひねってられませんいうてね」。手きびしい反撃にあった東洋城は、それでも「カヲルさん。俳句はね、身近なものを題材にして作るものだから、大根を切りながらでもできるんだよ」と答えたそうである。結局、カヲル夫人も俳句を始めた。カヲル夫人の俳号は松花という。生まれ育った在所である松本の松からとったものだ。「それがね。母の俳句は身近なものを題材にということに徹したのがよかったのか、結構なとこまでいったんですよ」。
「足袋刺すや 子らそれぞれの足のくせ 松花」
 巨星塔氏とカヲルさんとの間に5人の娘さんがあった。長女の弥生(やよい)さん、次女の昭子(あきこ)さん、3女の嘉寿子(かずこ)さん、4女の綾子(あやこ)さん、5女の二三子(ふみこ)さんである。この、5人姉妹の足袋を繕いながら詠んだカヲル夫人の句を見た東洋城は「松花(ショウカ)君、君は小家じゃなくて大家だよ」と言って心から嬉しそうであったという。
 百日櫻と5人姉妹
 惣河内神社には、四季桜の1種で、東洋城が「百日櫻」と命名して愛惜した桜の木がある。巨星塔氏の母上が大正2年に植えられたものだ。庭の池の片隅に東洋城が揮毫した百日櫻の碑が残っている。今も変わらず、10月のはじめに花をつけ、白猪の滝が氷結する正月にも咲いて春を迎える。
 夏目漱石は「東洋城は俳句本位の男である。あらゆる文学を17字にしたがるばかりではない、人生即俳句観を抱いて、道途(どうと)に呻吟(しんぎん)している」と言った。しかし、孤独な東洋城も呻吟ばかりはしていなかったのである。
 たとえ、ひとときにもせよ、老境にあって、伊予の山峡でこの美しい百日櫻を見、庭に来る「ひたき」を愛で、桜にもまして可憐な愛弟子の5人娘に囲まれて過ごすという幸せを持ったのである。5女の二三子さんが修学旅行で東京に出かけたときのことだ。愛する孫かとも思う二三子さんを案内しようと東洋城が宿に迎えに来た。長身の東洋城は、何時に変わらぬ作務衣にもんぺ姿。落とさぬように、紐で手袋を首に掛け、腰にはこうもり傘をさしていたそうだ。二三子さんは、少し恥ずかしかったそうだが、東洋城は掻き抱くようにして連れ歩いたという。後に東京に嫁いだ3女の嘉寿子さんとも始終行き来があった。なにかというと東洋城は嘉寿子さんを頼った。最後の病に臥した東洋城をほとんど看護したのは嘉寿子さんであった。
 弥生さんは、東洋城の滞在中、愛媛大学の学生で松山市に下宿していた。「先生は抹茶がたいへんお好きで、毎日、母に点ててくれいわれたそうです。母はお茶なんか習ったことないから、上手によう点てんいうとったんですが。私が少し習っていましたので、松山から帰ってきた時に点てて差し上げたら、弥生君のお茶はおいしいねえって言われました」。
 昭和34年、巨星塔氏が還暦祝いの旅でカヲルさんと上京したときのことである。東洋城は夫妻を先導して浅草の仲見世へ行き、4歳になった弥生さんの長男弘(ひろむ)さんへのお土産にと、「赤胴鈴之助の面や髷(まげ)やそれから竹刀、白い袴」を大童で探し歩いたという。「仲見世へおもちゃあさりも長閑かな」そのときのことを詠んだ東洋城の句である。
 東洋城は、ピーナッツを1日に10個と決めて机の上に置き、口寂しいときはそれを摘んだ。食事は多くは摂らなかったが、近在の弟子たちが、野菜や、豆腐、こんにゃくなどを届け、松山の弟子はバス便で肉や魚を届けてよこした。調理はすべてカヲル夫人が行った。生涯娶らず俳句一筋、家庭を持たなかった東洋城にとって、伊予河之内の「桜の園」は、桃源郷のようなところであったに相違ない。

松根東洋城
 東洋城松根豊次郎は明治11年2月25日、東京の築地で、旧宇和島藩の家老松根図書の長男である父と、宇和島藩主伊達宗城の次女である母との間に生まれた。愛媛県立尋常中学では、夏目漱石に教えを受け、生涯師と仰いだ。後年、東洋城撰の『新春夏秋冬』に序文を寄せた漱石は「東洋城と余は俳句以外に15年来の関係がある。向こうでは今日でも余を先生、先生という。余も彼の髭と金縁眼鏡を無視して、昔の腕白小僧として彼を待遇している」などと書き、序文を引き受けたのは俳人としてではなく、その昔、東洋城に初めて自分が俳句を教えた事があるという縁故によるのだと言っている。一時『国民俳壇』の選者を高浜虚子から任された。大正4年『渋柿』を創刊主宰し、芭蕉への回帰を説く。東洋城が渋柿一門を集め、各地で行った俳諧道場の指導は厳格で、有力な弟子が次々と去っていくほどであった。生涯妻帯せず、家集を持たず。昭和29年芸術院会員、昭和39年10月28日没。87歳。

〈参考〉
『黛石』佐伯巨星塔/『川内町と子規・漱石・東洋城』佐伯巨星塔/星加宗一著『東洋城独吟百日櫻歌仙注釈』(共に1畳庵刊)/『連句の楽しみ』高橋順子(新潮社)/『愛媛の文学散歩4』秋田忠俊、『子規と周辺の人々』和田茂樹編(愛媛文化双書)/『久保田万太郎の俳句』成瀬櫻桃子/『漱石全集』11、14、15の各巻(昭和41年岩波書店)

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惣河内神社入り口のウラジロガシの巨木
「箒とって我がみやつこに落ち葉かな」東洋城
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金比羅寺の仁王門と左手隣の惣河内神社
「神主と僧と出て掃く落ち葉かな」松花

佐伯弥生さん。「1畳庵ひたきくるかと便りかな」の佐伯巨星塔氏の句碑がある庭で。
庭に飛来するひたき(燕雀目の野鳥、小柄で色彩が美しく、雄は鳴き声が美しい。)を愛した東洋城は東京から便りを寄こしてはひたきが来たかと尋ねた。弥生さんは母上の「追伸に問われしひたき 鳴き にけり」の句の方が好きなんですよと言われた。

1畳庵全景「吾が庵は 山の社家にて 夜長かな」東洋城

1畳庵の庭にある黛石。名は東洋城の代表句「黛を濃うせよ草はかんばしき」からとられた。
東洋城7周忌に、遺髪と爪が埋められた。

東洋城が書いた百日櫻の木札

惣河内神社に隣接する金比羅寺の大杉
「寺 社 いち大杉の 無月かな」東洋城

佐伯家の人々。前列左より弥生さんと長男の弘さん、ご主人の清明さん、巨星塔氏、カヲルさん。後列左より、嘉寿子さん、二三子さん、綾子さん、昭子さん。

東洋城が浅草仲見世で見つけた赤胴鈴之助の扮装をした巨星塔氏の初孫弘さん。

写真を東洋城に送ったら「赤胴君安着。あの写真、飯を食ふ時は食卓へ、机に居るときは机の上 どうもありがと 縫い物そのうち送る カヲルどの」と返事が来た。東洋城は巨星塔氏の初孫、弘さんを自分の孫のように愛した。

東洋城の鼻のサイン

「きみのかいた絵をおぢいちゃんがおくってくださった おもしろい じょうづにできたね ひろむくん」東洋城は消息の末尾に鼻を一筆で書いた。
東洋城は鼻の高い美男子であった。

河之内の棚田 「月照るや 向かひ棚田の 段小百」東洋城